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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

残響

作者: ハブ熊

サトシは、何も聞こえない静寂の中にいた。彼の耳に届くのは、ただの無音。それは、幼い頃から常に付きまとっていた不協和音や違和感が消え去った、完璧な世界だった。サトシは満足そうに目を閉じ、その静寂を心ゆくまで堪能した。


サトシは音響エンジニア。日々、映像のポストプロダクションに携わっていた。

彼は幼い頃から、音の世界に囚われていた。周囲が当たり前だと認識している音の中に、常に不協和音や違和感を感じ取ってしまう。彼の耳には、世界が常に何かのノイズに汚染されているように聞こえていた。そのせいで、彼は友人たちとの会話に集中できず、一人でいることが多かった。そんな彼を理解してくれたのは、たった一人の祖父だった。祖父は彼に、古いレコードプレーヤーと、音響機材の仕組みを教えてくれた。ノイズを消し、クリアな音だけを抽出する技術。それは、彼にとって、汚染された世界を浄化する唯一の方法であり、自分を肯定してくれる唯一の居場所だった。

「消した音でも、意味はあるんだ。お前が消した音は、お前の耳の中にいる。」

そう祖父は言ったがサトシは夢中で機材を触っていた。


大人になった今、サトシは、その能力を仕事に注ぎ込んでいた。完璧な音を作り出すこと、それが彼の存在意義だった。

ある日、彼は廃墟となった遊園地のドキュメンタリー映像を編集していた。Pro Toolsのタイムラインに並ぶのは、ワイヤレスピンマイクが拾った風の音、きしむ鉄骨の音、そして錆びついたメリーゴーランドの音。その中に、他の音とは明らかに違う、楽しそうな「あはは!」という子供の笑い声が紛れ込んでいるのをサトシは見つけ出す。

耳を疑った。

フィールドレコーディングが行われたのは、遊園地が閉鎖されてから数十年後のこと。誰もいないはずの場所に、子供の笑い声。彼はその音をノイズと判断し、ノイズリダクションプラグインを使い、いつものように冷静に除去した。

しかし、その夜から、彼の耳は奇妙な残響を捉え始める。

テレビを観ていても、水の流れる音に混じって、あの子供の笑い声が聞こえる。それは、彼が昨日ノイズとして消したはずの音の、微かな残響だった。

「ファントムノイズか……?」

彼はうんざりした。ファントムノイズとは、マイクやケーブルの不調で生じるはずのないノイズのことだ。機材のトラブルは、この仕事で最も面倒なことの一つ。彼は徹夜で機材の点検を行った。マイク、ケーブル、アナログコンソール、すべてに異常はない。原因は特定できなかったが、翌日にはなぜか残響も収まっていたため、提出を急いだ。

数日後、上司に呼び出された。上司の声を聞くだけで、サトシの心臓は締め付けられるように速くなる。

「君、これどういうことだ?」

上司が再生したのは、彼が編集したはずの遊園地の映像だった。そこから聞こえてきたのは、微かに混じるヒスノイズだった。彼が完璧に消し去ったはずの、些細なノイズだ。

上司の「これだから素人は困る。ちゃんと確認しろ」という言葉は、彼には言葉として届かない。ただ、強い不快感を与える鋭いノイズとして、彼の耳に突き刺さった。

完璧な耳を持つと自負していたサトシにとって、それは軽く叩かれた程度だった。たった一度のミス、疲れていたせいだろうと、彼は特に気にしなかった。だが、それから同じことが立て続けに起こる。

古民家での取材映像から、女のすすり泣く声の残響が聞こえる。彼はそのありえないノイズに夢中になるあまり、本来取り除くべき微細なノイズを見落としてしまう。提出した。数日後、再び上司に呼ばれる。

「まただぞ、君。聞け」

上司が再生する映像には、微かに別のノイズが混じっていた。上司の苛立ちが声に混じるたび、それはサトシにとって耳障りな不協和音となり、彼を苛んだ。その後も、サトシのミスは続いた。スタジオの空調ノイズ、俳優のセリフの後のリップノイズ、さらには、本来ならば存在しないはずのデジタルノイズが混じっていたこともあった。彼の提出する作品は、以前のような完璧さを失っていった。上司の口調は次第に厳しくなり、その声は彼にとって耐え難い重低音のノイズのように響いた。同僚たちの冷ややかな視線も、静寂を破る高周波音となって彼を苛んだ。

