彗星
寛保三年の十二月に、夜空に大彗星が観測された。
私はと言うと、ガラス張りの窓からぼんやりと夜空を眺めて、輝く大きな星を目で追う。
その時は何の気なしに、彗星なんて珍しいなーと、お気楽に考えていた。
だがそこで、ふと気づいてしまった。
昔の人は極稀に地球に近づく世にも珍しい彗星を見て、どう思うのだろう。
私のように、ただ綺麗だと感じるだけならまだいい。
しかし、成人前に最低でも小学生レベルの教育を義務付けたとはいえ、中には凶兆だとか、地球の空気が持っていかれるのではないかなど、おかしなことを言い出す人も出そうだ。
特に今回のような彗星の接近は、それこそ百年一度あるかないかぐらいに珍しい現象である。
つまり日本国内に、混乱が広まる可能性があるのだ。
冷静に対処してくれればそれで良いが、悪い方向に転がらないとも限らない。
なので私は、これから自分がどう動くのかを見極める必要があると考えた。
久しぶりにお忍びで外に出かけて、直々に世論調査を行うことに決めたのだった。
それから時は少しだけ流れて、寛保三年の十二月の中旬になった。
江戸の町は新年の準備や仕事納めで、大通りは人の往来が活発になり、とても賑わっていた。
私は側仕えに着付けを任せ、金色の髪をお団子状にまとめてもらい、冬用の防寒具でしっかり変装する。
さらに、いつものように近衛を含めた家族作戦を行い、何処からどう見ても稲荷神なのはバレようがない。準備は万端と言えた。
ちなみに世論調査のやり方だが、街角で手当り次第に通行人を呼び止めて質問をするわけではない。
そんなことをすれば、自分が稲荷神だとバラして回るようなものだ。
なので江戸の町を適当にぶらつきながら、何食わぬ顔で飲食しつつ狐耳を澄ませる。
何だかんだで日本で一番発展し、人が多くなったのだ。そういった情報には事欠かない。
普段は森の奥に引き篭もっているため、狼たちや虫や自然の音ぐらいしか聞こえない。
それでも今は人の話し声が頻繁に狐耳に入ってくる。物陰ならば何処に居ても大丈夫そうだ。
そして世論調査をするなら、下準備も当然必要になる。
そのために、私はあらかじめ計画を練ってきた。
そこで午前十時頃に第一目標に指定した、江戸の町で評判の甘味屋に立ち寄る。
情報提供元は数少ない知り合いの側仕えと近衛、もしくは役人や征夷大将軍なのは言うまでもない。
とにかく暖簾を潜って店内に入ると、正面の戸棚に見本品がずらりと並んでいた。
その中で私は迷うことなく、期間限定と書かれているお菓子コーナーに視線を向ける。
事前に前情報を入れてきたが、やはり実物を見るとどれも美味しそうで迷ってしまう。
すると店主らしい男性が奥から慌てた様子で出てきて、大きな声で挨拶を行った。
「いな……コホン! 失礼、間違えました!」
一瞬正体がバレたかと思ったが、どうやら言い間違えただけなようだ。
「いらっしゃいませ、お客様。ご注文はお決まりでしょうか?」
和やかな笑顔で挨拶を行う中年の店主には悪いが、どれも美味しそうで目移りしてしまう。
しかし、あまり長い時間迷うのも悪いと考えて、直接尋ねてみることに決めた。
「お店のお勧めはありますか?」
「そりゃあもちろん! うちのは全部美味しいですよ!」
過去に立ち寄った焼き鳥屋の店主もそうだった。
私が外出時に買い食いをするときは、全部買って食べ比べてくれと言わんばかりに、やたらと猛プッシュするのだ。
大した商売人だと感心はするが、参考にはならなさそうだった。
なお自分は基本的に引き篭もりで、お忍びで外に出ることは殆どない。
そう考えると期間限定にお菓子は一期一会で、今を逃したら次にいつ巡り合えるかわからなかった。
わざわざ取り寄せを頼むのも悪い気がして、側仕えにチラリと視線を向ける。
彼女は小さく頷き、店主を真っ直ぐに見つめて、堂々と注文を行った。
「期間限定の菓子類を全種類、一つずつお願いします」
すると何故か店主だけでなく、実際にお菓子を作っていたらしき従業員まで、大勢が奥から駆け出てきて、素早く整列する。
「「「ありがとうございます!!! ありがとうございます!!!」」」
彼らは皆、涙ながらに頭を下げている。さらに二回言ったのは、多分大切なことだからだろう。
