寿桂尼
武田さんが私に面会に来てから、しばらく経った。
これで終わりかと思いきや、またもや我が家に来客が訪れる。
彼女は寿桂尼さんと名乗り、そろそろ五十近いようだ。
その割に今川さんの領地から遥々やって来るぐらいなので、大変健脚で元気が良かった。
しかも向かい合って座るとやたらと鬼気迫っていて、何と言うか必死だ。
「稲荷神様! どうか孫の今川氏真のために、お力をお貸しください!」
一応は客人なので我が家の居間に招いたが、まさか寿桂尼さんが松平さんが人質にされていた今川家当主の身内だったとは知らなかった。
敵地に乗り込んでくるとは、命知らずにも程がある。
そして長山村の周囲は警戒厳重なので、松平さんの耳にも当然届いているだろう。
その上でわざわざ許可を出して面会までさせるとは、一体何を考えているやらだ。
少し前は可愛い子狸かなと思っていたが、最近の彼は腹黒タヌキにランクアップしているように思える。
(昔は人質にされてたのに、松平さんの懐の深さは大したものだね)
しかし松平さんは、今川をどうしたいのだろうか。
具体的なことは何も聞いていないが、私のスタンスとしては来る者は拒まずだ。
余程うざい相手でなければ門前払いはしない。
当然のように寿桂尼さんも、ちゃぶ台を挟んで向かい合ってお話し中だ。
(そう言えば武田さんは、ちゃんと家に帰れたのかな)
ふと思い出した武田さんについて考える。
敵だと判断したら問答無用で切り捨てるのが、戦国の世の常である。
私との話し合いが終わったあとは、何かを決意したような表情をしていた。
彼がこれからどう動くかは知らないが、自分や周囲が面倒を被らなければ良しだ。
取りあえず、いつもの棚上げをするのだった。
何にせよ今は、決死の覚悟でこの場に来た寿桂尼さんとお話するのが重要だ。
そして私は、基本的に行き当たりばったりで脳筋ゴリ押ししか出来ない。
松平さんの思惑がどうあれ、知略とか無理なので本音で語るだけだ。
その結果、彼女を深く傷つけるとしても、嘘をついてあとでバレるよりはマシだ。
なので今川への協力要請に対して、いつも通りに誤魔化すことなく正直に返答した。
「私は今川氏真さんに、力を貸す気はありません」
はっきりお断りした。
寿桂尼さんは、あからさまに狼狽えている。
だがまだ諦めていないのか、なおも食い下がってきた。
「では稲荷神様を祀るために、絢爛豪華な神社を新たに建てましょう!
何卒! 孫の今川氏真のために! お力添えを!」
居間で座って話している寿桂尼さんは、畳に頭を擦りつけんばかりに下げている。
見事な土下座だと感心するが、これでは断った私が悪者のように思えてしまう。
(寿桂尼さんが必死なのはわかったけど。やっぱり駄目だね)
やはり、今川に協力する気にはなれない。
私が彼女の味方になると言うことは、これまでお世話になった松平さんを裏切るということだ。
「松平殿と同盟を結び! 決して裏切りません! ですのでどうか!」
相変わらず、私の協力を得ようと頑張る寿桂尼さんである。
しかし、松平さんの信頼を裏切りたくない。
だが、今川に救いの手を差し伸べない一番の理由は、それではなかった。
取りあえず、まずは彼女にそのことを伝えることにする。
一旦落ち着いてもらわなけれは話が先に進まないが、なかなか難しそうだ。
それでもやるしかないと、私は小さく溜息を吐いてから、静かに声をかける。
「寿桂尼さん、頭を上げてください」
私は彼女の頭を、無理矢理にでも上げさせようとした。
なので正直に、自分の意見を説明していく。
「どのような条件を出されようと、今川氏真さんに力を貸せません」
「そっ、そんな!?」
頭を上げせた時の彼女の顔は、絶望に染まっていた。
そもそも、自分は立身出世には興味がない。
神社に祀られて民衆から崇め奉れたり、他者から尊敬を集めたいわけでもなかった。
ぶっちゃけ分不相応過ぎて赤面するほど恥ずかしいし、どんな好条件で出されても全く食指が動かない。
(それに戦国大名に力を貸すってことは、面倒な仕事を押しつけられってことじゃん)
自分はただ、毎日を平穏に暮らしたいだけだ。
