血抜き
山の中腹のオンボロの社務所に住み着いた私は、新しい家族のことを最初は犬っぽいと思っていた。
だが注意深く観察すると、どう見ても狼だった。
さらに人間の言葉をある程度なら理解するので、犬や猫より賢いようだ。
これらのことを考えた私は、まずは狼たちが獲物を狩れるようにと、しっかり躾けることにした。
事情は聞けないが、群れの生存競争に負けたせいで餓死一歩手前まで追い詰められたと推測はできる。
なので今後のことを思えば改善する必要があると判断し、五匹に名前を付けることに決めた。
具体的には頭部に三日月模様のハゲがある狼をボス、白眉毛っぽい模様のマロ、折れ耳のミミ、ブチ模様が特徴のブチ、白い耳のシロだ。
どれも思いつきで名付けたが狼たちに不満はないようだし、家族の一員として迎え入れるには十分だろう。
しかし問題がないわけではなく、村の人たちから分けてもらった食料の消費がかなり増える。
一気に五匹も同居狼が増えたのだから当たり前であり、働かざる者食うべからずということで自給自足ができるようにならないと、早々に食料が尽きかねないのだった。
次の日の早朝に起きて、私は狼たちと一緒に我が家を離れて山に入る。
オンボロ社務所から一歩外に出れば既に山深いので、狩りの手間は省けて良いと前向きに考えた。
とにかく、もし見つけたら群れで取り囲み、罠を張った地点まで追い立てるようにと指示を出した。
なお頑張ってもらうのは狼たちだが、万が一の備えとして罠(私)の前に追われてきた獲物を、真正面から飛びかかってガツンと一発ぶん殴り、戦闘不能にするという役目を引き受けている。
しかし、いくら簡単な意思疎通ができると言っても、やはり獣で最初は何度も失敗した。
血気盛んにイノシシに挑んだものの、逆に追われて逃げ帰ってきた。
それに単独でシカを狩ろうとして逃してしまったり、さらには連携が上手く取れずに、ウサギにさえ巣穴に逃げ込まれてしまったりと散々だ。
しかし私の指導の成果が出たのかはともかく、お天道様が真上に来るまで野ウサギや鹿を仕留めることに成功する。
次第に狼たちに効率の良い狩りの仕方を覚えてきたようで、連携も順調に強化されているようだ。
リーダーのボスだけでなく、他の家族も得意気なので自信がついだようでヨシとする。
ちなみに今回の狩りは、私が出れば一瞬で片付く。
しかしそれでは、ワンコたちのためにならない。と言うか、多分自分に覚悟がなかっただけだ。
この山の主かは不明だが、狼たちが大猪に追われて逃げてきた。
なので私は皆に下がるように指示を出して、真正面から勢い良くぶん殴る。
その結果、頭蓋骨が陥没するほどの拳を受けたイノシシの亡骸が、目の前に横たわることになった。
殆ど条件反射的にやっつけたものの、私は顔色を青くして四つん這いになってしまう。
こみ上げる吐き気と戦いながら、心の中で何度もごめんなさいと謝る。
「うう、……吐きそう」
しばらく荒い呼吸を繰り返していたが、気持ち悪さと嘔吐感がようやく治まってきた。
狼たちは心配そうに回りをウロウロしているけど、大丈夫だと声をかける。
何とか呼吸を落ち着かせて、よろめきながら立ち上がった。
そして最後にイノシシの亡骸に顔を向け、両手を合わせて静かに黙祷する。
そもそも自分の手で動物を狩ろうと考えた理由が、新しい家族を迎え入れて食料が足りなくなったからだ。
しかしそれ以外にも、麓の村民の好意により住処と食料を貰っているが、もし稲荷神としての信用を失ったらどうなるかがある。
そうなったら追われる身となり、正体を隠しながらの放浪生活を送ることになるのは間違いなかった。
なので万が一に備えて、戦国時代で一人でも生きていく術を身につけようとしたのだ。
