甘い香り
営業が終了した深夜。
寝支度を整え、ベッドへ座ったフロガの頬を天狐の柔らかな尻尾が撫でた。
その度し難い良い匂いに、フロガは思わず鼻先を埋める。
「起きてたんだ」
そう声を掛けると、布団の中から狐の姿をした天狐が出てきた。
眠そうに目を細めているということは、起きたというよりは起こしてしまったのだろう。
ゆったりと動く尻尾を踏んでしまわないように布団の中へ入り、眠そうな顔をしている天狐の隣に寄り添う。
すると今度は、甘い香りがした。
尻尾の匂いとは違う、まるでお菓子のような……いや、これはお菓子の匂いだ。
「明日のおやつ用のクッキー食べただろ」
「…………食ってない」
「本当に? ……あ、クッキーの欠片が落ちてる」
「馬鹿な。 ベッドの上では食ってないぞ」
「やっぱり食べたんだな。 寝る前に食べるなって言ってるだろ」
「わかりやすい場所に置いておいたお前が悪い」
ふふん、と天狐が鼻先を持ち上げる。
それからまた尻尾を絡めてきた。
こうすればフロガが喜ぶ事を知っているからだ。
天狐の思惑通り、柔らかな被毛に包まれれば思わず頬が緩む。
「……明日はおやつ抜きにするからな」
そう言いながら抱き締めると、天狐は目を閉じた。
言っている事とやっていることがチグハグだと、フロガは大きなため息をつく。
──動物の尻尾というのは、かくも魅力的なものである。 とりわけ天狐の尻尾は九本もある上に毛が柔らかく、肌触りも良い。 おまけに良い匂いがするのだ。
匂いの正体はわからない。
とにかく、甘くて馨しい、表現し難い「良い匂い」だ。 普段から菓子ばかり食べているから甘い匂いがするのだろうか。
この尻尾に包まれると、フロガは何だか心が落ち着く気がした。
それに、夜は天狐の無防備な寝顔や柔らかな尻尾と耳、そして馨しい香りと体温を堪能することができる。
全てを腕の中に収めているこの瞬間が、たまらなく幸せなのだ。
そんな幸せを噛み締めながら、フロガは今夜も眠りに落ちた。
──朝起きると、天狐は狩りに出掛けているため、いなくなっている。
フロガも朝の支度を整え、着替えをして厨房に立ち、食材が入った魔具を開けた。
魔具の中の食材はいつでも買ったときのまま、新鮮な状態を保っている。 大容量なので買い出しも定休日にすれば充分だ。
火は天狐の魔術で丁度良い火力になるし、鍋型の魔具は食材と調味料を入れておくだけですぐに煮込み料理が出来上がる。
パンも材料を入れれば発酵から形まで整えてくれる魔具を使う。 あとは窯の中に入れれば焼き立てをいつでも出せるのだ。
食材を切り、鍋で煮込みを始めて香りが立つころ、天狐が帰ってくる。
「おはよう、天狐」
「ああ」とだけ素っ気ない返事が返ってきた。 偶に「おはよう」と返す事もあるが、それは年に二、三回である。
仕込みの手を止め、朝食をカウンターに並べていくと天狐がフロガの隣に立って顔を覗き込んできた。
「フロガ、今日のおやつはチョコレートのクレープとクッキーにしろ」
ふわり、と尻尾の柔らかい被毛が首筋を撫でる。
それから天狐は、小首を傾げてフロガの服の裾を掴み、琥珀色の瞳で甘えるように見上げた。
こうすればフロガが言う事を聞くと思っているのだ。
……実際、半分くらいの確率で言う事を聞いてしまうのたが。
「しょうがな……いや、駄目だ」
「なんでだ」
「昨日の夜、俺に黙ってクッキー食べたから今日のおやつは抜きって言っただろ」
ちっ、と小さな舌打ちが聞こえた。
甘えたような瞳はいつもの鋭い眼光を灯らせてフロガを見る。
柔らかな尻尾は未だにフロガの首筋やら耳やら頬やらを撫でているが、その誘惑には負けない。
「朝ごはん出来てるから食べなよ」
言われて、天狐が仕方なく席についた。
おやつは出さないが、代わりに朝食は甘いものだ。
メープルシロップがたっぷり掛かったホットケーキ、サラダとスクランブルエッグ、野菜スープに、林檎とバナナが入ったヨーグルト。
並べられた朝食を見た天狐が口の端を吊り上げて、尻尾をふわふわと揺らした。
「上出来だ」
「そうだろ」
天狐がホットケーキを頬張る。
表情こそ殆ど変わらないが、相変わらず忙しなく揺れている尻尾と、ピンと立った大きな耳が喜びを表していた。