寿桂尼さんは、そこが全くわかっていない。
どれだけ高収入や高待遇を約束されても、朝から晩まで馬車馬のように働かされては本末転倒である。
特にこの時代の大名というのは超絶ブラックだ。
コンビニの店長よりも年中無休ではないかと、松平さんを見てそう思った。
しかし、彼を振り回しているのは私だ。本当はもっとホワイトかも知れない。
だが何となく松平さんは、自分が居なくても相当な苦労人な気がしたのだった。
それはともかくとして、私は大きく溜息を吐く。
次に、寿桂尼さんにどうして断ったのかと、具体的に説明していく。
「まず言っておきますが、協力できないのは今川氏真さん、彼個人に対してです」
「えっ? あの、申し訳ありません。お言葉の意味がわからないのですが」
呆然としている彼女に向けて、私がこれから何をするつもりなのかではなく、成り行きでやらなければいけなくなったことを、頭の中で順序立てていった。
どうしても協力できない理由として、これらをはっきり伝える必要があったのだ。
「私は、近いうちに天下を統一します」
「なっ、何と!?」
寿桂尼さんが思いっきり驚いた。
まだ公表はしていないので、衝撃を受ける気持ちもわかる。
だがこれを打ち明けなければ話が進まないが、彼女は取り乱して大胡で叫ぶ。
「でっ、では! 足利将軍家は如何されるのですか!?」
「無駄な血が流れるのは好みません。
退位してもらったあとは、政治とは無縁の場所に隠居させます」
「そっ、そうですか」
何だか物凄く動揺して問いただしてきた。
きっと足利将軍家と、何らかの繋がりでもあるのだろう。
けれど、その辺りは私は全く興味がなかった。
自分の返答に安堵した雰囲気が伝わってきたので、構わず説明を続ける。
「天下を統一した後は、私は日本全国に五穀豊穣を与えるために多忙となります。
なので、彼個人への助力は不可能なのです」
ここまで聞いて、ようやく納得してくれたようだ。
寿桂尼さんは、嬉しそうな表情で何度も頷く。
「それは確かに、稲荷様の仰られる通りでございます」
本当は、征夷大将軍などやりたくない。
だが狐っ娘の体で平穏な暮らしを勝ち取るためには、泣きごとを言ってられないのだ。
それでも日本が平和になったら、徳川家康さんにバトンを渡す。
私は悠々自適な楽隠居生活に突入し、余生をのんびり過ごすという希望は残っていた。
「あの、稲荷神様」
「何でしょうか?」
真面目な表情を浮かべて姿勢を正した寿桂尼さんが、こちらに話しかけてきた。
何だか雰囲気が変わったので少し身構えてしまったけれど、緊張気味に答えを返す。
「上洛は、いつ頃を予定しておられるのでしょうか?」
「松平さんに任せていますので、彼の準備が整い次第ですね」
ただの一般人である自分に、政治や軍事のことを期待されても困る。
なので慣れている人や、現場に丸投げだ。
松平さんはまだ若いが大名をしていて、最近は腹黒タヌキが板についてきた。
さらには優秀な家臣の支えもあり、上洛の準備は順調に進んでいると聞いている。
「では、上洛となりましたら今川も! 末席で良いので加えていただきたく存じます!」
「私は構いませんが──」
「ありがとうございます! 言質は頂きましたので、これにて失礼致します!」
何か良いことでもあったのか、寿桂尼さんは嬉しそうな表情に変わっていた。
そして私に向かって深々と一礼して、勢い良く座布団から立ち上がる。
戦国時代の高齢者とは思えないほどの健脚で、社務所の引き戸を開けて外に出ていった。
彼女は連れてきた護衛たちと何やら話して、最後にもう一度満面の笑みを浮かべる。
こちらに深々と頭を下げた。
(一体何がどうなったのか。さっぱりわからないんだけど)
最初から最後まで、まるで嵐のようなおばさんだった。
けどまあ、個人的な協力ができないのは納得してくれたので、とにかくヨシだ。
私は自分の分のお茶に手を伸ばして、口に運んで静かに喉を潤す。
取りあえず話し合いは終わったので、次は立ち上がって戸棚からお煎餅を取り出しに行く。
書類仕事は相変わらず終わる気配がないため、のんびりペースで片付けていくのだった。