今は何かあれば山の掘っ立て小屋に逃げ込めるし、食料も定期的に分けてもらえる。
だが旅暮らしでは安全な場所を探すのも一苦労だし、食べ物も簡単には手に入らないだろう。
ゆえに狼たちだけでなく、私自身も多少なりともサバイバル技術を鍛えることに越したことはないのだ。
私は過去に動物を殺した経験はない。
だがまあ知り合いの猟師さんに鹿や猪の肉を分けてもらったり、料理をしたことはある。
けれどそれでも命を奪ったことはないので、大型動物にトドメを刺した瞬間に吐き気が込み上げてきたのだ。
しかしそのおかげで、この時代で生きていくための得難い経験を積めた
わかりやすく言うと、いざというときの度胸や覚悟ができたのだ。
なお撲殺されて地面に転がっている大イノシシだが、今は狼たちが周囲をウロウロしたり、代わる代わるに上に乗って、ワオーンと勝ち誇って遊んでいた。
飼い主の気持ちも知らずに呑気なものだと思いはするが、戦国時代は彼らだけでなく人間にとっても生きるか死ぬかの毎日だし、そのぐらい気楽でないと精神的なストレスで参ってしまうだろう。
私もいつまでも前世の価値観に縛られるのではなく、命のやり取りにも多少は慣れたほうが良いのかも知れない。
取りあえず、いつまでも狼たちや狩った獲物を放置しておくわけにはいかない。
これから運ぶから離れるように伝えると、全員が私の足元に集まる。
その後、よいしょっと大イノシシを軽々と担ぐ。
ちなみに鹿や野ウサギは縄でくくりつけているので、初めての狩りにしては大量である。
しかし正直、まだ獣を殴り殺した手の感触と気持ち悪さが若干残っていた。
だがいつまでも、この場に留まっているわけにもいかない。
「取りあえず血抜きや解体は習ってないし、麓の村の人から教えてもらわないと」
前世では知り合いの猟師の人が一通りやってくれたので、加工済みのお肉を各家庭にお裾分けしてもらっていた。
なので戦国時代の山村でも狩りは日常的に行っているだろうし、シカやイノシシの捌き方は当然知っているはずだ。
私はそう楽観的に考えた。
取りあえず狼は鼻が利くし私は両手が塞がっているので、ボスたちに麓の村の案内や護衛を頼む。
足場が悪く鬱蒼と茂る獣道を、何度もかき分けながら進んでいく。
幼女サイズよりも大きいイノシシや他の獲物を担いでいるため、少し後ろ足を引きずってしまっている。
だが私個人としては問題なく移動できているので、細かいことは気にしない。
そのまましばらく歩くと急に視界が開けて、見覚えのある景色の場所に出た。
どうやら私たちが狩りをしていたのは、麓の村からさほど離れていない場所らしかった。
こっちとしては移動距離が短くて良かったと言えるが、村の住人にとっては狼の遠吠えや野生動物の気配に、身の危険を感じていたことだろう。
そのせいで男衆を中心とした村の住民は、小刀やナタ、鎌や木の棒にクワといった、何とも物々しい武器を手に持った状態で、私や狼たちが茂みからひょっこり顔を覗かせた場所に、既に集まっていたのだった。
茂みをかき分けて現れたのは巨大なイノシシの亡骸で、狐っ娘幼女は隠れて見えない。
それゆえ、びっくり仰天した村人たちだったが、そのすぐあとに私と狼たちが顔を出す。
ギリギリ襲いかかる一歩手前で止まり、しばらく時が止まったかのような、何とも言えない雰囲気であった。
やがていち早く正気に戻った村民の一人が、恐る恐るといった感じで声をかけてきた。
「いっ、稲荷神様! その大イノシシと狼たちは一体!?」
「狼たちは私の新しい家族です。村民は襲いませんので安心してください。
むしろ害獣から守ったり、山に入る時の護衛になってくれますよ」
狼たちは、鼻をヒクヒクさせながら村人の周囲をウロウロとしている。