フロガは天狐が嬉しそうにしているのが大好きだ。
だから、甘やかすのは良くないと思いつつも、つい甘くしてしまう。
「美味しい?」
「いつも通りだ」
いつも通り美味しい、という意味だ。
そして、フロガは実は知っている。
天狐は朝食よりも甘いものよりも、こうして一緒にいる時間が好きなのだということを。
それを決して口に出さないことも、その理由も。
理由はつい最近知ったのだが、その事を思い出すと今すぐ抱き締めたくなるので仕事中はあまり考えないようにしている。
食事が終わると天狐は二階へ行く。
ふわふわと揺れる尻尾がフロガに触れて来たので、それに頬を寄せて大きな耳ごと頭を撫でてやると、天狐はまた口の端を吊り上げてフロガを見やってから、二階へ登っていってしまった。
今すぐ追いかけて抱き締めたくなるのを再びぐっと堪える。
(我慢、我慢……)
あまりスキンシップを増やすと、天狐が煙たがるのだ。
本当なら、事あるごとに抱き締めたいと思うし、おかえりやただいまのキスをしたいと思っているのだが、それとなく提案した時に物凄く渋い顔をして拒否されたので、なるべく我慢している。
我慢できているのかと言われると微妙なところだが。
「今日も頑張るか」
誰に言うでもない独り言と共に、フロガは自分の両頬を叩いて気合いを入れた。
昼時になると、常連客がちらほらと見え始める。
他愛のない話をしたり、たまに心配事を相談されたり、大体はそんな穏やかなランチタイムだ。
客が減って、閉店時間も近くなってくると、天狐が二階から降りてきて、カウンター席の隅に座る。
無言で昼食を催促しているのだ。
「はい、どうぞ」
「ああ」
今日はビーフシチューのランチプレート。
一口食べると、天狐は満足そうに息を吐いた。
尻尾は出ていないが、嬉しそうにしているのは何となくわかる。
黙々と食べ進めていき、綺麗に完食したところで天狐がフロガを見上げた。
「ちょっと出掛けてくる」
「えっ」
思わず声が出た。
天狐は基本的に朝やフロガに頼まれた買い物以外はこの店から殆ど出ない。というより、あまり一人で出たがらない。
それなのに、一体どこへ行くというのだろうか。
「どこに?」
「夜までには帰ってくる」
聞いてみると、天狐は行き先を答えずに立ち上がって出て行ってしまった。
得も言われぬ不安がフロガを襲う。
「……大丈夫かな」
天狐は顔が良い。
態度は悪いが黙っていれば振り向く者も居る程に。
街に出れば声をかけられることもあるし、店で客にちょっかいを出されることだってある。
しかし、心配なのはそこだけではない。
天狐は気に入らない事があると躊躇わずに相手を燃やそうとするのだ。
「いや……やっぱり危ない気がする」
運良く店内には客はいない。
閉店まではあと一時間。
フロガは大きな紙にペンを走らせた。
『都合により、本日は閉店致しました。 申し訳ございません』
簡潔に書かれたそれを扉に貼り付け、フロガは店を飛び出した。
天狐はまだ遠くへは行っていないはずだ。
あの容姿だからすぐに見つけ出す事もできる。
──周辺を見回しながら歩いていると、歩いている天狐を見つけた。
すかさず物陰に隠れて気配を消し、様子を見る。
目立たないようにその辺の店で外套を買って素早く羽織った。
それから、じっと様子を観察する。
天狐はカフェの前で立ち止まると、メニュー看板に描かれているチョコレートケーキをじっと眺めていた。
まさか、ここで待ち合わせでもしているのだろうか。
そこへ、いかにも軽薄そうな男が近寄ってきた。
「ねえ、きみ一人? 暇なら俺と一緒に遊ぼうよ」
どうやら、待ち合わせではないらしい。
天狐は無表情のまま鋭い瞳で男を見据えていたが、やがて無視して歩き始めた。
釣れないとわかると、男も潔く離れていく。
「目ぇ恐っ……」
フロガとすれ違いざま、男の呟きが聞こえた。
もし、この男がしつこい男だったら燃やしていたかもしれない……。
フロガは背筋が冷たくなるのを感じて、天狐の後を追った。
飲食店の多い南区を抜け、東区へ向かっていく。
悟られないように一定の距離をとり、人混みに紛れながら尾行を続ける。
東区に来ると、日用品を売る店が建ち並ぶ通りに出た。
