フェートン号事件
寛政の次は享和となり、二年に十返舎一九さんが東海道中膝栗毛を発行した。
これは鉄道網が敷かれている現代では珍しく、東海道を徒歩で旅行した記録を綴った書籍だ。
挿絵も見事だし文章も面白かったので、私も楽しく読ませてもらった。
当然、永久保存として、境内にある稲荷神用の正倉院に初版を収めておいた。
やがて時は流れて享和から文化になった。
元年の六月に羽前と羽後で大地震が起きて、湖が盛り上がって陸地になるという珍しい現象が起きた。
慰問にも行ったし、この程度は慣れっこだが少々気疲れする。それでも皆が喜んでくれるなら別にいいかと、前向きに考えられるぐらいの余裕はある。
普段は自宅でのんびりしているので、精神的に安定しているのだ。
それはそれとして文化元年九月、ロシア使節ニコライ・レザノフが通商を求めて長崎に来航した。
話を聞けば、使節団を送ったのはこれで二度目で、十年ほど前にも一度訪れていたらしい。
日本人漂流民の返還を条件に、国交樹立の約束が秘密裏に交わされていたのだ。
意外なことに、この件に関しては私は何も知らされていなかった。
そこで当時契約を結んだ、老中の松平定信さんが言うには、殆ど人質同然となった日本人をチラつかせるロシア帝国との交渉で、稲荷様のお心を煩わせたくはなかった。
そして幕府が止める間もなく、彼が一人で突っ走った結果だ。
やってしまったことは仕方ないし、私は十年も昔の失敗を今さら責める気はない。
ついでに現場の判断もあるし、いちいちお上にお伺いを立てるために使者を送って相談していては、まとまるものもまとまらない。
時には迅速な対応も必要になるのだと公言し、今回の件はお咎めなしとしたのだった。
まあそれはともかく、私の方針は鎖国のままなので、それをはっきりと伝えて会議を終える。
日本の意思が示されたことで、ロシア帝国との間に国交は樹立しなかった。
それでも肩透かしをくらったレザノフさんに、私は謝罪の書状とお土産をたくさん贈る。
結果的には、気分良く出島から出ていってもらったのだった。
国が大きくなれば人や柵が増えて、さらに現場までの距離が遠ければ私の声が届きにくくなる。
状況の把握や、やり取りも難しくなってしまう。
今回の件を見る限り、一から十まで自分の耳に入れて采配することは、情報伝達の速度から見ても不可能に思える。
なのでそろそろ神皇の手から離れ、日本が独り立ちする時が近づいてきたのだろう。
そんな気がしてならなかった。
もし最高統治者の権限を譲渡した後は、稲荷神を日本の保護下に置いてもらうのも良いかも知れない。
フリーになった途端に他の勢力に誘拐されて、実験動物ルートに直行という、そんな暗い未来が待っていないとも限らないからだ。
なお現実は、連れ去られたとしても、リトルプリンセスちゃんのおみ足ペロペロか、女神降臨ルートなのだが、本人には知る由もなかったのだった。
文化五年、間宮林蔵さんが樺太を探検して、間宮海峡を発見した。
最狭部の幅は約七キロほどで、深さは最浅部で約八メートル。
冬の間は凍結して、徒歩で横断することも可能になるらしい。
これは地元民の間では有名だったが、灯台下暗しで表に出てくる機会がなかっただけらしい。
そして、それを知った私は大いに頭を抱えた。
つまりはロシア帝国とは、地続きも同然だったのだ。
今の大陸との関係は良くも悪くもないが、情勢次第ではいつ日本に攻め込んで来てもおかしくない。
それ程歴史に詳しいわけではないが、ロシアの兵士は畑で取れたり、危険な人体実験や兵器を作ったりと、前世で見た映画やネットの影響で、とても恐ろしいイメージが刷り込まれていた。
なので樺太からは撤退し、統治するのは北海道だけで絞ろうかとも考えざるをえない。
しかし、現地住人と友好的な関係を築いて、既に日本に帰化してしまったのだ。
その選択肢は取りたくないので、やはり今後はロシア帝国とは付かず離れずで上手く付き合っていくしかないだろう。
外交的に苦労するのは間違いなく、自分が表舞台に引っ張り出される可能性も考えると、何とも気が重くなってきたのだった。
時は流れて文化五年の八月になり、イギリス船フェートン号が長崎に来航した。
それだけなら別にいいのだが、何とこの船はオランダ国旗を揚げて国籍詐欺をしたまま、長崎に入港したのだ。
おまけに、オランダ商館の職員二名を人質として拉致する。
武装ボートで漕ぎ出すと、オランダ船を求めて、長崎港内を探し回っているらしい。
こっちが人質を解放するようにと説得しても、図々しく水と食料を要求してきた。
呆れて物が言えないが、そうなれば取るべき手段は決まっている。
場所はいつもの本宮の謁見の間に緊急招集で関係者を集めて、対策会議を開く。
私は最近発明された黒電話を手にとって、大きな声で指示を出す。
「犯人の要求を飲む必要はありません。人質救出を最優先にして、船を制圧してください」
「了解致しました! 人質救出を最優先として! 船を制圧致します!」
この発明のおかげで、遠い長崎の状況もリアルタイムでわかるようになって、とても助かっている。
私まで情報が届くのは、全てが片付いてからではなくなったのだ。
ちなみにこうなった原因は、数年前にある。
『人員や役割が増えて組織が巨大化して、現場の状況把握がより困難になっています。
距離も遠いと指示を出すのが間に合いません。
そろそろ幕府、もしくは各藩や現場の判断に任せる時が来たのでしょう。
役目を果たせない神皇は、引退しても良い頃合いですね』
そんなことを、ついポロッと口にしたのがキッカケとなっている。
なおそれを聞いた征夷大将軍や幕府の役人たちは、以下のことを口にする。
『稲荷様に神皇を続けてもらうためにも、可及的速やかに情報伝達手段を築き上げるべし!』
そう公言して、親方日の丸で電話事業に多額の投資を行う。
親日国まで巻き込んで、緊急の共同開発を行うことになったのだ。
このような経緯があり、一ヶ月ほど前に黒電話が完成した。
結果的に神皇を引退する機会を逃したのだが、前世のように長距離通信が可能になったのは良いことだ。
とにかくそう自分を納得させつつ、長崎港の連絡が終わったので受話器がガチャリと鳴るまで、しっかり置くのだった。




