冬山登山
<松平元信>
本多忠勝からの報告を受けた私は、稲荷様の助力を得ようと自ら動き出した。
なおこれは彼や密偵の集めた情報と、私自身が直接手紙をやり取りして、信じるに値すると判断したからだ。
それでも疑いは消せないので頻繁に調査することで、少なくとも人知を超えた存在なのは理解した。
なので無闇に接触するのは禁止して、出来る限りの援助を行う。
本来なら間接的ではなく、本多忠勝の上司である自分が直接出向いて頭を下げるのが筋だが、私も多忙の身なので、今しばらくの時間が必要だった。
ゆえに仕方なく離れて見守りつつ、ご機嫌取りのようなことをすることになったのだ。
最近はようやく三河の情勢が安定してきて、少しの間なら出歩けるようになる。
結果、稲荷神様の元に出向くのは冬になってしまう。
それでも本国はまだしも、周辺勢力はまだ油断ならない。
今川とは袂を分かったばかりで、三河国内にも隙を伺っている武将が大勢居るのはわかっているため、統一の道は未だ見えない。
さらに、隣国の斎藤と武田も強国ゆえに油断はできない。
隙あらば寝首をかこうとしているのが、容易に見て取れた。
そして織田は、父の代では憎き宿敵同士だ。
私自身はまだ戦をしていないが、禍根が残って小競り合いを続けているため、敵対諸国に含めても問題ないだろう。
だからこそ、他勢力が容易には軍を動かせない冬にあえて動くことに決めた。
雪の降り積もる中での行軍は困難を極め、場合によっては遭難することもある。
ただ遠方に移動するだけでも怪我人や死者が出かねない今の季節は、何処の勢力も自領に籠もって動かないものだ。
ゆえに、戦を仕掛けるのなら春から秋までで、いくら優勢でも冬の気配を感じたら領地に撤退するのが定石なのだった。
そして今現在の私は藁の防寒具を着込み、冬山を登っていた。
だが正直、今すぐ岡崎に引き返したくてしょうがない。
自分が計画したこととはいえ、まさかこんな形で冬の行軍の辛さを、身に沁みて感じさせられるとは思わなかった。
「殿! 荷物を置いてきて正解でしたな!」
「そうですね。ですがこの雪では、軽装でも辛いものがあります」
お供の一人、本多忠勝が元気良く話しかけてくる。
しかし私にとっては、返事をするのも辛かった。
ついでに荷物は稲荷様への支援物資だが、量が多いので冬山に登る前に麓の分社に置いてきた。
雪の降り積もっている登山でそれは無謀過ぎますと、村長が必死に止めたのだ。
その場は素直に諦めて引き下がったものの、やはり諦めきれずに軽装で向かう方針に変更した。
なお荷物は往復に少し余裕を持たせた携帯食料だけで、まさに命がけと言える。
幸い稲荷様が探しているのは、用途不明の謎の素材ばかりだ。
こんな物を貰っても喜ぶ人は殆ど居ないし、普通は困るだろうと皆がそう感じた。
それに適切に管理をすれば日持ちもするので、長期保存も問題ない。
だから、分社に置かせてもらって春の雪解けを待って渡してくださいと頼んだのだ。
部下たちも同意なのか、反対はされなかった。
「ですが殿、用途不明とはいえ、あれだけの大量の物資を渡してしまって、本当に良かったのですか?」
「構いません。それに稲荷様が広めている知識や道具の価値と比べれば、あれではとても足りません」
「言われてみれば、確かにそうでしたな」
本多以外のお供である酒井忠次が尋ねてくるが、私は躊躇うことなく言い切る。
彼女の欲しがる物を手に入れるために、様々な伝手を頼った。
銭もかなり使ったので、相応の苦労はしている。
だが今の三河は、稲荷様のおかげでかつてない程に活気があった。
今川の支配を受け、搾取される前の繁栄を取り戻しつつあるのだ。
少なくとも自分が知る三河国では、今がもっとも栄えている。
ゆえにこの目で見るまでは稲荷神様が本物と断言できないが、彼女のおかげで私たちが救われているのは事実だ。
少なくとも、今の三河国で稲荷神様よりも優れた知恵者は居ない。