雑貨屋や服屋などが並ぶ中で天狐は、すい、と路地裏に入る。
フロガも続けて路地裏に入ったが……
「しまった」
撒かれた。
袋小路になっているそこに、天狐の姿はない。
尾行しているのがバレてしまったのだろう。
軽くため息をつき、壁にもたれて遠くを見た。
「どこに行ったんだろう……」
尾行がバレたということはそう簡単にフロガの前に姿を現さないだろう。
店を一つずつ覗いても良いが、この東区に用があるとも限らない。
「俺もまだまだだな……帰るか」
待っていれば帰ってくる筈だ。
フロガは踵を返し、来た道を戻った。
──ディナータイムの開店前、天狐が帰ってきた。
何事もなかったような顔をして、いつものようにカウンター席の隅に座る。
「おかえり。 俺の尾行撒いてどこ行ってたの?」
「そのうち教えてやる」
それだけ言って天狐は二階へ登って行ってしまった。
すれ違いざま、ふわりと石鹸のような匂いが香る。
(あれ? シャワーでも浴びてきたのかな)
反射的にそう思った瞬間、ゾッとした。
これは、まさか。
フロガは頭を抱えた。
しかし、必死で思考を回転させる。
(いや、違う。 そんな筈は無い。 そもそも石鹸の匂いがするからシャワーを浴びてきたなんて決めつけるのはよくない。 大体、もし仮に何らかの理由でシャワーを浴びたとして、誰かと一緒に居たとは限らない。 天狐は俺以外のヒトに近寄ろうともしないし、触られるなんて論外。 あれはきっと香水の匂い……そう、天狐は香水を見に行っていたんだ!)
──天狐は香水をつけない。
フロガは膝から崩れ落ちた。
「マスター、もう開いてるー?」
ドアベルが鳴って、入ってきたのは常連のドッドウェルだ。
カウンターの下から這い出てきたフロガの姿を見て「ひえっ」と、短い悲鳴を上げる。
「ドッドウェルさん、今日は開けません」
「な、なんでェ……?」
「すみません……代わりにこれどうぞ」
そう言いながら弁当箱に今日出す予定だった物を素早く詰めて渡す。
呆気にとられながら、ドッドウェルはそれを受け取った。
「なんかあったんだな……俺で良かったら今度話聞くよ、マスター」
ドッドウェルは若干引き攣りながらも、優しい笑顔を浮かべて帰っていった。
申し訳ない気持ちでいっぱいだが、とても仕事が出来る状態ではない。
フロガは昼同様、紙にペンを走らせ、扉に貼り付けて鍵を締めた。
食材を全て魔具の中にしまい、戸締まりと火を確認して二階へ登る。
住居スペースの扉を開けると、夕食を終えてソファでくつろいでいた天狐が驚いた顔をしてフロガを見た。
「どうしたんだ」
「その……急に、具合が、悪くて」
「……顔色が悪いな。 ちょっとここに座れ」
天狐が隣をあけ、ぽんぽんと手で叩く。
本当に具合が悪い訳ではないが、大人しく隣に座ると天狐の手が額にあてられた。
「熱はないようだな」
冷たくて柔らかい手が心地良い。
心配そうに揺らいでいる瞳も美しいと思ったが、なんだか悪い気もした。
「とりあえず、着替えて横になれ。 何か飲むか?」
「いや、大丈夫だよ」
「そうか」
天狐は一度寝室へ行くと、持ってきた部屋着をフロガに手渡した。
それに着替えてからソファへ横になると、天狐が少し安心したように頷く。
「ちょっとシャワーを浴びてくるから、何かあったら呼べ」
「えっ、シャワー浴びるの?」
「ああ……? 寝る前に浴びないと気持ち悪いだろ」
シャワー浴びてきたんじゃないの。
そんな言葉を飲み込んで、フロガは首を振った。
「いや、そうだよな」
「お前はゆっくり休んでろ」
そう言うと、天狐は浴室へ行ってしまった。
一人になったフロガは、ぼんやりと天井を眺めて浴室から聞こえてくる水音に耳を澄ませる。
天狐はどこに行ってきたかそのうち教える、と言っていた。
特に隠すつもりもないようだが、やはりあの知らない匂いを纏ってきたことが気になる。
一体、どこへ行って誰と会っていたのだろう。
誰かと会っていたとして、何処で知り合ったのか。どうして会うに至ったのか。
もし、その誰かが天狐の心を掴んでいたら……
フロガはそこまで考えて、体を丸めた。
「こんなこと、考えて良いことじゃない」
強い独占欲が心の内に根を張り巡らせているのを、フロガはふすふすと感じていた。
