本宗寺の密談
<本宗寺の僧>
三河の松平は使者を本願寺に送り、賄賂を渡して頭を下げさせた。
一揆を起こすのだけは止めて欲しいと、弱者のように振る舞っていたのだ。
身銭を切って必死に懇願されれば、相手にとっては悪い気はしない。
そのため、寄付金に免じて今しばらくの猶予を与え、邪教を広める女狐を排除するために我々が動くのではなく、従順な犬になった松平に任せることになった。
だがこれは、一時保留しただけに過ぎない。
事あるごとに難癖をつけて松平を脅し、さらなる賄賂を搾り取っていた。
つまり何が言いたいのかというと、本願寺の僧たちは欲に目が眩んでいたのだ。
彼らが稲荷神を語る女狐を早急に滅するべきだったと気づいたのは、気付いたときには全てが手遅れの永禄五年になってからであった。
その頃になると三河の一向宗は稲荷神に改宗し、大勢の信者を奪われてしまっていた。
地域によっては存続の危機に陥ったり、かつては銭や物を収めさせていた村人たちが反旗を翻し、運営に支障を来していたのだ。
おまけに本願寺に書状を出しても、松平に任せたのでしばし待ての一点張りである。
欲に目が眩んでいるのか、現状を正しく把握していないのかはわからない。
一つ明らかなのは、このままでは三河の宗教勢力図は丸ごと塗り替えられることだ。
そのため本願寺と同じく、松平から賄賂を受け取っていた三河国でも高位に存在する一向宗の僧たちは、これ以上放置するのは不味いと危機感を持った。
ようやくといった感じで既に手遅れたが、辛うじてまだ首の皮は繋がっている。
一方、安城に居を構える本證寺の蓮如の孫である空誓は、本願寺が頼りにならないならば、自分たちで状況を打開するしかないと考えた。
急ぎ各地の寺院に、書状を送るのだった。
そのような経緯があり、三河国の本宗寺に高位の僧たちが一同に集まる。
彼らはそれぞれが持ち寄った酒や肉を贅沢に飲み食いしながら、憤りをあらわにしていた。
「一向宗の信者が稲荷神に改宗するなど! 断じて許されることではない!」
「然り! 女狐の邪悪な教えをこれ以上広めるわけにはいかん!」
信者が一人残らず去ってしまい、生き残るために稲荷神社への改宗を余儀なくされた寺もあった。
もしくは住職が今もっとも勢いのある女狐に取り入ろうとして、自ら頭を垂れたりもする。
もはや三河国でもっとも信仰されている宗教は、仏教ではなく神道に塗り替わっていた。
さらに詳しく言うと稲荷神が突出して信者が多く、明らかに民衆の心を掴んでいる。
今現在の最大勢力なのは明らかで、三河だけでなく周辺諸国にまで広まりつつあった。
実際に尾張国のあちこちで稲荷神社が建てられていると、そんな噂が聞こえてくるぐらいだ。
「このような狼藉! 仏がいつまでも見逃すはずがない!」
この場に集った者の、どれだけが仏を信じているかわからない。
だが仏罰が下ると叫んでおけば民衆は恐れを抱いて従順になるので、騙すのが得意な僧は気楽なものである。
しかしそれは、今まではそうだっただけだ。これからの時代は違う。
何故なら神罰や仏罰に関して、稲荷神を名乗る女狐が自分の教えに従う限り、全て引き受けると豪語したからだ。
これでは僧が説法を聞かせて民を脅したところで、強制力は殆どなくなってしまう。
まさに神や仏に喧嘩を売るような行為だが、今の所は天罰が下った様子もなく女狐は元気いっぱいである。
もはや一刻の猶予もないため、仏に変わって自分たちが罰を与えるべきだと僧たちは考えた。
そのことで本宗寺の住職が嫌らしい笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開く。
「実は昨晩、本證寺から書状が届いたのだ」
「おおっ! では、いよいよ!」
農民たちを先導して、不満を爆発させるのだ。
そして小賢しくも賄賂という目眩ましで僧たちを欺いた松平を成敗し、諸悪の根源である女狐を民衆の前に引きずり出し、火あぶりの刑に処す。
燃え盛る炎で焼かれ、苦悶の表情で我々に許しを請う女狐が、ありありと思い浮ぶ。
「諸悪の根源である女狐は、民への見せしめのためにも、惨たらしい最後を迎えさせねばのう!」
「その通りじゃ! 女狐のせいで、我らの儲けがどれだけ減ったことか!」
その分、松平から賄賂が流れてきたので損はしていない。
だが最近の三河国はかなり豊かになっているので、我々の取り分が増えても当然だと考えていた。
しかし彼らには残念だが、実際の所は増えもしなければ減りもしない。最初の金額のままであった。
「準備が整うまで今しばらくの時間が必要となるが! 永禄六年の春に、三河全土で一揆を起こす!」
「「「おおーっ!!!」」」
密会の場がにわかに騒がしくなる。だが人払いは済ませてあるので、誰かに聞かれる心配はなかった。
いくら一向宗の勢力が弱まっているとしても、遠い先祖の代から三河の地に息づいているのだ。
薄れていた信仰を呼び覚まし、戦乱の世の不平不満を煽る。一向一揆を国中で引き起こす。
彼らは怒涛の勢いで岡崎城と稲荷山に攻め上り、松平と女狐の首を取ることで勝利を確信していた。
「本證寺の空誓様が、我々以外の同志にも檄を飛ばしてくださっておる」
「ふむ、それは良いが、気取られはしまいな?」
「当然だ。松平と女狐には注意を払っておるわ」
もし一向一揆が起きれば、農民たちは今が決起の時だと理解する。
連鎖的に不平不満が爆発し、さざ波から大波に変わって三河全土を飲み込むだろう。
そうなればもはや一揆は、誰にも止められない。
これなら松平の居城を落とし、女狐を引きずり下ろすのも容易だ。
しかし稲荷神は我々の想像を越えた存在で、何をしてくるのか全く読めない。
けれど本日集まった高位の僧たちも直接対峙したことはないが、囲んで棒で叩いて死なない人間はないのだ。
「女狐が本物の稲荷神でなければ、一向一揆は止められぬわ!」
「然り! 隣の明で聞きかじった知識を、神の御業のように流言飛語して民を惑わすとは!
誠に不届きな女狐よのう!」
島国より技術が進んでいるのが、隣の大国である明だ。
彼の国からは、古来から様々な知識や技術が海を越えて伝えられてきた。
それら全ては最初は未知なるもので、広めた者は民衆の尊敬を集めて大いにもてはやされた。
つまりかの女狐も、狐の耳と尻尾を付けて稲荷神を演じているだけだ。
見た目相応の小娘に過ぎず、松平が裏から操って一向宗の対抗馬に仕立て上げた。
これが我々が導き出した、満場一致の解答だ。
「松平と結託し、三河国の一向宗を追い出そうとは! 仏をも恐れぬ行いよ!」
「その通りよ! 空誓様は、奴らの目論見などとっくの昔に看破しておるわ!」
「然らば三河全土で一揆を起こし! 松平と女狐を打倒し! 我ら一向宗が、再びこの地を支配してくれようぞ!」
互いに酒を酌み交わす事で酔いが回ってきた。
気が大きくなった僧たちは、松平と女狐何するものぞと豪語して、来たるべき永禄六年の春に向けて、声高に語り合う。
そして戦乱の世で困窮する農民たちの不安を煽るために説法を行い、深く静かに一向一揆の芽を育てていくのだった。




