上洛
甲斐の奇病の最中となります。ご了承ください。
<農民>
最近になって、三河国の大軍が京の都を目指して街道を北上しているという噂が、まことしやかに囁かれ始めた。
このせいで、通り道となる周辺の地域は上を下への大騒ぎだ。
急いで荷物をまとめて逃げ出そうとする者、家の窓や扉を閉め切って通り過ぎるまで身を潜める者、銭や物資、さらには女子供まで差し出して身の安全を図る者。
人々の行動は千差万別で、そのぐらい世を騒がせる大事件であった。
ちなみに今年三十になる農民の自分はと言うと、最初は妻や息子と娘たちと一家全員で近くの寺に避難し、三河の軍勢が通り過ぎるまで匿ってもらおうと考えていた。
何しろ普段から住職はいつも、困ったことがあれば頼るのだぞと言ってくれていたのだ。
しかし本当にその時がきたとき、裏切られた気分になった。
寺院の土地には限りがあるとはいえ、寄付金を多く払った者を優先して保護すると意見を変えたのだ。
貧しい農民たちは、残念ながら寄付金も大した額は用意できず、寺の敷地内から裕福な人々が余裕の表情で見下していた。
十分に空きがあっても、立ち入りさえも拒否されたのだ。
理不尽な怒りが湧いてくるが、長年世話になった恩もある。
それに地元で幅を利かせている商人たちを匿っているので、ここで揉めると後々面倒になってしまう。
ならば近くの山や森に隠れようとして、この場は大人しく引き下がって家に帰り、急ぎ荷物をまとめていた。
しかしその途中で、三河国の軍勢は町村での略奪を一切行っていないので安全だという噂が流れてくる。
楽観視するのもどうかと思ったが、村人たちが避難して無人になった家々に、火事場泥棒が侵入しないとも限らない。
ならば少々危険でも家の中に閉じ籠もり、軍勢が通り過ぎるのを待つ。
もし不穏な気配を感じたら、急いで逃げれば多分大丈夫だと、そう判断したのだった。
少しだけ時は流れて、自分たちが住んでいる宿場町を三河の軍勢が通過する日になった。
何処の家も木枠の窓以外は完全に閉め切っており、屋内に引き篭もるか、寺院に避難する。
自分たち家族も、家の中でじっと身を潜めていた。
殆ど光が中に入らないので薄暗く埃っぽい。湿気った畳の上で、一箇所に集まって小声で会話する。
「お父。三河の殿様は何で京都を目指すんだ?」
「これは人から聞いた話しだが、将軍様か公家様に用があるらしい。
なので、京都を目指しているじゃないか?」
京都はたびたび戦乱に巻き込まれているが、大抵は将軍様や公家様が原因か、それらを巡っての権力争いだ。
そのような話を、旅の商人や村長から聞いた覚えがあった。
一つずつ思い出しながら、六歳になったばかりの息子や四歳の娘に、丁寧に説明していく。
「じゃあ三河の殿様は、将軍様や公家様に会って何をするの?」
恐怖で少し震えている娘の口が動く。
怖がりの四歳にしては、難しい質問をしてくる。
出来ればきちんと答えてやりたいが、俺も明確な答えを持っていなかった。
なので頭の中で整理をして、迷いながらも自分なりの言葉で話す。
「高い身分を要求するか。もしくは、将軍様を亡き者にして権力を握りたいか。そんなところだろうな」
他人からの情報と俺の想像が混じった答えだが、そこまで的外れではない気がした。
しかし、娘はなかなか鋭いところを突いてきたものだ。親の贔屓目かもだが、将来有望になりそうで大変結構だ。
「なあ、お父。もし三河の殿様が新しい将軍様に成り代わったら、この国はどうなるんだ?」
今代の足利将軍様も頑張ってはいるだろうが、戦乱の世は終わる気配は全くない。
だからと言って、三河の殿様に変わってどうなるかと聞かれても、評判も良く知らない自分にはさっぱりわからなかった。
「そればかりは皆目見当がつかんな。
