平和な時代
寛永が終わって宝暦が始まり、その三年の八月のことだ。
大坂の竹本座での人形浄瑠璃が、大人気になった。
東洋の演劇は日本中に広まっているのだが、人形劇で大ヒットとなったのは今回が始めてだ。
私もお忍びで変装して、蒸気機関車に乗って大坂まで見に行ったが、日本人形と西洋人形が入り交じる、何とも混沌とした演劇だった。
それでも熱意と面白さは十分に伝わったので、最後まで飽きず楽しんで見物できた。
見終わった後は大坂観光でもしよう思って席を立ったが、竹本座から外に出た瞬間に、待ち構えていた民衆に取り囲まれて、行きがかり上、街頭インタビューを受けることなってしまう。
なお、たこ焼きとお好み焼き、串カツやイカ焼き等の各種大坂名物をお供え物として、本場の味を届けてくれると聞き、私はコロッと機嫌を直す。
結果、記者の質問に気分よく答えていくのだった。
それとは関係ないが、大雨や洪水も治水工事のおかげで被害を最小限に抑えられてはいる。
しかしまだまだ人力に頼らざるを得ず、ユンボやショベルカーといった重機が欲しくなる。
ちなみに、日本では当たり前のように西洋の暦を使っているが、これは稲荷大明神が発案したのでと強弁した結果、特に反発もなく受け入れられている。
一年は三百六十五日、一日は二十四時間、一時間は六十分、一分は六十秒と、カレンダーやゼンマイ式時計も各家庭に行き届いているのだ。
なので宝暦五年に今代の征夷大将軍が、そう言えばうちの暦って外国が使ってるのとそっくりですねと、尋ねられても何も問題はない。
六千年以上昔の古代エジプト発祥なので、イエズス会もそれを改良して使ってるだけですよと、明後日の方向を見ながら答えておいた。
日本は大分前から、仏教ではなく稲荷大明神の国になっていたようだ。
信教の自由は保証されているものの、民衆はキリスト教をあまり心良くは思っていない。
それでもあからさまに追い払ったりはせずに、生暖かい目で見守るだけの無関心状態だが、暦の元ネタに反応するとは思わなかった。
だがまあ、たまたま気になっただけらしいので、きっと大した意味はないのだろう。
同じく宝暦五年のある日、事件が起こった。
まず最初に、私は神皇で江戸幕府と繋がっているものの、あくまでも便利な統治機関として利用し、代理として権限を貸し与えている。
さらにそれとは別に、朝廷は直接政治には関われないがアドバイザー的な立場になっていた。
それなりに良い暮らしをしている。
しかし、酒に酔った勢いというのは恐ろしい。
「徳川家重から将軍職を取り上げて日光へ追放し! 我ら朝廷が稲荷大明神様を支えるのだ!」
そんな訳のわからない倒幕計画をのたまう公家が、表に出てきてしまった。
朝になって二日酔いに頭を悩まされながら、全く記憶にございませんと下手な言い訳を続けているが、流石にお咎めなしとはいかない。
なので漏れなく全員が、十日間の禁酒を申し付けられた。
誰もがお酒を飲んで気が大きくなるときはあるが、皆若いのできっと夢を見たいお年頃なのだろう。
そもそも彼らは、今の政治体制に不満があるわけではない。
ただ私の役に立ちたいという忠誠心が暴走した、行き過ぎた発言であった。
なので、気持ちだけをありがたく受け取る。
「禁酒が終わったらお友達と一緒に飲んでくださいね」
そう手紙に書いて竹内敬持さんには、お供え物として受け取った数量限定の清酒を送っておいたのだった。
そして宝暦になってしばらく経つと、電機産業がいよいよ本格的に動き出した。
計画の中心となった人物は平賀源内さんで、彼は江戸時代の学者であり、とても頭の良い人らしい。
この人が全体の指揮を執るようになってからは、トントン拍子に計画が進む。
電池、電磁力学、電磁誘導などを、あっという間に達成していく。
元々蒸気タービン機関や産業革命の下地があるとはいえ、とんでもない発展速度だ。
今は発電機の開発を行っていて、現場の者たちは鼻息荒く気合いも充分だそうだ。
なおこれは国をあげての取り組みで、親日国との共同開発でもあった。
もはや電球が作られるのも、秒読み段階と言っていいだろう。
そして遠方の親日国から遥々、重要な素材である硅砂を運んでもらっているので、ガラスの準備も万端である。
電気の発明は、まさに日本の夜明けだ。
当然のように彼を江戸の稲荷大社に招いて、少し早いが日本勲章を授与することになった。
「えー、平賀源内さんは電池を発明し、日本の発展に多大な貢献をしたことを、ここに讃え、日本勲章と一万円札を与えます」
「いっ! 稲荷様に認めていただき! 恐悦至極でございまする!」
彼の情報を調べるに当たり、少し前は歌舞伎役者に熱をあげていたようだ。
今は踏み台に乗って、勲章を首にかける私を見て頬を染めている。
