『北川古書店』【1】船出の予感
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【1】船出の予感
二階のソファに寝転び、スマホの着信履歴を見ていた雅人の目に、同級生の桑野からのメールが飛び込んだ。
「内定が来た!」
思わず飛び起きた。三月一日、午後一時半のことだった。
雅人はW大学の文学部生。四月からは四年生になる。大手出版社を何社か受けたが、いまだ内定はなかった。父には「早く決める努力をしなさい」と言われていたが、本人に切迫感はなかった。
「雅人〜、電話〜!」
母の大きな声に、階段をドドドッと駆け下りた。雅人に電話がかかってくるのは珍しい。
「誰から?」
「勇さんからよ」
小さな声で尋ねると、母が答えた。雅人はすぐ電話に出た。
「雅人です」
「雅人君、ちょっと頼みたいことがあるんだ。家に来てくれないかな?」
「いいですよ。今から行けますが……」
「悪いね。待ってるよ」
叔父・勇の家までは徒歩二十分ほどの距離だったが、愛車のMINIで向かうことにした。
新十条商店街を抜けて行き、踏切りを越えても商店街は続く、午後三時から六時ごろまでは大混雑する。今は一時半なので、気を遣いながら通れる。
やがて〈弁当と総菜〉の看板が掲げられた上野商店が左手に見えた。そこを曲がると、二軒目の右側に叔父の家がある――はずだった。
だが、目の前に現れたのは紺色の外壁の建物。二階の窓の下に白い看板で「北川古書店」と大きく書いてある。左側の扉にも「北川古書店」と白い文字。そして右側にはショーウィンドウまである。
(いつの間に、本屋を始めたんだ?)、
雅人はしばらく車の中から眺めていた。
かつて小さな庭だった場所は駐車場になり、斜めに五台分の白線が引かれていた。奥に車を停め、もう一度見直してから自動ドアのボタンを押した。
ピンポン、と音がして扉が開いた。
「叔父さん、こんにちは……」
小さな声で店内に入ると、明るい照明の下に本棚がぎっしりと並び、その奥は事務所スペースになっていた。勇叔父が事務机の椅子に座り、手招きしている。
「雅人、来てくれてありがとう。まあ、座ってくれ」
雅人が椅子に座ると、叔父が尋ねた。
「身長、どれくらいある?」
「175です」
「俺より大きいな……」
そう言いながら、冷蔵庫からコーラを取り出し、雅人に手渡した。
「いつから本屋になったの?」
「去年の三月、定年退職したときにな。趣味で集めた本がたくさんあった。初版本の古書を主に集めていて、どれも大事に読んで、大切に保管していたんだ」
「そういえば、両親が亡くなられたのも去年でしたね。僕もお参りに来ました」
「あのときは手伝ってくれて助かったよ。大事な本ばかりだけど、必要としてくれる人に直接渡したくて、古書店を開くことにしたんだ」
「一か月かけて一階を改装して、本が足りない分は仕入れた。古物商の許可も取ったよ。古書の買い取りと販売、店員は俺ひとり。粉塵の多い工場勤めで塵肺になってね。退職のときには分かってたけど、会社からの保証もあるし……静養しながら暮らそうと思って始めた」
「相談は誰かに?」
「ある人にはしたよ」
叔父はニッコリ笑った。
そして本題に入った。
「実は先月、検診で医者に言われたんだ。『しばらく静養すれば進行は遅らせられる』って。場所は長野の蓼科。五十日間の静養と検査だ」
「五十日ですか?」
「そう。昨日まで迷ってたが、やっぱり店を休むのはもったいなくてな。悪いけど、バイトで店長をやってもらえないか?」
「えっ、僕が……ですか?」
「文学部だし、小学生のころ作文が新聞に載ったこともあっただろ。向いてると思う。バイト代は月八万円だけど、どうかな」
突然の話に、雅人は即答できなかった。
「学校が始まると難しいと思いますけど……」
「それなら午後三時から六時まで、土日は午前十時から六時までの営業にする予定だ。お客にも案内を書いて貼っておく。時間が決まっていれば、それなりに来てくれる」
「……明後日から蓼科なんですよね?」
「そう。明日は一日、説明と引継ぎをする」
話を聞いているうちに、雅人の心は次第に動き始めていた。
叔父はノートを取り出した。
「必要なことは全部、ここに書いておいた。古書の分類、仕入れ価格と販売価格の決め方、レジの操作も説明する」
ノートにはびっしりと細かな字が並んでいた。雅人はそれを見て、「これ一冊で古書店が開ける」と感じた。
「掃除も大事だ。注意点も書いてあるけど、念のため口でも説明する」
営業時間、開店プレート、ネームプレート――
「これは君の分だ」
渡された名札には「北川古書店 店長 北川雅人」とあった。
ちょうどその時、数人の客が来店した。
対応を見ているうちに、雅人の理解は深まり、興味もわいてきた。
そんなとき、十代の少女が元気よく入ってきた。
「おじさん、数学の本ある?」
「雅人、見てやって。受験用は新しい本が並んでるから」
一冊を選んで渡すと、少女は言った。
「塾に行ってるけど、もう少し違う先生に教えてもらいたいの」
「この人、雅人君。W大学で来月から四年生だ。教えてもらったら?」
「お願いしますっ」
肩までの髪を後ろでまとめ、笑顔がまぶしい高校生だった。
「この子は上野商店の看板娘。よろしく頼むよ」
「ああ……」
ひとつ問題が増えたようだった。
「和ちゃんの家は母子家庭でね。兄の周平君と母の紀子さんが商売してる。和ちゃんはいい子で、手伝いながら勉強も頑張ってるんだ。夕方、少し見てやってくれないか」
叔父は申し訳なさそうに手を合わせた。
その後、六時を回っわり、叔父が夕食の弁当を買って戻って来た。
事務机に並べられたのは、特別弁当、おつまみ、そしてビールとお茶。
「明日はトレーニングの日。そして明後日からは一人立ちだ。よろしく頼む。乾杯しよう」
「ひとりで食べると味気ないが、雅人と一緒だと美味しいよ。二階は住めるようになってるから、遅くなったときは泊まっていけばいい」
こうして、雅人の古書店勤務が始まることになった。
帰宅して両親に話すと、
「手助けができるならいいし、自分で決めたんだったらいいんじゃないか」
と、あっさりとした返事だった。
【2】幻影の夜 を続けてとうこうよていです。
よろしくお願いいたします。