武田信玄
永禄六年の秋の岡崎城下の稲荷祭が無事に終わった。それは良いことだ。
しかしその後、なし崩し的に私が幕府を開いて天下統一する流れになってしまった。
乱世がいつ終わるか読めなくなったので、やむを得ない事情があるとはいえ、世の中は順風満帆にはいかないものだ。
大きく溜息を吐くが、もう今さらジタバタしても変えようがない。
プランBは動き出してしまい、江戸に幕府を開いた後に、松平さんにバトンタッチして正史に戻すまでは、ノンストップでぶっちぎるぜである。
だがせめて、これまで歴史を滅茶苦茶に改変してしまったことと、これから先にもお世話になるお詫びも兼ねて、統治者の椅子は温めておかなければいけない。
ゆえに戦乱の世から完全に脱して、治安が良くなり日本中の民衆が平和を謳歌できるレベルに達するまでは、とにかく頑張るつもりだ。
具体的には相変わらず行き当たりばったりでノープランだが、ゴタゴタが片付いて江戸幕府が300年は続きそうだと実感したら、史実と同じように徳川家康さんに返還するのがせめてものケジメなのだった。
そんな面倒この上ない事情はともかくとして、時は流れて永禄七年の春になった。
まだ朝日が登っていない山の中腹の社務所に、麓の村の神主さんが困惑しながらやって来た。
彼は玄関の引き戸を恐る恐る開けて、書類仕事が切りの良いところまで進んだので、居間でお茶を飲んで一息ついていた私に声をかける。
「稲荷神様に、面会の希望者がございます」
「わざわざ伝えるということは、⋯⋯そういうことですか」
言われて彼の後ろを見る。
旅装束だが帯刀して隙のない中年男性の集団が、私を観察していることに気づく。
次にそのうちの先頭の一人が、数歩前に出て深々と頭を下げる。
「武田信玄と申す。本日はよろしく頼む」
「はぁ、武田さんですか」
私の知り合いに武田さんと名乗る人は居ない。
だが稲荷神を自称するようになってから、こういった飛び入りの面会希望者は珍しくない。
大抵は身分の高い人で、神主さんが断りきれないため仕方なく通されることが多い。
一応は松平さんの許可を取っているようだが、色々とややこしい事情があったりする。
また、本名が伏せられる場合もあった。
ちなみに今回は、偽名の可能性は低そうだ。
何故なら歴史の知識はからっきしでも、三河国に隣接する勢力ぐらいは知っているからである。
彼は三河と隣接する北東の国の統治者、武田信玄で間違いないだろう。
もうその時点で、嫌な予感しかしなかった。
「何はともあれ長旅でお疲れでしょうし、家の中にどうぞ」
それでも態度には出さずに、冷静に振る舞う。
稲荷神っぽくにこやかな笑みを浮かべて、彼らを迎え入れた。
「ありがたい。それではお邪魔させていただく」
「お供の方も、ご一緒にいかがですか?」
隙のない立ち振る舞いを行う者を、複数人引き連れている。
彼らの顔は藁傘で隠れていて見えないが、取りあえず全員を家の中に招く。
流石に室内では藁傘を外してくれたが、やはりと言うか全員がむさいおじさんであった。
しかし、この程度は予想済みだ。
たとえ彼らがいきなり刀を抜いて私に襲いかかってきても、鎮圧できるぐらいには強いという自覚がある。
それに家族である狼たちも含めて、交渉よりも荒事のほうが断然得意だ。
なので拉致か殺害を企んでも、無駄な犠牲が増えるばかりである。
今回の場合は様々な紆余曲折があり、最終的には当主自らが出向き、事の真偽を見極めなければと動いたのだろう。
殆ど直感だが、私はそう考えたのだった。
皆が中に入ると、武田さんが神主さんに席を外すようにと頼んだ。