男色と幼女趣味とどちらがマシかは自分にはわからないが、取りあえず平賀源内さんのことは、一旦置いておくことにする。
私は速やかに踏み台を下りて次の勲章者に向かって数歩進むと、相手は若い女性だった。
国のトップが女の狐なのもあるが、男性にも負けない技術者が出てきて嬉しくなる。
だがどうも熱っぽい視線でこちらを舐め回すように見つめてくるので、この国のロリケモスキー率の高さはちょっと危険かもと、人知れず体を震わせるのだった。
やがて宝暦が終わって明和に変わり、面倒な一揆などにも悩まされることなく、平和な日々が続く。
やはり人間、衣食住と快適な生活が保証されていれば、早々ブチ切れたりはしないものだ。
そして江戸の湾岸に、火力発電所が建てられた。
大量の石炭を燃料にして、日夜発電している。
それに伴い私の家にも無骨な裸電球が灯り、夜も明るく照らされるので何ともノスタルジックな気分になる。
環境汚染や大量生産大量消費の怖さは、口を酸っぱくして言い聞かせていた。
人力バイバイの最初の一歩を踏み出したあとは、地熱や風力、太陽光や水力や潮力でのエコロジーな発電を推し進めている。
いつか絶対に必要になる技術なので、どれだけ時間がかかろうと必ずやり遂げてもらいたい。
「原子力発電も研究はさせてるけど、正直持て余すんだよね」
自然災害が頻繁に起こる日本で使うには、万が一のメルトダウンが危険すぎる。
だが他の発電施設が安全というわけではないのだが、事故が起きた時の環境汚染は、原子力と比べれば大したことはない。
なので核爆弾などの技術開発をしても、国内では使わないつもりだ。
その辺りは親日国で極秘に進めるとして、今は別のことが気になっていた。
「でもまあ今は、錦絵が流行ってるほうが気になるかな」
明和二年を過ぎて、錦絵が大流行している。
様々な絵師が多種多様な技法を用いて、美しい絵画を描いていった。
印刷技術の発展により、東錦絵や吾妻錦絵といった売れっ子絵師のペンネームが、日本中に広まったのだ。
東洋と西洋の合作は見事なもので、美神画と言うらしい。
リアルを重視した技法で、私が可愛らしく描かれていた。
お供え物として受け取ったが、自分のイラストを家に飾るつもりはない。
これも稲荷大社に建てられた、もはや何番目かわからない正倉院行きとなったのだった。
明和七年の七月、私をペロペロする目的で幕府を転覆させようとのたまう輩が、最近急増して困っていた。
別に政治体制に不満はなくても、人は生まれを選べない。
江戸出身なら仕官が叶う可能性が高いのだが、地方出身ではどうしてもハンデを背負うのだ。
山県大弐さんもその一人で、今は甲斐国で働いている。
本当は私のお膝元で、政治手腕を振るいたかったらしい。
しかし、そこはやはり狭き門だ。
結果的に夢破れて私への信仰をこじらせるあまり、倒幕などと口にするようになった。
なので私は、気持ちだけ受け取っておきますと、お手紙と禁酒が解けたら飲んでくださいと、またもやお供え物で在庫過多の高級清酒を送っておいた。
何にせよ、今日も日本は平和なようだ。
私は縁側に腰を下ろして狼たちと一緒に、空に広がる非常に珍しく綺麗なオーロラを眺める。
そして早熟のスイカに齧りついては、小さな口から種をポンポン飛ばすのだった。
明和八年の夏、数ヶ月前に沖縄の石垣島を大津波が襲った。
だがやはり避難訓練を続けていたし、防波堤でも多少は軽減されたので、今後もこの調子で行きたい。
そして同年、山城で宇治を中心にお蔭参りが大流行する。
だが実際にはそう見せかけて、やはり本命は江戸の稲荷大社であった。
またもや神社関係者からの悲鳴が響き渡ってデスマーチに突入したのは、もはや言うまでもないのだった。
明和が終わり、安永が始まった。その三年に、杉田玄白さんが解体新書を刊行した。
江戸幕府が開かれた当初から、日本の医学は圧倒的な速さで発展し続けてきたが、今回はその集大成になる。
私の前世知識や現代の西洋と東洋、それらの中から使えるものを取捨選択していく。
そして世界に先駆けて、独自に洗練したのが日本発祥の医学書であった。
これもお供え物として受け取り、パラパラとめくって目を通してみる。
だが自分には家庭の医学の知識はあっても、本職の医者ではない。元は平凡な女子高生だった。
読み解ける項目は限られているが、詳細なイラストも描かれていたので、わかるところだけ読んでいく。
脳や心臓の手術、電気ショックを使った蘇生法などの他、薬剤に関しても幅広くカバーしている。
今の世界的に見ても、百年以上も先の医学と遜色ないレベルに到達していたことに、驚きを隠せなかった。
ちなみにそれとは別の話だが、安永八年に桜島が大噴火して、百名を越える死者が出た。
その際に、北東に小さな島ができていることを、慰問に行った時に知ったのだった。