そして、ある日。

「最近、調子が悪いのか? 悪いが、この簡単なドキュメンタリーの編集だけにしてくれ。この大きなプロジェクトは、別の者に任せることにした」

その言葉は、もはや上司の声ですらなかった。彼の耳には、ただのホワイトノイズの中に、自分の存在が否定される断片的な音だけが響いていた。完璧な耳を持つ自分を、上司は「調子が悪い」と評価し、そして自分の存在意義そのものだった「音を浄化する仕事」を、徐々に奪っていったのだ。幼い頃から唯一の居場所だった、ノイズのない世界を作り出す能力が、今やただの「不調」として扱われ、役立たずと見なされた。それは、彼の存在そのものがノイズだと否定されたような感覚だった。

その日を境に、サトシの耳は以前とは全く違う世界を聞き始めた。

街の雑踏の中、彼はこれまで意識しなかった無数のノイズに気づく。遠くの工事現場の微かな金属音、すれ違う人々の衣擦れの音、空調設備の微細な振動音、電柱を流れる微弱な電流の音……まるで、世界が意図的に彼を嘲笑うかのように、あらゆる音が耳に突き刺さってくる。

仕事に戻っても、彼の集中力は持続しなかった。これまでなら容易に除去できたはずの環境音、俳優の息遣い、服が擦れる音、マイクの微細なヒスノイズ……それら全てが許せないほど大きく聞こえる。彼はイコライザーを極端に調整し、コンプレッサーで音量を絞り込み、ゲートで不要な音を遮断する。タイムライン上のあらゆる音の波形を凝視し、少しでも不自然な箇所があれば、カットし、フェードアウトさせる。その作業は、まるで画面に現れた悪意を、指先一つで抹殺していくかのような強迫的な行為だった。

古民家での取材映像の編集。障子の開閉音に混じる微かな風の唸り、柱の軋みに隠れた虫の羽音、そして、確かに存在する「ひゅっ、ひゅっ」と息を飲むようなすすり泣く声。彼はそれらを徹底的に消し去る。だが、編集を終え、モニタースピーカーから音を出すと、以前は聞こえなかったはずの、さらに微細なノイズが耳につく。エアコンの室外機の振動、蛍光灯の点滅する音、そして、自分の心臓の鼓動までもが、異質なノイズとして彼の意識を支配する。

家に帰っても安息は訪れない。冷蔵庫のモーター音、壁を伝う隣人の生活音、深夜の静寂の中に響く自身の呼吸音……彼は耳栓をし、ヘッドフォンでホワイトノイズを流す。それでも、消し去ったはずの音の残像が、脳内でフラッシュバックのように蘇る。子供の「あはは!」という笑い声、息を飲むすすり泣く声、誰かの叫び声。

眠れない夜が続く。彼はますます外界の音に過敏になり、同時に、自分の内側から湧き上がるノイズに追い詰められていく。サトシは祖父の言葉を思い出した。

「お前が消した音は、お前の耳の中にいる」

頭の中に響く祖父の声に、サトシは狂いそうだった。

彼は仕事をやめ、部屋に引きこもる。引きこもって1ヶ月、サトシは身につけていた服が破けているのに見気づいた。

「これか…」

そうつぶやき、最後の「ノイズ除去」を決意した。


数週間後、アパートの管理人室に、近隣住民から複数の苦情が寄せられた。「隣の部屋から変な音がする」「なんだか異臭がする」。不審に思った管理人がサトシの部屋を訪れるが、応答はない。警察に連絡し、部屋の鍵を開けてもらうと、荒れ果てた部屋の床に、サトシが微笑み、床を叩きながら倒れていた。彼の耳は、何重にも巻かれた包帯で強く塞がれていた。

警察官は、彼の手に握られたフィールドレコーダーに目を留める。再生ボタンを押すと、流れてきたのは、波形ひとつない、完璧な無音のデータだった。

その完璧な無音の中に、誰も気づかない。サトシの耳を覆う包帯が、ゆっくりと血で滲んでいる。

そして、その無音の中で、サトシは満足そうに微笑んでいた。

はじめまして。

暇つぶしに処女作というものをやって見ました。

お楽しみいただけたら幸いです

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