きっと間違って襲わないように、匂いを覚えているのだろう。
その間に私は、集まっている村人たちに簡単に説明していく。
狩りの際には罠に獲物を追い立てる役割、村の周りを巡回して害獣の接近を知らせたり追い払う。
あとは山岳救助狼として負傷者の元まで案内したりと、ある程度の意思疎通が可能なほどに賢い。
このような内容を伝えると、村民たちに物凄く驚かれたのだった。
状況説明が一段落したので、私は背負っていた大イノシシを地面におろす。
続いてニッコリと笑いかけて本題を切り出す。
「こちらは先程狩りで仕留めたイノシシです。
半分は村に差し上げますので、血抜きと解体をしてくれませんか?」
まさか稲荷神が血抜きや解体ができないとは言えない。
なので口には出さないが、お肉の半分を授業料として差し上げて、村人の作業風景を見て覚えるつもりだ。
報酬を渡せば断られないと思っていた。
しかし、ここで予想していなかった事実が発覚する。
「稲荷神様の頼みです。報酬なしでも解体は喜んでやらせていただきます。ですが、血抜きとは一体?」
「……えっ?」
「「「えっ?」」」
まさか血抜きを知らないと思っていなかった。
この後の反応に困って、完全に固まってしまう。
ついでに村民にも困惑が広がっているようで、何かしらの納得できる答えを示さなければ、不審に思われるのは確実だ。
(どうしよう。まさかこの時代に、血抜きの習慣がないなんて思わなかったよ)
もしかしたら、解体の流れの中に血抜きが含まれていて、村民は皆気づかずにやっているのかも知れない。
だがまあ、彼らはどうにもピンと来なかったようだ。
たとえやっていたとしても重要視はされていないのは、何となくだが察することができた。
ぶっちゃけ私はと言えば、理論は知っている状態で実技はからきしだ。
なのでああだこうだと説明したとしても、下手にツッコまれるとボロが出るのは確実であった。
おまけに、残念ながら自分は平凡な女子高生だ。
咄嗟の閃きや機転も効かないため、とにかくその場しのぎに口を動かす。
「血抜きとは、動物の血を抜くことです」
表情には出さないように気をつけているが、内心ではうっかりやらかすかも知れない恐ろしさで、冷や汗が止まらない。
「これを行うと、肉を食べる時に生臭さが減って腐りにくくなります。
体温も冷やすと、より効果が高まるのですが──」
「「「なるほど!!!」」」
聞きかじった知識を自信満々に村人たちに伝える私である。
テレビでやっていたサバイバル番組か、漫画か小説を見て基礎だけはいつの間にか覚えていたのだ。
だが内心に目を向けると、本当にこれで合っているのかがわからず、不安でいっぱいであった。
それでも高校一年までに覚えた知識と照らし合わせると、そこまで的外れではないだろうと開き直る。
なので真面目な表情で村民たちに教えた。
彼らも黙って聞いているし、これならその場の勢いで押し切れるかも知れない。
しかし、残念ながら逃げられなかった。自業自得か身から出た錆と言うべきか、ある意味では当然の結果であった。
「稲荷神様! どうか我々に、血抜きのやり方をお教えいただけませんか!」
「あっ、……はい」
鼻息が荒く興奮状態の村人たちに、ジリジリと距離を詰められる。
私は、正直心の中ではどうしてこうなったと叫びたい衝動に駆られる。
それでも彼らの信頼を裏切ったら、妖怪認定からのあの世逝きまでノンストップだ。
ゆえに表向きには動揺を隠して、自信満々に頷くしかなかったのであった。
麓の村の広場らしき場所に案内された私は、住民にまずはイノシシの足を縛って吊るすための縄と、くくりつけて支えるための丈夫な木の棒を用意するようにと、身振り手振りで指示を出す。
