野菜スープとサンドイッチ
夜のヴァルムは酒を扱う。
ディナーも出しているが、夜が更ければ客は酔っ払いがメインになってくる。 客層は良いとは言えない。
たとえば、突然喧嘩を始めるもの、急に泣き出すもの、吐くもの……と、酒の数だけ客の種類も豊富であった。
もちろん、普通の筋ではない者も来る。
今日のヴァルムには、そんな客が三人連れ立ってやって来た。
「よお、この店は何でも出してくれるって本当か?」
二人の男がドカドカと狭い店内を歩く。
一人は高そうな装飾品をジャラジャラと身につけた白いスーツの男。 もう一人はそれの子分と思われる、背の低い男。 そして二人の後ろから、黒い白衣を着た三つ編みの男がゆらゆらと遅れて歩いてきた。
なんだか顔色が悪いようだが、彼等よりも年若く見えるこの男は、彼等の財布か何かだろうか。 と、考えながらフロガは三人に軽く会釈をする。
「作れるものであれば、何でも作りますよ」
「そうかい、それじゃあ魔獣出してくれや! この前やってたって聞いたぜ?」
「食材がないので出来ませんね……」
「おい! 冗談だろ? 何でも出せるんじゃなかったのか!?」
白いスーツとその子分がテーブルを強く叩きつける。 その衝撃でカウンターに座っている客のグラスワインが揺れて零れた。
大きな声と音を立てる彼等に驚いたのか、近くに座っていた客がそろりと立ち上がり、後ろのテーブル席へ移動をする。
フロガは申し訳無さそうにアイコンタクトをしたあと、二人に向き直った。
「俺は錬金術師でも魔法使いでもないので、ここに無いものを出すことは出来ません。 他のお客様のご迷惑になりますので、お引取りください」
「はぁ!? 出せねえから帰れだとぉ? ふざけんなよ! 兄貴!こいつ、俺達に喧嘩うってますよ!」
「ああ、そうだな! おい、兄ちゃん。 俺達はお客様だぜ?」
「え? いや、そういう意味ではなく……」
フロガの言葉を無視して、男たちは騒ぎ立てる。
どうしたものかと考えていると、奥でじっとしていた黒い白衣の男が小さく口を開いた。
「待ち給え。 無いと言っているのだから仕方が無いだろう」
白衣の男は、会話がワンテンポ遅れているようだが、まともな思考の持ち主らしい。
二人の間に割って入ると男達は静かになり、彼の澱んだエメラルドグリーンの瞳がフロガを見つめた。
どうやら彼は、この男たちの財布ではないようだ。
「マスター、私は非常に腹が減っている。 もう一週間もまともな物を食っていない。 何かお腹に優しくてうまい物を作ってくれ」
舎弟がいるのに、なんで一週間も食べていないのだろう……。
そんな疑問を抱きつつ、フロガは「はい……」と歯切れの悪い返事をした。
それから厨房へ引っ込み、食材を並べて鍋にお湯を沸かす。
調理を進めていると、彼等の大きな話し声が聞こえてきた。
「先生! 一週間も飯食ってないんですか!?」
「そうだ……ここ数日の記憶がない。 私は何故こんなにも腹が減っているのだ……」
「先生!! しっかりしてください!!」
先生、と呼ばれる彼は医者か学者なのだろうか。
ぼんやりと曇った目は空を見つめ、黒い三つ編みを揺らして首を傾げている。
どうにも、心ここにあらずといった様子だ。
「ああ、すまない。 ついぼーっとしてしまった。 ところで君達は何を食べに来たんだ?」
「俺達ですか? 酒を飲みに来たんですよ」
「ほう、酒か……私も腹が満たされたら飲むことにしよう。 君たちも好きな物を頼み給えよ」
「金払うの俺達なんすけど……」
「聞こえんな。 なにか言ったかね」
