養殖
海苔の養殖について説明するため、浜辺の漁師小屋に向かった。
立て付けの悪い引き戸を開けた先には、やたらとごつい海の男たちが勢揃いしている。
だがまあ男所帯には慣れているので、別に驚きはしない。少しだけむさ苦しいだけだ。
それよりも自己紹介も程々に、早速本題にはいる。
今川さんの役人が先に話をつけてくれていたので、最初から聞く姿勢だ。
私は海苔の養殖するのに必要な工程を、一つずつ丁寧に説明していった。
第一に、海苔の生態を調べる。
第二に、海苔の胞子をヒビ網に付着させる。
第三に、海苔が育ちやすい環境にヒビ網を適時移動させ、収穫まで管理する。
海苔の養殖は、言葉にするとたったこれだけである。
しかし、聞くとやるとは大違いだ。
これからは互いの意見のすり合わせの時間である。
「海苔がどのように増えているかなど、知らんのだが?」
「海の植物は水中に胞子を飛ばして増えます。
ですがそれは人の目では殆ど見えないほどに、小さいのです」
胞子以外にも色々飛んでいるかも知れないが、他にはパッと思いつかなかった。
なので取りあえず海苔もそうじゃないかなと、過去の学習と想像で補ったうえで発言する。
顕微鏡で観察するという手段もあるが、アレはまだ試作品で数も少ないのでホイホイ貸し出すわけにはいかない。
最低でも松平さんと今川さんが合意しないと駄目だし、海苔の養殖で頻繁に使うかは疑問である。
私は一旦置いておいて、次の説明を始める。
「さらに養殖の安定化を図るには、海苔の生育を理解することも大切です」
「なるほど、そうでなければ不作もやむなしか」
「これでは、運ぐさと呼ばれても仕方ないな」
私としては、海苔なのに運ぐさとは何ぞやである。
だがまあ、時代によって色んな呼称があるのは珍しくない。
今はそんなことはどうでもいい。重要なことではなかった。
「他に海苔の情報はないのか?」
別の漁師さんが尋ねてきた。
私は少しだけ思案して、はっきりと答えを返す。
「ありません。陸と海では勝手が違います」
「ふむ、そうか」
そもそも陸に関しても、知らないことだらけだ。
海に関しては本当にさっぱりだった。前世でそれ系の勉強していたわけでもないし、大雑把にしかわからない。
だがそれでも、戦国時代の人より詳しいのは確かだ。
なのでこの後、養殖場の下見に行ったり、海苔の生育についてあれこれ考察したりする。
顕微鏡も自分が近くに居る間だけ使用許可を出し、最終的に集まった猟師の人たちは前向きに検討してくれたのだった。
なお蛇足だが時間を少し進めて、このあとの海苔の養殖について少しだけ語らせてもらう。
まず胞子をヒビ網に付着させる場所を見つけるまでは、毎年収量が増減する不安定なものだった。
それでも天然の海苔を探し回るよりは、断然効率が良かった。
養殖を教え理解が進んだのは良いのだが、顕微鏡で探し回ったら貝にくっついている糸状のモノが海苔であったことが判明したりと、なかなか面白い事件があった。
とにかく以降は江戸時代初期から庶民の食卓に並ぶほど、海苔の養殖が盛んになる。
値段も抑えられて良いこと尽くめだが、そのせいで稲荷神様は海の女神様であらせられるなどと、やたらと持ち上げられたのだった。
さらに板海苔が広く普及したことで、おにぎりには巻いて食べるのが主流となる。
そして上流階級だけでなく庶民に至るまで、とにかく幅広い日本の人々に親しまれるようになったのだ。
また、板海苔の元祖は小さな紙漉き工房から始まった逸話が、あまりにも有名になる。
そのせいで狐っ娘が試作を兼ねて海苔を漉いている姿も、絵巻物として記録に残ることになった。
ちなみに港町の全ての紙漉き職人は、とうとう資源の高騰で営業を続けるのが困難になり、頭を下げて若手の板海苔職人の傘下に入れさせてもらう。
時間を戻すが、海苔の養殖方法を伝授というか丸投げした後は、海の幸も食べて十分に満足した。
しばらく滞在し、今川さんの領内で十分に仕事をしたと判断して、そろそろ三河国の帰路につく。
後のことは今川氏真さんの采配次第だ。
後世の歴史家からの評価が良くなるように頑張ってくださいねと、帰る前に一言告げておいたのだった。
そうして色々あったが、私は永禄八年の冬が始まる直前に、懐かしい我が家に帰って来る。
もし雪が降り始めたら、私はともかくお供の人たちが危険だ。
移動速度はゆっくりになるし、最悪春になるまで何処かの町村で足止めもあり得る。
街道整備も進んでいない今の時代では、自然を舐めると命を落とす危険があるのだ。
だがそれはともかくとして、稲荷山の参道入口に毎年恒例の冬山登山禁止の立て札を出しておく。
その後、私は久しぶりに我が家に引き篭もれた。
冬は学校も閉めるので、小さな社務所の居間の囲炉裏で、狼たちと一緒に暖まる。
「そろそろ引っ越しの準備をしないと」
来年には江戸の稲荷大社が完成予定だ。
なので今後は、そちらに移ることになる。
振り返れば永禄三年の夏に戦国時代に転生してから、かれこれ五年以上もこの家で暮らしたことになる。
未来の記憶は頑固に残ったままだが、未練を断ち切るように家族や友人関係が軒並みさっぱりだ。
ホームシックにかかることはないけど、それでも少しだけ寂しさを感じる。
しかし今では、私の故郷はこっちの日本になった。
けれど前世の日本での、快適で平穏な暮らしが懐かしく、羨ましいと今でも思っている。
やはり命の危険があって、不便で飯が不味い戦国時代は嫌だ。
前世に帰りたい気持ちは、まだ少しは残っていた。
「でも帰還の手段は、見つかる気がしないしなー。
やっぱり、自分で快適で平穏な暮らしを実現させるしかないよ」
帰還の手段を探そうにも、その前に安定した衣食住を確保するのも大変だ。
そもそも自分が転生した場所で長年暮らしているのに、そういったイベントは全く起きる気配がなかった。
まあとにかく私は、戦国時代で少しでも暮らしやすくするためにと、色々と頑張ってきた。
表向きは民衆のためと言っているが、裏を返せば結局自分のためだ。
それも食欲優先で、願いを叶えようとしている。
だがある意味では、五穀豊穣の神という立場に上手く噛み合っていた。
難しいのは全ての知識や技術をバランス良く成長させないと、農業や食品分野が伸び悩むことだ。
これから江戸幕府が開かれて平和になれば、今よりもさらにできることが増えて、発展速度も加速すると思いたいが、まだまだ道半ばである。
何にせよ今後は富裕層だけではなく、庶民の暮らしも豊かになるのは間違いない。
そもそも上流階級だけ優遇するのは私が納得できないので、当然自分の仕事も増えることになる。
それに戦乱の世から脱しても、治安が劇的に良くなるわけではないのだ。
稲荷神と征夷大将軍の権威で、強引に抑え込んでいるだけだ。
戦の気配がなくなるまでは、お飾りだろうと最高権力者として立たなければならない。
だがもし叶うなら、少し早く松平さんにバトンを渡して退位したい。
そして普通の女の子に戻って、気楽な隠居生活を送るのだ。
私は今後について色々と思い悩みながらも、稲荷山での最後の冬を家族と一緒に心安らかに過ごすのだった。




