刺身
今は板海苔を無性に食べたい私だが、詳しい加工方法は知らない。
頭を捻って考えた末に紙漉き職人が思い浮かんだのは、前世で普段食べていた海苔は、紙のように薄くてペラペラだからだ。
つまり戦国時代の和紙の加工技術を活かせば、上手いこと加工できるのではと考えた。
まあいきなり成功はしないし最初は失敗するだろうが、食欲には勝てない。
もし駄目でも何らかのキッカケは掴めるだろうし無駄ではないと、楽観的に考えるのだった。
だが紙漉き職人が在住していないと協力は得られないため、湾岸沿いに半刻ほど西に走ったところにある。この辺りでは、もっとも大きな港町を目指すことになった。
そこには遠目ででもわかるほど、立派な船着き場がある。
戦国時代にしては、割と大型の船が出入りしていた。
さらに人の往来も盛んで、活気がある。
「この町の紙漉き職人は──」
港町の中に入ったところで、同行者が紙漉き職人の元に案内するために口を開いた。
だが私は、時間切れになったお腹を押さえて待ったをかける。
「先に食事にしましょう」
それを見た彼は、何かを察したように苦笑しつつ小さく頷いた。
「そう言えば自分も空腹でしたね」
なお今川領でも、最近は一日三食を取り入れている。
まだまだ浸透には程遠いし、そもそも戦国時代は食料が不足しがちで、一日二食が多数派なのだ。
いわば何不自由なく三食ありつける私は、この時代における富裕層と言える。
自称神様と征夷大将軍なので当たり前なのだが、早く全ての日本人がお腹いっぱい食べられるようにしないと、色んな意味で美味しくご飯をいただけない。
平穏に暮らすのが最終目標ではあるが、私がいなくても統治機構が上手く回っていかないと、おちおち隠居もできないのだ。
なので天候不良や災害が起きても大丈夫なように、食料自給率100%越えを目指すのは確定である。
板海苔で少しでも足しになれば良いが、とにかく昼食を終えたらやるぞと気合を入れるだった。
なお、ご飯が食べたいと言ったのは良いが、案内役は港町の入り口で足を止める。
何やら考え込んでいるようで、どうしたのだろうかと私が首を傾げた。
すると、こちらに顔を向けて質問してきた。
「稲荷神様は生魚と焼き魚、どちらが好みでしょうか?」
確かにそれは悩んでも仕方ない。ちなみに私は、両方いける派である。
だが彼が言うには、生魚と焼き魚の美味い店はそれぞれ異なるようだ。
そういった理由もあって、今ここで決めなければいけない。
私は自分の要望を、はっきり口に出した。
「今日は生魚の気分ですね」
これには迷う必要はなかった。
そもそもこの時代は、衛生管理や保存技術がまだ未熟だ。
日が経った物は食材に火を通さなければ、安心安全に食べられない。
だが生魚を料理として客に提供するには、清潔で捕れたてという条件が必須になる。
港町なので、腹を下す可能性はかなり低いはずだ。
まあ私は毒を食べても元気いっぱいだが、お供も居るのである。
腹痛を起こさないないほうが、良いに決まっていた。
ゆえに、せっかく新鮮な海の魚が食べられる機会を逃すのは、とても勿体ない。
そういう理由もあり、本場のお刺身を期待して、私は控えめな胸を高鳴らせて道案内を任せるのだった。
彼が案内してくれたお店は、港からほど近い場所にあった。
そこそこ身分が高いか、銭を持った人御用達の高級店だ。
そこで提供された料理は、醤油をつけたお刺身を出してくれた。
ただまあ、大豆ではなく魚から採ったほうなので、匂いがキツイ。
早く一般庶民も気楽に食べられる時代が来れば良いのにと思いつつ、小さな口で咀嚼する。
ちょっと気になったのが、生魚の他にもキジ、カモ、たけのこ、茸等の様々な食材が一緒に出されたことだ。
これは、魚の安定供給が厳しい背景があるらしい。
まあ造船や漁の技術が未熟なので、かさ増しも仕方がない。
少しの波でも裏返ってしまう手こぎボートで海に出るのが普通で、殆どの船では沖まではいけないのが戦国時代なのだ。
それじゃ命がいくつあっても足りないし、魚を一度に持ち帰れる量も少ない。
そもそも網も耐久性が低そうだし、色々と課題は多そうだと感じた。
なお、生魚は獲れたてだったらしく、普通に美味しかった。
多分スズキかイワシだろうが、店主にお任せを頼んだので、正直何の魚かは良くわからない。
それでも味が良ければ、全てヨシである。
そこでほんの気まぐれだが、店主にはお礼をすると同時に、ある仕事を頼むことに決めた。
発酵食品の寿司は既にあるらしいが、京の都に滞在中に出してくれた鮒寿しは、私にとってのトラウマだ。
そして、きっとあと百年もすれば誰かが思いつく。
しかしそれでも、酢飯に生魚を乗せた寿司を少しでも早く広めたかった。
普段はお酒を作っている醸造屋から入手した、酢を使った寿司だ。
あとは味醂や砂糖で甘くする必要があるが、水飴で何とか誤魔化して欲しい。
一応の見本品として私の専属料理人に、現在試作中の寿司を握ってもらう。
素材とした使用した各種調味料も現時点では高級だが、いつか日常的に買えるぐらい安くなるはずだ。
ただし、自分がそれを見届けられるまで生きられるかはわからない。
きっと志半ばで天寿を全うするだろうが、それでもやれることをやったので後悔なんてあるはずなかった。
少しだけ黄昏はしたものの、やはり色気より食い気だ。
酢飯タイプと言えば、箱寿司、ちらし寿司、いなり寿司、巻き寿司である。
その際に前世を知る私からすれば、紙のようにペラッペラな海苔が必要なのは明らかだった。
今後、巻き寿司を再現するためにも、絶対に作らなければならない。
そして、美味しくいただくのである。
将来的に寿司以外にも、海苔を巻いた餅もいいなとぼんやり考える。
取りあえず昼食を終えて人心地ついたので、のんびりお茶を飲んでいた案内役に声をかけた。
「寿司も伝授しましたし、そろそろ行きましょうか」
すると厨房の奥から、店主や料理人を含めた従業員が慌てて出てきた。
彼らは姿勢を正して、一列に並んだ。
「稲荷神様のまたのお越しを! 我々従業員一同! 心よりお待ち申し上げております!
次回来店時には、必ずやご満足いただけるお寿司を、提供致します!」
そう言って、感極まった表情で深々と頭を下げる。
中には号泣している人も居たので、流石にちょっと引き気味になってしまう。
「こちらこそ、お刺身美味しかったです。
今後は私が教えた寿司を、全国に広めてくださることを期待します」
私としては、いつでも美味しいお寿司が食べたいのが本音である。
せっかく教えたのに、一つの店だけで秘匿されると困るのだ。
なので基本の作り方を包み隠さず積極的に広めてもらい、創意工夫は各々の店でしてもらう。
そうはっきりと伝えてから、最後に笑顔でごちそうさまでしたと告げる。
続いて、入り口の暖簾をくぐるのだった。
少し歩いて腹ごなしした後は、気持ちを切り替えて紙漉き職人の仕事場を目指す。
全ては板海苔を作るという目的のために、賑わう港町で注目を集めながらも、人混みをかき分けて進むのだった。