「いえ、何も! 好きなもん頼まさせていただきます!」
二人はメニューを手に取り、文字を順番に眺めていく。
よく分からないが、この黒い白衣の男は彼等よりも上の身分のようだ。
そんな男の前に、フロガは出来上がった野菜スープとハムのサンドイッチを差し出した。
「お待たせいたしました。野菜スープとサンドイッチです」
「うむ。 では頂こう」
「マスター、俺らは酒だ。 エール二つと適当につまみを見繕ってくれ」
「かしこまりました」
最初の威勢は何処へやら、男二人は随分と大人しくなっている。
おそらく、スープの匂いを嗅いで腹でも減ったのだろう。 フロガはすぐにジョッキに注いだエールと、スープのついでに作ったキャベツの和え物を二人の前に置いた。
そんなフロガに、黒い白衣の男が澱んだ目を向ける。
「なんて美味いんだ……これは何かね」
「ただのスープですよ」
本当にただのスープだ。
キャベツ、ニンジン、たまねぎ、じゃがいも、それからサンドイッチに使ったハム。ただそれだけのシンプルなコンソメスープである。
「今まで飲んだスープの中で一番美味い。 このサンドイッチもだ。五臓六腑に染み渡るようだ……」
「そうですか……ありがとうございます」
空腹だからそのように感じただけだろう。
フロガはそう思いながら頭を下げたが、男はスープやサンドイッチを口に運ぶたびに、美味い美味いと声を上げた。
そのうちに、それを見ていた取り巻きの男たちがごくりと喉を鳴らす。
「ま、マスター……俺達も同じものを」
「え? はい、かしこまりました」
「待ってくれマスター! 俺も!」
「俺もだ、マスター!」
厨房へ戻ろうとすると、後ろのテーブル席にいる客からも声が上がった。
フロガは少し驚いたものの、すぐに笑顔に戻り、「少々お待ちください」と会釈をして厨房へ引っ込んだ。
四人分のスープとサンドイッチを調理し、カウンターへ戻る頃には空になった皿とスープボウルが置かれていた。
「おかわりだ、マスター」
黒い白衣の男は、それから三杯のスープとサンドイッチ二つのおかわりをした。
同じ注文をした男たちも大いに喜び、その後ろに座っていた客とも何故か意気投合をしている。
この時間のヴァルムは、酒の匂いよりもコンソメスープの匂いが店内を満たすという、珍しい現象が起こっていた。
「変な注文しちまって悪かったな、マスター。 それとあんた達にも迷惑かけちまったし、代金は俺に支払わせてくれ」
すっかり気を良くした白スーツの男は他の客の分もまとめて決済すると「また来るぜ」と言って、子分と共に店を出た。
──何故か黒い白衣の男を残して。
「彼等は私がいることを忘れたのだろうか」
「さあ……」
「私も帰る。 また来るよ、フロガ君」
静かに席を立った男が、黒い白衣を靡かせる。
ふらつく足取りで店を後にするのを見送ってから、フロガはそっとため息をついた。
「今日はもう閉店かな……」
夜の街から、喧騒が消えていく。
ヴァルムも灯りを消して、フロガはいつものように店内の掃除と戸締まりを終える。
二階へ上がって寝支度を整え、天狐が眠るベッドへ入って柔らかい被毛に頬を寄せた。
「なんか……つかれた気がする……」
いつもと変わらない筈なのに、何故だがどっと疲れた。
あの男たちのせいだろうか。
あんな言いがかりなど、慣れているはずなのに。
重たい瞼を閉じて微睡む中で、フロガは黒い白衣の男の澱んだ瞳を思い出した。
『また来るよ。 フロガ君』
──あの男は、何故自分の名前を知っていたのだろう。
そういえば、あの男の瞳は何処かで見たことがある。 何処で見たんだっけ……?