統治が上手くいけば良いが、今の将軍様でも無理だしなぁ」
農民の自分たちにとっては、誰が上に立とうと構わない。
しかし今より少しでもマシな統治者であって欲しい。そう強く願うのも当然と言える。
「ねえ貴方? 三河国って、噂の──」
「ああ、稲荷神様が居るらしいな。だが、所詮は噂に過ぎんよ」
神の御業としか思えないような出来事が相次いで起きている三河国だが、余りにも現実離れし過ぎている。
だが明日をも知れぬ命になれば、藁にもすがる思いで三河を目指すために難民になる者も出るかも知れない。
しかし俺たち家族は違った。三河がかなり遠いのもあるが、街道の宿場町として人の往来が多い。
おかげで野菜が良い値で売れるのだ。身分は農民でも、貧しい山村よりかはマシに暮らせていた。
「それに将軍様になるのは、一国の殿様だと昔から決まっている」
本当にそう決まっているのかは知らないが、過去に将軍様になった人は皆、一国の主だった。今回もきっとそうだ。
そんなことを考えていると、家の外がにわかに騒がしくなってきた。
どうやら三河の軍勢が通過するようで、俺は木枠の窓に静かに近寄る。
続いて、僅かな隙間から油断なく外の様子を伺う。
「お父! 俺にも見せてくれよ!」
「私も! 私もー!」
「見るのは構わんが、二人共静かにするんだぞ」
いくら本当に略奪をしなかったとしても、騒ぎを起こして目をつけられると不味い。
お侍様は平民を斬ることに躊躇いがないだけでなく、明らかに多勢に無勢だ。もし逆らおうものなら、問答無用で殺されてしまうだろう。
なので俺たちは、街道沿いに建てられた掘っ立て小屋の隙間から、一家全員で街道を進む三河の軍勢を様子を窺うことにした。
最初は肩車していたのだが、それでは自分が良く見えない。
何より途中で疲れてきたので、適当な踏み台を持ってきて、息子と娘にはそっちに乗るようにと指示する。
「立派だなー」
「ああ、そうだな。宿場町を管理しているお侍様よりも、綺羅びやかに見える」
鎧姿だけでなく、馬まで着飾っている。
何というか他国と戦をしに行くのではなく、三河国がどれだけ凄いかを見せつけている気がする。
俺だけでなく、隣の息子と娘も完全に圧倒される。しばらくの間は、行列をじっと観察していた。
「ねえ貴方、それにしても随分長い行列ね」
「そっ、そうだな」
二、三千でも大軍には違いないが、それなら今頃は宿場町を通り過ぎている。
だが今街道を行軍している三河国の兵士は、先頭も後続も、どちらも見通せない。それ程の大行列になっていた。
正確に数えたわけではないが、少なくとも一万以上の軍勢に思えたのだ。
どれだけの時間が過ぎたか、最初は興味津々といった表情で進軍を見つめていた息子と娘も、あまりにも長い行列に飽きてしまったようだ。
そのため、今ではお侍様たちではなく、窓の隙間から空を飛ぶトンボや草地のバッタを、どちらが早く見つけ出すか競争し出す。
だがそんな息子と娘の瞳が、突然ある一点に釘付けになる。
信じられない者を見るような驚愕の表情に変わり、俺の言いつけを破って大声を上げた。
「お父! 狐の女の子が居る!」
「お狐しゃま! お狐しゃまを見つけたの!」
突然叫んだだけではなく、息子と娘は好奇心を抑えられなくなったようだ。
踏み台から飛び降りて窓際から離れると、そのまま家の玄関に向かって勢い良く走り出した。
「二人共、待つんだ! 外は危険だ! 行ってはならん!」
どれだけ焦っていても、草履に足を通したのは素直に褒めてやりたい。
だが俺の言葉は右から左のようで、止まる様子は微塵もなかった。
仕方なく自分も慌てて後を追うが、どうにも間に合いそうにない。
しかし親として子供たちを守るために、彼らが乱暴に開けた引き戸から躊躇なく外に飛び出したのだった。