するとまるで。あらかじめ用意してあったかのような周到さですぐに準備が整った。
何とか実演を逃れる言い訳を考えようとしたが、その時間を与える気はないようだ。
あまりにも向けられる期待が重すぎて、個人的には血も涙もない村民たちという評価をせざるを得ない。
だがしかし、こうなったらもうやるしかないので、私は覚悟を決める。
うろ覚えの知識だし、絶対に何かが間違っている感が否めない。
けれど迷ったり立ち止まっている時間はなく、心情的にはもはやヤケクソであった。
「まずは支柱を立てた後に、イノシシの後ろ足をきつく縛ってください」
「こうでしょうか?」
村人たちが運んでくれた大イノシシの後ろ足に、縄をしっかり結んだことを確認する。
それを見た私はコクリと頷いて、次の指示を出す。
「結んだ縄を引っ張って、前足と顔が地面に当たらない高さに吊るしてください」
私の説明を聞いた村の人たちは、何やら楽しそうにイノシシを吊し上げていく。
ついでに大きめの木箱を用意してもらったところで、声がかかった。
「稲荷神様、終わりました」
ちなみにこれから行う血抜きは、ボクシング映画の冷凍肉パンチを参考にしている。
何かが間違っている気がするが、それっぽい知識としてはこれしか思い浮かばなかったと言うか、とても非常に強く印象に残っていたのだ。
たとえサバイバル番組だろうと、血抜きや解体はグロ注意だ。
それっぽい映像にはモザイクがかけられて、詳細はわからなかった。
小説や漫画も詳しい描写は飛ばされていたので、結局は基本知識しか覚えてないのだ。
なので、普通の女子高生が血抜きなど知るものかと開き直る。……が、ここまで来たら仕方ない。
もはや、成るように成れで、私はヤケクソ気味に最後の仕上げを行う。
「まずは、頭を切り落とします!」
右の手刀を超高速で振ることで、ぶら下がっているイノシシの頭を正確に切り落とした。
切断面はまるで鋭利な刃物のようで、綺麗に二つに分かれて地面にゴロンと転がる。
あまりの速度で突風が起きたが、まさに神業と言うべき場面を目撃した村人たちは、完全に言葉を失って呆然とした表情で私を見ていた。
ついでに縦にも手刀を振るい、大イノシシの体を半ばまで切り裂く。
内臓を素手で鷲掴みにしてブチブチと引き千切っては、木箱の中に乱暴に突っ込んでいく。
ヤケクソ気味状態の私は、とにかくこの場を乗り切ることに必死で、目の前で繰り広げるR18Gなど何のそのだ。
やがて大雑把でも一通り片付いて、大イノシシの血が手や巫女服に付着していないことを確認し、不思議なこともあるものだと首を傾げるが、私の存在自体が謎すぎるのでそういうものだと受け入れる。
とにかく村民たちに向き直って、最後の説明を行う。
「効率的に血を抜く方法は、他にいくつもあるでしょう。
内臓も摘出したほうが、臭みが消えて良いです。あとは貴方たちが試行錯誤を繰り返し、技術を高めていってください」
ニッコリと微笑むと、何やら尊敬の眼差しでこちらを見つめて、コクコクと頷いたり祈りを捧げたりしていた。
ちなみに内臓に関しての実行と説明は、場当たり的な行動だ。
冷凍肉パンチの場面は体が半分に裂かれた状態でぶら下がっていたので、そうしたほうが良さそうと本当に何となくであった。
村人たちをしばし眺めた私は、取りあえず信用は失わなかったことに安心する。
そして精神的な疲労が酷いので、血が出なくなったら解体をお願いしますと伝え、内臓の詰め込まれた木箱を抱えた。
続いて狼たちを引き連れて、山の中腹の我が家へ足取り重く歩いて行く。
取りあえず狩りを成功させたご褒美として、大イノシシの内臓を狼たちに与えるつもりだ。
尻尾を振って上目遣いで物欲しそうにこちらを見つめる家族の頼みを断るという選択肢は、最初からないのだった。