そんな疑問を抱きつつも、疲労感が勝る。
考えているうちに、フロガの意識は眠りの中へ溶けていった。
翌日。
ランチタイムが落ち着いた頃に、黒い白衣の男は再びやってきた。
昨日の取り巻きは連れていないようだったが、代わりに身なりの良い婦人を連れている。
小さな食堂には不釣り合いの綺羅びやかな装いと優雅な振る舞いは恐らくそれなりの家柄の者であろう。
「やあ、マスター。 ワンプレートランチを二つ頼む」
昨夜と同じ場所に座り、持っていた鞄を床に下ろして、男はランチを注文する。
その横に座った婦人は怪訝そうに眉を顰めて、店内を見回していた。
「……いらっしゃいませ。 すぐご用意しますね」
まさか昨日の今日で来るとは思っていなかったので、少々驚いてしまった。
そんなにあのスープの味を気に入ってくれたのだろうか。
気に入ってくれたのなら、喜ばしい事だ。
そう思いながら、フロガは二人分のワンプレートを素早く用意した。
「ねえ、先生。 本当にレストランでなくて宜しいの? ここは狭いですし……あまり良い物を出すようには思えませんわ」
「心配いりませんよ、エメリナ伯爵夫人。 私はここが良いのです」
「まあ……先生がそう仰るのであれば……」
渋々、といった様子ではあったが、エメリナ伯爵夫人と呼ばれた彼女は、それ以上は何も言わなかった。しかし、どうもここに来るのは乗り気ではなかったらしい。
会話が途切れたところで、フロガはランチプレートを持って厨房を出る。
何も聞いていなかったふりをしながら、二人の前にプレートを置いた。
「お待たせ致しました。 本日のワンプレートは鱈のムニエル、オレンジキャロットラペ、ほうれん草のキッシュとコーンポタージュスープです。 こちらは付け合せのパンと……食後には珈琲か紅茶をお出しするので、お申し付け下さい」
ムニエルに掛かった焦がしバターのソースがふわりと香る。
その香りに、黒い白衣の男は澱んだ目をほんの少しだけ輝かせたが、隣りにいるエメリナはワンプレートで一緒くたに出された料理を訝しげに眺めていた。
「では頂きましょう」
「は、はい……」
まずはキャロットラペから口に運ぶ。
シャキッとした食感と、酸っぱさの中にニンジン特有の甘みが口の中に広がり、柑橘の香りが鼻を抜けた。
その爽やかで甘酸っぱい味付けに、夫人が目を瞑る。
「美味いでしょう?」
「……ええ!」
感心したように声を漏らした夫人は、次にスープを飲んだ。
ほう、と溜息をついたかと思うと、すぐにキッシュへ手を伸ばす。
そんな様子に、黒い白衣の男はしたり顔でフロガを見た。
──反応に困ったので、とりあえず笑って誤魔化す。
「さて、メインディッシュだ」
男はフォークで切り分けたムニエルを口に運んだ。
夫人も釣られて一口食べると、の目が大きく見開かれた。
無言のまま二口目、三口目と食べ進める。
ふわっとした鱈の食感、焦がしバターのまろやかなコクとほんのりとしたレモンの酸味。
淡白な鱈によく合うソースが口の中でふわりと広がった。
「なんて美味しいの……! こんな小さくて廃れたお店でこんなに美味しいお料理を出すなんて……」
「そうでしょう? 私のお気に入りなんですよ」
得意げな男に同意するように、夫人は何度も首を縦に振って、あっという間に平らげた。
男はまるで常連のような顔をしているが、来たのはつい昨日である。
「マスター! 私に珈琲を」
「わたくしは紅茶をいただきます」
「はい。 ただいま」
注文を受けて、フロガはすぐに珈琲と紅茶を用意する。
カップを差し出せば、夫人はにっこりと微笑んで受け取った。とても先程まで怪訝そうにしていたとは思えない変わりぶりだ。
「さて……アルフレート先生。 例のお話なんですけれど」
「もちろん、持ってきています」
黒い白衣の男はアルフレートという名前らしい。
見たことがある気がしていたが、その名前には覚えがない。
やはり気のせいだったのだろう。
アルフレートは鞄から小指程度の大きさの小瓶を取り出して、夫人の前に置いた。
「これはかなり効果が強いので、使うときは一滴ずつにしてください。 それ以上入れれば気が狂ってしまうかもしません」
「わかりました。 代金はいつものお値段の十倍でよろしくて?」
「結構です……うむ、確認しました」
「ありがとうございます。 大切に使いますわ」
妙な取り引きをしている。
十倍の値段の液体とは一体なんだろうか。
少し考えたが、首を突っ込まないのが身のためである。
夫人は小瓶を大切そうにポーチへ仕舞うと、カウンターの奥にいるフロガを呼び、会計を済ませた。
「マスター、有意義な時間でしたわ。 次は夫も連れてこようかしら」
「ありがとうございます。 お待ちしております」