彼は一礼すると玄関の引き戸を閉めて、そのまま麓の長山村に帰っていった。
一方で私は新鮮な緑茶を沸かして、ちゃぶ台の上に並べた湯呑に順番に注ぎ入れていた。
そして居間に上がってもらった武田さんと護衛の人たちのために、座布団を敷く。
少し座って待つようにと伝えて、やがて歓迎の準備が終わる。
「粗茶ですがどうぞ」
「感謝いたす。しかし、稲荷神様が行うのだな。下女か巫女にやらせれば良いのでは?」
私は彼らにお茶を出した後、急須を台所に戻しに行く。
武田さんのほうを向きもせず質問に答えていく。
「いつか一人になった時に困りますから、家では自炊をするようにしているのです」
松平さんにバトンタッチした後は、私は念願の隠居生活に突入する。
その際に、狼たちを連れて日本全国の観光及び食べ歩きツアーで、残り少ない余生を過ごすつもりだ。
下女や巫女を付き合わせることも出来るが、年寄りのわがままで振り回すのは申し訳ない。
それに始終神様のフリをするのは気が休まらないので、家族と一緒が一番落ち着くのだ。
「ふむ、どのような意味だ?」
「そのままの意味です」
なお、この計画は私だけの秘密だ。
武田さんに教えるわけにはいかないので、深くはツッコまないでもらいたい。
「なるほど、そう言うことか」
「はい、そう言うことです」
彼は何かを察したように、真面目な顔で深く頷く。良くわからないが、きっと勘違いしている。
いつか私自身の信仰が失われて、人々に忘れ去られて孤独に生きざるを得ない方面に考えていそうだが、それを訂正する気はない。
何故なら、いちいち言い訳するのは面倒だからだ。
統治者を辞めて普通の女の子として余生を過ごしたいなどと口にしたら、どんな反応が返ってくるか予想不可能なのだ。
とにかくお気に入りのマイ座布団を敷いて、静かに腰を下ろす。
ちゃぶ台を挟んで、武田さんたちと対面した。
「それで、今日はどんな御用でしょうか」
「噂の真偽を確かめに来た。……と言えばわかるか?」
いちいち思わせぶりなことを言う武田さんに、私は小さな手を口に当てて考え込む。
過去から現在までやらかしまくったことが噂になり、尾びれや背びれが生えて独り歩きしていることは知っている。
だが彼は、一体どの噂の真偽を確かめたいかを教えてくれない。
なので、こっちで勝手に想像するしかなかった。
取りあえず、一番確率が高そうな質問を当てずっぽうで口に出す。
「私が本物の稲荷神なのかを、調べに来たのですか?」
「その通りだ。そこで聞きたいのだが、お主が本物という証拠はあるのか?」
どうやら正解だったようだ。
しかし私が稲荷神の証拠と言われても、正直困ってしまう。
狐の耳と尻尾を例に出しても、妖怪だと断言される可能性が高い。
これらの事情を考慮した結果、ぶっちゃけ証拠など出せそうになかった。
なので嘘をつかずに馬鹿正直に、恥じることなく堂々と返答する。
「私が稲荷神である証拠はありません」
「「「……は?」」」
そもそも私は稲荷神の偽物だ。
民衆の前で、ただそれっぽく演じているに過ぎない。
人々の切なる願いを、ヒーヒー言いながら必死こいて叶えているだけだ。
なので、偽物の証拠ならいくらでも出てくる。
だが自分が本物ではないことは当人が一番良くわかっているし、そっちの証拠は残念ながらなさそうだった。
しかしそれでは、妖怪討伐エンド待ったなしだ。
そう言うわけで、呆然とする武田さんと護衛たちには、たった今思いついた言い訳で煙に巻いておく。
「私の正体が、稲荷神かどうかは証明できません。
そもそも隣の大陸では、別の存在として崇められていたでしょう?
