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信仰

 子供たちを追って慌てて外に出た俺だったが、すぐ目の前には立派な神輿が鎮座していた。

 そして側には大勢のお侍様たちが緊張した表情で刀に手をかけており、少し手前に視線を向ける。


 そこには、まごうことなきお稲荷様が佇んでいた。


 さらに屈強なお侍様が何人も昏倒していたり、へし折れられた刀が地面に転がっているのも気になる。

 だが、そんなのは些細なことだ。


「貴方がこの子たちの親ですか?」


 地面に降り立った稲荷様は、何故かうちだけでなく宿場町中の子供たちに囲まれて、好き勝手に尻尾や耳を触られていた。


 俺や妻、そして他の者たちも子供らを止めようと外に飛び出したようだ。


 しかし、そこで行われていた光景は、あまりにも予想外過ぎた。

 なのでしばらくの間、全く動けずに呆然と成り行きを眺めてしまう。


 けれど、これはもはやどうしようもなかった。

 目の前の彼女がどのような立場なのかは、すぐ近くに鎮座している神輿を見れば容易に理解できる。


 なので、子供たちやその家族は、全員首をはねられるだろう。

 そして下手をすれば宿場町の連帯責任となり、一族郎党根切りもあり得た。


 慌てた俺は頭を地面に擦りつけるほど深く下げ、ひたすら許しを請う。


「自分はどうなっても構いません! なのでどうか! 子供たちだけでも!」

「稲荷神様! お慈悲を!」

「どうかお助けを!」


 遅れて外に出た妻や、他の町民も揃って土下座をし始めた。

 それを見た子供たちも、ようやく事態の深刻さに気づいたようだ。


 顔を青くした六歳の息子が、相変わらず右へ左へと揺れる尻尾に抱きついている四歳の娘を、慌てて引き剥がす。

 他の幼児たちもそれぞれの家族の元に慌てて駆け寄り、一緒になって頭を下げようとした。




 だがその途中で、紅白巫女服を着た稲荷様がにこやかに微笑み、続いてはっきりとした声で喋りかける。


「元気があって、大変よろしい!」

「「「……えっ!?」」」


 俺と妻や他の町人たちは、土下座をしながら唖然とした。

 今の発言をしたと思われる稲荷様に恐る恐る顔を向けると、彼女はまるで菩薩のように慈悲深い笑みを浮かべて、町民や子供たちを見下ろしていたのだ。


「あっ、あの……処罰は?」

「処罰を与えるなど、この私が許しません」


 稲荷様の発言を聞いて、一先ずお侍様に切られることはないとわかり、町民一同はホッと胸を撫で下ろす。


 しかし短い時間とはいえ、行軍を止めてしまったのだ。

 今一度謝罪させるため、子供たち全員をその場に座らせて、深々と頭を下げる。


「稲荷様の寛大なお心に、深く感謝致します!」


 命の危機を乗り切ったことに安堵すると同時に、稲荷様は本当に居たのだと確信する。


 耳と尻尾が常に揺れ動いていることから、作り物でなく本物なのは間違いない。

 先程慌てて離れた息子と娘だけでなく、周囲の者たちの視線もそれを追っているのがわかる。


 何と言うか、見られているのに気づいてないのは、稲荷様だけのようだ。


「感謝も謝罪も不要です。

 子供たちは、これからの日本を担う大切な存在ですからね。

 幼児の死亡率がただでさえ高いのに、些細な諍いで命を奪うなど──」


 稲荷様の言っている意味が、まるでわからなかった。

 日本を担う大切な存在、幼児の死亡率、どういうことなのか首を傾げる。


 なので、俺はつい尋ねてしまった。


「あっ、あの……それは、どういう?」


 しかし、よく考えれば今の発言は不遜にあたるのではと思い至る。

 けれど、もはやなかったことにはできない。


 幸いに目の前の稲荷神様は気さくな御方のようで、気にすることなく答えてくれた。


「私が天下を統一した後、そこの子供たちが新しい日本を背負って立つのだという意味です」


 その説明を聞いても、学のない俺にはすぐには理解できなかった。