「では、ごきげんよう」
優雅にカーテシーをして、夫人は店を出ていった。
──アルフレートはまたも取り残されている。
「良くない取り引きをしていた、と思っているかね?」
「何がです?」
「先程の話だ」
小声で話をしてはいたが、聞こえているのはわかっていたのだろう。
とぼけてみたが、アルフレートは澱んだ瞳でじっとフロガを見つめている。
「他にお客様もいないので、何の取り引きでも構いませんよ」
「私は錬金術師でね……薬も独自で作っているんだ。 彼女には媚薬を売ってやった。 どうやら、夫婦仲がうまくいっていないらしく、夫に使うらしい」
何も聞いていないのにアルフレートは喋り始めた。どうやら、あまり人の話を聞かないタイプの人間のようだ。
このタイプは面倒くさいので、フロガは黙って聞き役に回ることにして、洗い終わった食器を拭きつつ、アルフレートの言葉に適当な相槌を打った。
「あれで上手くいけばいいが……一緒に住んでいるのだから、お互いに仲が良いほうがいいだろう? 幸せになってほしいものだ」
そうですね、とフロガが頷く。
澱んだ瞳とあまり変わらない表情でわからなかったが、それなりに夫婦仲を心配しているらしい。
十倍の値段はしっかり取るようだが。
「マスター、君は既婚者かね?」
「はい」
「美味いものを食わせてくれた礼に、媚薬の試供品をあげよう。 三回分入っている」
言いながら、アルフレートは鞄から小さな袋紙を取り出した。
中にはピンク色の袋に包まれた、小さなドロップが3つ。 傍から見ればただのお菓子にしか見えない。
「えっ!? いえ、あの、間に合ってます!」
「遠慮することはない。 私が作ったのだから効果は保証する! 見たことのない奥方の姿が見られるぞ!! 使ったらどうなったのか、効果はどれくらいだったか、その後の健康状態など、是非とも成果……いや、感想を聞かせてくれ!!!!」
「いえ! 本当に大丈夫なので!」
あんなに澱んでいたアルフレートの瞳がキラキラと輝いている。 暗かった声は唐突に高揚し始め、徐々に早口となって言葉の端々が活き活きしているのが妙に恐ろしい。
必死で断ると、アルフレートは少しだけ悲しそうな顔をしていたが、そのまま大人しく引き下がって冷めた珈琲の残りをすすりはじめた。
「……仲が良いのは良い事だ。 マスター、君はきっと優しくて気が利く旦那なのだろうね」
あれだけテンションが上がっていたのに、一瞬でいつもの澱んだ瞳と暗い声のトーンに戻った。
その落差に、フロガは困惑するばかりである。
「そ、そうでしょうか……」
「そうだろうとも。 君の料理からは気遣いを感じられる。 ……さて、そろそろ私も帰ろう」
返事をする前に話は打ち切られた。
……どこまでもマイペースな男だ。
立ち上がったアルフレートが昨日と同じように黒い白衣を翻して、ドアまでよろよろと歩いていき、振り返る。
「美味かったよ、マスター。 また来る」
「は、はい。 ありがとうございました」
ドアベルが鳴って、アルフレートはようやく帰って行った。
……今日もなんだかどっと疲れてしまった。 やはりあの男のせいだろうか。
飲み終わったカップを片付け、カウンターを拭こうとした所でカップの影に隠れていた紙袋を見つける。
これは先程、アルフレートが押し付けようとしてきた媚薬だ。
わざと忘れていったのか、鞄にしまい忘れたのか……。 もしかしたら取りに戻ってくるかもしれない。
フロガは浅い溜息をついて、その紙袋をカウンター裏の隅へ追いやった。
──後日、その袋を見つけた天狐が大変なことになってしまったのは、また別の話である。
それから一週間が経った頃だった。
夜のヴァルムに、いつもの顔ぶれが集まり始める。
「マスター久し振りぃ! エールひとつね!」
意気揚々と店に入ってきたのは、常連のドッドウェルだ。
この二週間程、姿を見せなかった彼はいつもと変わらない勢いでカウンター席の真ん中に座った。
「お久しぶりです、ドッドウェルさん。 二週間ぶりですか?」
「そうそう! 西の方に住み込みの仕事に行ってたんだ。 あっちも美味いものはあったけど、やっぱりここが一番だよ」
ドッドウェルが被っていたキャスケットを脱ぐ。
長くて黒い髪がさらさらと顔の横に流れ、エメラルドグリーンの瞳が、期待に満ちた色でフロガの持ってきたエールを見つめている。
瞬間、フロガはエールを落としそうになった。
ドッドウェルのこの表情、昼間に見たアルフレートと全く同じ……というよりは、同一人物にしか見えないのだ。
アルフレートに会ったときには、あまりにもドッドウェルと雰囲気が違い過ぎて気付けなかったが、他人の空似というレベルではない。