真偽を確かめるのは、そんなに重要ですか?」
同姓同名の神様でも、地域によって役割が大きく変わる。
なので稲荷神も日本に渡来する前は全く別の存在で、五穀豊穣の加護など持っていなかったかも知れない。
まあ、全ては私の想像だ。
それでも、あながち的外れではない気がした。
「では稲荷神様のお力は、五穀豊穣だけではないと?」
正直、何でそれを聞かれたのか、全く意味がわからない。
そして私は、明確な答えは持ち合わせていなかった。
かなり迷って咄嗟に答えが出てこなかったので、困った時の対応策を使う。
即ち、愛想笑いして適当に誤魔化すだ。
「ごっ、……ご想像にお任せします」
「おおっ! なっ、何と言うことだ!」
武田さんは天井を見上げて大声を出す。
よく見ると護衛の人も感極まって嬉し泣きしている人もいる。
「これで稲荷神様が成した! 全ての偉業に説明がつく!」
その様子を見た私は大いに混乱し、何でそんなに過剰に反応するのと、口には出さないが内心は物凄く動揺してしまう。
だがまあ何はともあれ、取りあえず冷静になるために、お茶を飲んで乾いた喉を潤すのだった。
しばらく、武田さんや護衛の人たちが私の神性について熱心に議論していた。
私はノーコメントを貫いたら、最終的にあらゆる事象を司る天地開闢の始神の分霊にされてしまう。
けれど、ご想像にお任せしますと口にしたのだ。
こっちからは、今さら何も言うことはできない。
そして話し合いが一段落した武田さんは続いて何かに気づいたのか、もう一度私に質問してきた。
「しかし偽物と疑われたままで、本当に良いのか?」
わざわざ心配をしてくれる優しい武田さんである。
私は微かに微笑みながら返答する。
「知識や道具を伝え終われば、稲荷神の存在は不要となります。
あとは愛すべき民たちが、私なきこの国に五穀豊穣をもたらしてくれましょう」
前世の日本と比べればまだまだ発展途上だが、三河と尾張は豊かになった。
この流れが全国に広がるのは、もう止まらないだろう。
中身が一般人の私としては、平和な時代が来て身の安全さえ確保されれば、信者が一人も居なくても全然平気だ。
それどころかワッショイワッショイされるのには、小っ恥ずかしくてマジ勘弁である。
さっさと神様のフリをしなくて良い、普通の女の子に戻りたい。
「私は既に表舞台から降りた身で、知恵はあっても神通力は狐火以外は使えません。
それに、現世の主役は貴方たち人間です。そんな中で稲荷神の存在など、邪魔なだけでしょう?」
自分が使えるのは脳筋ゴリ押しと狐火だけだ。未熟な稲荷神なので、あんまり頼らないでねと、正面から口には出来ない。
だから遠回しに釘を差しておいた。
そのはずだったのだが、武田さんや護衛の人たちは何とも悲痛な表情を浮かべている。
おまけに俯いて深く考え込んでいたと思ったら、ゆっくりと口を開いた。
「稲荷神様、世話になった」
「どう致しまして」
しばらく思案を続けていた武田さんが、何かを決意したようだ。
座布団から立ち上がって、護衛たちも無言で後に続く。
私の家から外に出ていった。
(はぁ、稲荷神の偽物だとバレなくて良かったぁ)
引き戸を開けて外に出ていく武田さんたちの背中を見つめながら、私はそんなことを考えていた。
自分はそんな大した神様ではないと予防線を張り、本物の証拠などない。
うっかりやらかして正体がバレる可能性もあるし、やっぱり表舞台に出るのは極力避けたいところだ。
それに武田さんは最初に質問してきたし、始終重い空気だった。
私のこと、をかなり警戒しているのは違いない。
早いところ征夷大将軍を松平さんに渡して楽隠居しないと、いつか偽物だとバレて妖怪として退治されそうだ。
私は、少しだけ不安に思ったのだった。
なお武田さんの訪問だが、松平さんは当然のように知っていた。
書状でやり取りをして正式に許可を取り、今後の対応を決める前にと、私の家まで遠路はるばるやって来たのだ。
何でも彼も、天下を統一するために京の都を目指していたようだ。
その通り道で障害になるのが、三河国だった。
さらには、正体不明の私は何をしてくるのか全く行動が読めない。
物凄く恐ろしく見えていたようだ。
他にも松平さんが念の為に忍びを雇って遠くから監視をしていた。
社務所の隣の小屋の狼たちも、耳を澄ませて様子を窺っていてくれたようだ。
しかし何事もなく相談は終わったので、結局彼らの出番はなかった。
その後、数日も経たないうちに松平と武田が同盟を結んだと、報告が届けられたのだった。