もし、天狐が自分より好きな者を見つけたのであれば、想いは尊重してやらなければいけない。
そんなことが出来るだろうか。
できないかもしれない。
──しばらく目を瞑っていると、嗅ぎなれた匂いがした。
目を開ければ、シャワーから戻ってきた天狐が顔を覗き込んでいた。
魔具で乾かしてきた長い金の髪がフロガの頬にあたり、火照った瞳がじっと見つめている。
「大丈夫か」
「……大丈夫だよ」
そう答えて起き上がると、天狐がやんわりと表情を緩め、隣に座って身体を寄せた。
柔らかな尻尾がフロガの身体を包み、蕩けるような甘い香りに囲まれる。
ふわふわとした感触に身を委ねていると、天狐の細い腕がフロガの首に絡んだ。
たわわな胸元に引き寄せられ、軽く抱きしめられる。
「疲れているんじゃないのか。 どうせ趣味でやっている店だし、定休日を増やしたらどうだ」
天狐は、偶にこうして甘えさせてくれるときがある。
ふくよかな胸と尻尾の柔らかな被毛に包まれるこの瞬間、それは至福だ。
──この至福を味わうのは、俺一人で良い。
他の誰にも譲らないし、渡す気もない。
そんな風に湧き上がる気持ちをぐっと抑え込み、フロガはゆっくりと顔を上げて天狐に微笑んでみせた。
「大丈夫だよ。 疲れている訳じゃない」
「……そうか。 無理はするなよ」
天狐の長い前髪が、さらりと揺れて目元に影をつくった。
それを指先で触れて払ってやり、滑らかな肌を撫でて頬を包む。
すると天狐は目を細めて、フロガの大きな手の中で幾度が頬を擦り寄せた。
「なあ、天狐」
「なんだ」
「今日、どこ行ってたの?」
「ああ……なるほどな。 それが気になってたのか」
察しがいい。
甘えたような表情が、一瞬で呆れた顔になってしまったのが勿体無く感じたが仕方が無い。
「お前が一人で出掛けるなんて珍しいし……なんか、石鹸みたいな匂いもしたから」
そこまで言うと、天狐がいつものような狡猾な笑みを浮かべた。
「知らない匂いがしたから不安になったのか? お前は本当に馬鹿だな。 ちょっと待ってろ」
ソファから離れて、天狐が寝室へ入っていく。
すぐに出てきたと思えば、手には小さな紙袋を持っていた。
再びソファに腰掛け、フロガに向き直る。
「手ェ出せ」
出せと言われて素直に出すのは少々癪だが、フロガは大人しく左手を差し出した。
紙袋の中から取り出されたのは、オレンジ色の小さな平たい缶。
それの蓋を開ければ、中にはもったりとした白いクリームが詰まっていた。
「ハンドクリーム……」
「そうだ」
「……なんで?」
「冬になると手が荒れるだろ」
天狐の細長い指が、クリームを取る。
そして、フロガの手を掬い上げて塗り始めた。
微かに香ってくるのは、異国の花のような、不思議で爽やかな香りだ。
「なるべくお前の匂いに近いものを選んだ」
「俺の匂い……? ってどんな匂いだよ」
「爽やかなような甘いような……よくわからない匂いだ」
そう言われても自分の匂いなどわからないが、天狐が満足そうに口角を上げているということは、近い匂いがするのだろう。
丁寧にマッサージしながら、ぬるついたクリームを馴染ませる天狐の細い指が心地良い。
同時に、片方だけ手を出したのは失敗だと思った。
天狐の手と触れ合っているのは左手だけで、そちらばかりが潤っている。
「こっちにも塗ってくれる?」
そう言って右手を出すと、天狐は紙袋からもう一つ缶を取り出した。
今度はピンク色の缶だ。 中には同じように白いクリームがみっちりと詰まっていたが、香りはずっと甘くて華やかだ。
「これは……天狐の匂いに似てるな」
「そうか。 好きな方を使うといい」
嬉しそうな声色で返事をして、天狐は両手でフロガの手を包む。
指の間まで丁寧にクリームを塗り込まれる感触にフロガは目を細めた。
優しく撫でて包む柔らかい手や、肯うように包み込んでくれる尻尾。
時折見つめてくる、琥珀色の瞳。
それらすべてを独占できるのは、自分だけだ。
(他の誰でもない。 この、俺だけ)
自分の中に根を張っていた独占欲が満たされていく感覚に、そっと安堵する。
そんな気配を感じたのか、天狐が顔を上げた。
「ひとつ言っておく」
「なに?」
「こんなことしてやるのはお前だけだ」