思わずまじまじと見つめてしまうと、ドッドウェルが首を傾げた。
「ん? どうしんだよ、マスター」
「失礼しました……あの、ドッドウェルさん、ご兄弟とかいます?」
エールを受け取り、飲もうとしたドッドウェルの手が止まった。
いつもの飄々とした表情から一転、緊張したような真面目な顔つきでフロガを見つめている。
「……なんで?」
「昨日の夜と今日の昼、ドッドウェルさんにすごく似た人が来まして……。確か、アルフレート先生、と」
「来たのか、あいつ」
「お知り合いですか?」
「……えー、ああ、うん。 俺の双子の兄貴。 そっくりでしょ」
笑いながら、ドッドウェルがエールを一気に飲み干す。
「エール追加ね。 あとは……なんか食い物ちょうだい」
そう注文するドッドウェルの目は笑っていない。
何か焦っているような、困っているような、そんな目をしていた。
あまり聞いてはいけない話だったのだろうか。
双子だからといって、仲が良いとは限らないというのを、フロガはよく知っている。
だから、それ以上は聞かずに追加のエールとつまみをドッドウェルに出した。
「ごゆっくりどうぞ」
「マスターの料理久し振りだなぁ! あはは……」
つまみを食べ終わり、エールを飲み干すと、ドッドウェルは早々に帰ってしまった。
──ドッドウェルは焦っていた。
アルフレート、というのはクリフ・リンドールが使う偽名の一つだ。
まさか、クリフがこんなに早く店を特定してフロガに会いに行くとは思わなかった。
クリフのあの性格上、絶対にフロガの事を気に入るだろうし、妙な薬品や発明品を押し付けて迷惑をかけるに違いない。
それに、もっと重大な問題もある。
とにかく、心のオアシスを何としてでも死守しなければ……。
ドッドウェルは早足で帰宅すると、勢いよくドアを開けた。
「騒々しいな。 二週間もどこへ行っていた」
「住み込みの仕事してくるって言っただろ! それよりクリフ、ヴァルムに行ったんだって?」
薄暗い部屋の中では、クリフが夕刊を広げていた。
騒がしくするドッドウェルには目もくれず、新聞の活字をじっと追っている。
昼に起きた事案の見出しを見て、にやにやと笑うクリフは不気味であった。
見出しには、こう書かれている。
『エメリナ伯爵ご乱心! 全裸で優雅な昼散歩』
何が面白いのか理解できない。
ドッドウェルはニヤついているクリフに、返答を促した。
「行ってきたんだろ。 アルフレートとかいう偽名使ってさ」
「ああ、行ってきたよ。 あのマスターが私のカボチャオバケから逃れた者なんだろう? ガラの悪い輩をけしかけても怯まない、実に肝の座った男だね」
「あんた、マジで最低だな! わざわざ反応見るために脅しに行ったのか!?」
「いいや、本来の目的は君が好んで食っているという料理だ。 食ってみたが、彼の料理は絶品だね。 人柄も良いし、店の内装は古いがそれもまた隠れ家的で落ち着いているし、居心地が良い。 何故もっと早く私に教えなかったんだ」
ドッドウェルは頭を抱えた。
やはり、あの料理の味とマスターを気に入ってしまったのか……と。
そうなると、この男が要求してくることは一つしかないのだ。
「明日はディナーに行くぞ。勿論、きみのおごりで」
「ぜっっっっったい、ヤダーーーー!!!」
クリフ・リンドールは自分では絶対に金を出さない。
稼いだ金は全て研究や実験で使うからだ。
ついでに仕事嫌いで、薬やら発明品やらキメラやらを作るくせに売りにはいかない。
金のない中で、身の回りのものは偶に会った客に支払わせているか譲ってもらっているというのを、ドッドウェルは知っている。
「とにかく、あんたが迷惑かけると俺が行き辛くなるんだから二度と行くなよ! あと、双子の兄貴って事になってるから余計な事言うなよな!」
「……わかったよ」
不服そうに返事をするクリフを見て、ドッドウェルは溜息をついて自室へ引っ込んだ。
すると、クリフがようやく顔を上げて、新聞を閉じる。
「……それにしても、行方不明と言われていたエリュプティオ卿の御令息が飯屋をやっているとはな。 教えてやったらきっと驚くだろうが……教えてやる義理はない」
そんな独り言を呟きながら、クリフは本棚の奥から一冊の古びたファイルを取り出す。
そこには数枚の写真と、どこかの小さな村で行った実験の詳細が記されていた。
その一文を、クリフはそっと指でなぞる。
「フロガ・エリュプティオ。 メロウラージュ伯爵、ベルフ・エリュプティオの令息。……どうやら、私のことは覚えていなかったようだな。 まあ無理もない、あれは酷い事故だった」
澱んだ瞳に、光が灯る。
口元に笑みを浮かべたまま、クリフはファイルの内容を噛み締めるように、一枚ずつ捲っていった。