「しかし、一向宗は邪魔ですな」
「確かに。一向宗は稲荷様を敵視するだけではなく、排除の動きを見せています」
稲荷様の知識や道具を扱うことを禁忌と公言し、破れば仏罰が下ると信者たちを脅す。
そのせいで彼女の知識や道具、噂の広まりはとても遅い。
岡崎城下に届くまでに、かなりの時間がかかったことからも、それは明らかである。
「一向宗が動くより前に届いた貴方の報告には、とても助けられました」
「ありがたき幸せでございまする!」
彼は稲荷様が本物だと判断する証拠として、様々な知識と道具を持ち帰ってきた。
そのあまりにも常識から外れていて、報告を受けた私や家臣一同は、最初はとても驚いたものだ。
さらに一向宗が稲荷様を排除しようと動き出したことも明らかになり、私は彼女の後ろ盾になると宣言して、容易には手出しをできなくした。
だがもし一向宗がもっと賢ければ、稲荷様の知識や道具を奪い取り、全ては御仏のご加護であると、そのように大々的に発表しただろう。
もしくは共に手を取り合い、三河国をより良くしてくれたはずだ。
しかし組織の末端である坊主たちは、自らの利益しか考えていない。
特権階級に留まり好き勝手に振る舞うばかりで、大局が全く見えていなかった。
稲荷様のことは、自らの立場を脅かす敵としか判断できないのだ。
幸い私の対処も、辛うじて間に合った。
けれど一向宗はまともな者が少なく、組織の殆どが腐敗している。
そんな状況を素直に喜べるかは、微妙なところであった。
(問題は本願寺がどう動くかですね。念の為に、偽装情報を流しておきましょう)
三河国は稲荷様の後ろ盾になる。
そして本願寺には逆に、彼らの味方だと主張する。
自分はまるでコウモリのような、どっちつかずだと思った。
しかし決起の時が来るまでは、双方のご機嫌を取るのがもっとも良い結果に繋がる。私はそう判断した。
彼女の存在は三河国になくてはならない。失ってはいけないのは、明らかだった。
もし人間の愚かさに嫌気が差して雲隠れしてしまえば、それこそ取り返しがつかない。
古来より逃がした魚は大きいと言うが、あれは龍の類だと確信している。
私利私欲のために、容易に使い潰していい存在ではない。
さらに下手に利用すれば、どんな手痛いしっぺ返しを受けるかわからない。被害が一国だけで済めば良いほうだろう。
「だからこそ、三河の代表である私が自ら出向く。
直接この目で確認した後に、岡崎城下にお住まいを移してもらわねば──」
隣の大国では、伏竜と称された軍師に君主自らが出向いて、力を貸してくれるように頼み込んだ逸話がある。
だが正直に言うと、命懸けの冬山登山を三度もやるのが絶対に嫌だった。
しかし稲荷様は、山の中腹の社務所からは滅多に外に出てこない。
金や権力にも興味を示さないので、どうやって説得したものかと思い悩む。
「やはり私が、三河国を安定させる器かどうか。それが重要なのでしょうね」
「殿なら大丈夫でございます!」
「然り! 然り!」
稲荷様が重い腰を上げのは、困窮する人々に救いの手を差し伸べて、五穀豊穣をもたらすときだけだ。
だからこそ私が三河国を統べる器であると認めてもらえれば、民を救うために協力してくれる可能性はあった。
しかしもし断られたら、自分には三河国を統べる資格なしと判断されたも同然である。
さらに言えば、これまでは書状のやり取りのみに始終していたため、実際に会うのは今回が初めてなので、初対面に何を言われるかも不安であった。
鬼が出るか蛇が出るかと恐ろしく感じるが、噂通りなら狐の耳と尻尾の生えた可愛らしい子供だ。
性格は穏やかで決して怒らず、優しいらしい。
そんなに心配することないと部下たちは言うが、だからこそ貴方に協力できませんと言い切られた時の絶望感は、筆舌に尽くしがたいのだ。
なので私は、稲荷様の住居に到着するまで、お腹の辺りが締めつけられるように痛み、顔色悪く雪道を歩くのだった。