「ああ、わかってるよ」
「なら、無駄な心配はしないことだな。 尾行なんかしやがって」
「尾行したのは、お前が問題を起こさないか心配しただけで……」
「本当にそれだけか? 自覚のない奴が一番厄介だな」
天狐が深いため息をつく。
その様子に、フロガはばつが悪そうに苦笑して誤魔化した。
「まあ多少は疑ってたかもしれないけど……でも、俺の尾行撒く必要あった? 一緒に買いに行けば良かったのに」
天狐の目が少しだけ見開かれる。
それから視線を逸らし、ぼそりと答えた。
「もうすぐお前の誕生日だろ……」
それだけ言われて、フロガは察した。
このハンドクリームは当日にプレゼントするつもりで買ったのだ。
本当なら、当日のサプライズとして内容を伏せておきたかったが、余計な疑いと独占欲を発揮したフロガのせいで今出さざるを得なくなった、というところだろう。
「ご、ごめん……」
「馬鹿だな、お前は」
「あー……うん、そうだな。 本当にごめん」
天狐の言う通り、馬鹿なことをしたと思った。
せっかく用意してくれたプレゼントを意味もなく渡す羽目になったのだから呆れるのも無理はない。
呆れを通り越して嫌気が差してしまっているのではないだろうか。
顔を伏せながら、フロガは絞り出すように呟いた。
「……こんな独占欲強いやつ、嫌だよな」
「嫌ではない」
答えはすぐに返ってきた。
天狐は更に続ける。
「最愛の者に必要とされて、嫌がる訳無いだろう。 それに、私も」
ゆっくり、子供に言い聞かせるように話していた声が止まる。
視線を上げて見れば、天狐が俯いて、また目を逸らしていた。
「『私も』……なに?」
「言いたくない」
「ええ……」
絶妙に気になる所で止められて、フロガは困惑した。
しかし言おうとしていた事は大体わかっている。
天狐だって、大概独占欲は強いのだ。
「なあ、俺のこと『最愛の者』って言った?」
「……黙れ」
鋭い口調ではあるが、その頬は僅かに紅潮している。
照れ隠しの口調も恥ずかしそうな表情も全てが可愛い反応だと思った。
しばらく黙って見つめていると、逸らされていた瞳が、ようやくフロガを見る。
「プレゼントはもう渡してしまったから、当日は別の物を用意してやる。 何か欲しいものはあるか?」
「じゃあ、『私も』の続きが聞きたいな。 あといっぱい好きって言って欲しいのと……あ、天狐の方からキ……」
「嫌だ」
即答、というより遮られた。
欲しいもの、と言われたから答えたのに酷い仕打ちだ。
「ひどい……俺の誕生日なのに」
「どうせ忘れてたんだろ。 無いのと同じだ」
「急に辛辣すぎない」
「まあ、何かしら用意してやる。 楽しみにしているんだな」
天狐の指先がフロガの顎をなぞる。
そのまま顔が近づいて来たので小さく唇を開いたが、鼻先同士が触れ合った所で止まった。
「……今日はここまでだ」
ぺちぺちと頬を叩かれ、囁きと共に天狐が離れる。
どうやらこれ以上はしてくれないようだ。
嫌だと言った割にここまでしてくれるというは当日のお楽しみ、という事だろう。
「そう。 じゃあ、楽しみにしてる」
大人しく引き下がると、天狐がいつものように口の端を吊り上げた。
それからソファから立ち上がり、寝室へ向かう。
「なあ天狐」
そんな天狐を呼び止める。
なんだ、と振り向いた天狐に向かって、フロガはハンドクリームを指差した。
「これ、ありがとう。 大事に使うよ」
「ああ、好きにしろ」
それだけ言って、天狐は先に寝室へ入っていった。
──フロガの誕生日当日。
今年はうまく定休日が重なってくれた。
いつもより遅い朝をベッドの中で迎えて、まだ隣で眠る天狐を起こさないように抜け出す。
朝の支度を整え、ブランチの用意をして、カウンターに並べ終わった頃にようやく天狐が起きた。
「おはよう、天狐」
声をかけると、ふわり、と尻尾を揺らしながら近寄ってくる。
それから、両の指先がフロガの顎に触れた。
右手は口元のホクロをなぞり、左手が目元のホクロに触れたとき、ようやく天狐が口を開く。
「おはよう、フロガ」
柔らかな尻尾がフロガに絡んで、甘い匂いに包まれる。
ゆっくりと近付いて来た琥珀色の瞳は、いつもより一層美しく見えた。