 だが町民たちも含めて、たった一つだけわかったことがある。


「いっ、稲荷様が、天下を統一されるのですか!?」


 つまり足利将軍様の代わりに立つのは、三河の殿様ではなかった。

 目の前に居る稲荷様が天下を統一して、戦乱の世を終わらせるのである。


 これまでの常識を遥かに越えた何かが、起ころうとしていた。


「私が上に立たないと戦乱の世は終わらなさそうなので、仕方なく天下を統一するのです」


 全国の大名に命令できる立場になるので、普通なら誰もが大喜びするだろう。

 しかし稲荷様は本当に心の底から嫌がっているようで、何とも渋い表情であった。




 正直訳がわからないことだらけだが、彼女は大きな溜息を吐いた。

 続いて、すぐ側に鎮座している神輿のほうに顔を向ける。


「上洛中の休憩は終わりです。そろそろ出発しましょう」


 会話が切れたことで、稲荷様は鎮座している神輿に向かって歩いていく。

 そして下駄を脱いで小ぢんまりとした収納空間に仕舞うと、中央の分厚い座布団に静かに腰を下ろした。


「では、貴方たちが息災であることを願っています」

「いっ、稲荷様! しばしお待ちを!」


 だが神輿が担ぎ上げられる直前に、俺はあろうことか稲荷様を慌てて引き止めてしまった。


 その突飛な行動に、深い理由があったわけではない。

 しかし、新しい将軍様になる稲荷様のお慈悲で、宿場町の者たちは罪に問われることはなく、息災まで願われたのだ。


 この恩に報いることもなく黙って行かせては、申し訳が立たない。


「どうか! どうか! この宿場町で体を休めていってくださいませんか!」


 これに同調した町の者も深く頷き、慌ててあとに続く。


「町民一同が心を込めて、稲荷様とその御一行様を歓迎させていただきます!」


 これからの日本を背負って立つ稲荷様に、ほんの少しでも恩を返したかった。

 何より、長き戦乱の世を終わらせてくれると言うのだ。そんな凄いお方のお役に立ったという栄誉を逃したくはない。


 うちの宿場町は、稲荷様が一泊したことがあるのだと、代々の誉れにできるのだ。


 町民たちも、皆揃って稲荷様に深々と頭を下げる。

 中には祈りを捧げる者も居たが、それを見た彼女は何とも困った表情を浮かべた。


「ご厚意は嬉しいのですが、お断りさせてもらいます」

「そっ、そんな!?」


 稲荷様がすげなく却下したことで、俺を含めた町民たちの表情が絶望に染まる。


「別に貴方たちに非があるわけではないのです」


 彼女はそう告げて、断った理由の説明を始める。


「村町の食料や物資は、蓄えに余裕がないと聞いています。

 私たちを歓迎したせいで、宿場町の者が飢えたら本末転倒です」


 その言葉を聞いて、稲荷様は慈愛に溢れたお方だと理解した町民一同であった。


 そう言われたら、歓迎の宴を開いたり宿を貸すことはできない。

 黙って見送ることしかできない。


 そして、行軍中の乱取りをしないのも彼女のおかげだとわかった。

 何故なら荷車や馬に、兵糧が山程積まれていたのだ。


 しかもそれが長い列となっているので、準備は万端にしてきたことが伺える。

 もしかしたら大軍勢の殆どが、輸送部隊なのではないかと勘違いするほどだった。


「皆さんが日々の食事に困らなくなってからならば、歓迎の申し出を受けましょう。

 では、全軍進め!」


 多くの町民は、大軍勢の姿が見えなくなるまで稲荷様の無事と感謝の祈りを捧げた。


 この国の未来を担う新しい将軍様のお姿を拝見した者は、子供から大人まで一人の例外もなく信仰の対象となったのは間違いない。


 そして稲荷様の統治により、飢える心配がないほど豊かになった暁には、今度こそ歓迎の宴を開いて御恩を返すのだ。

 彼女は気づいてなくても言質も取ったことだし、町民一同はいつの日かと心に決めたのだった。

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