確かに期間限定とはいえ、全種類コンプする客は少し珍しいかも知れない。
自身は少食なので少し齧って味見した後、お供に下げ渡すことになる。
店側としては、購入してもらえば問題はないのだろう。
側仕えが会計を行っているのを横目に見ながら、私はそんなことを考えていたのだった。
「従業員一同! またのご来店をお待ち申し上げております!」
暖簾を潜る前に、お店の従業員たちが姿勢を正す。
何やら大声を出していたが凄く目立っていたので、正直かなり恥ずかしかった。
でも、お客さんへの感謝の気持ちを忘れないのは、良い点だと思う。
現に前世のスーパーやデパートでも、開店直後は入り口に店員が整列して訪れる人にいらっしゃいませと頭を下げているのを、見たことがあった。
だがもし毎度こんな大歓迎をしているとしたら、正直どう返したら良いのかわからない。
なので、ここは無難に小さくお辞儀をする。
「機会があれば、また立ち寄らせていただきますね」
行けたら行くわ程度の返答だが、表向きとしては悪くない。
にこやかな笑顔で返事をすると、店長や従業員が感涙にむせび泣いていた。
そんなにと内心で引きつつ、荷物は力自慢の近衛に任せて、一足先に暖簾をくぐって外に出る。
そのまま菓子店を、早足に立ち去ったのだった。
第一目標を達成して準備が整った。
いよいよ世論調査を実行に移す時が来た。
私は大通りを歩きながら、キョロキョロと周囲を見回す。
公共の井戸の前で、熱心に立ち話をしている御婦人方を発見した。
ちなみに今の日本の井戸は、真空ポンプ式が一般的である。
それはそれとして聞き耳を立てると、自分の求めている情報について話していることが発覚する。
そこで側仕えと近衛と一緒に、少し離れた路地裏に身を隠したのだった。
「稲荷様、どうぞ」
「ありがとうございます」
期間限定の大きな栗がゴロゴロ入った羊羹が、笹の葉に包まれた状態で手渡される。
私はお世話係に小声でお礼を言い、ありがたく受け取った。
なお、お供は自分たちのお気に入りを、ちゃっかり別に購入していたようだ。
近衛の片方は栗入りアンパンで、もう一人はモンブランを食べていた。
「お銀さんは、栗の茶巾絞りですか」
外ではコードネームで呼び合うのが普通なので、側仕えはお銀で近衛は助さん格さんである。
深く考えずに適当に決めたら、いつの間にか決まっていた。
「これを逃すと旬が終わるので、食べ納めです」
とにかく側仕えはそう言って、茶巾で絞ったような素朴な和菓子を、丁寧に口に運ぶ。
確かに前世でも栗の旬は秋であり、それが過ぎると殆ど見かけなくなる。
保存技術があまり発達していない江戸時代では、冬は良くても春まで保つかはわからない。
私は栗羊羹を齧りながらの張り込み……ではなく、裏路地に身を潜めつつ、井戸端会議を行うご婦人方から世論調査を行う。
狐耳を澄ませれば、まるで至近距離で喋っているかのように会話が聞こえてきた、
「最近夜空に大きな星が光ってるのをよく見かけるけど、何だか怖いわ。
何か悪いことが起きそうで──」
やはり私が予想した通りだった。
日本国民は彗星のことを、不吉が起きる前兆のように思っているらしい。
確かに今の時代の科学では、解明されていないことが圧倒的に多い。
理論だけを知っている状態では、怖がるのも無理はない話だ。
そう思ったら、別の中年女性が意外なことを言い出した。
「そう言えば貴女、小学校の理科の成績が悪かったわね」
「えっ? いえ、まあ確かに。いつも赤点だったかしら?」
「はぁ、やっぱりそうなのね」
彗星と理科の成績と、一体何の関係があると言うのかと首を傾げる。
そこが気になった私は、思わず栗羊羹を齧るのを中断し、井戸端会議のほうに集中する。
「私たちが居る地球の他に、宇宙にはたくさんの星々があるのよ。
今回の彗星も、その一つに過ぎないわ」
「そう言われれば、地動説と天動説を小学校で習った。……かも?」
自分が執筆した教科書に、太陽系や星の動きについて書き加えたことを思い出した。
それに天体観測は、まだ本格的には行われていないものの、望遠鏡は実用化されている。
もしかしたら既に、彗星の動きを捉えているかも知れない。
あとはそこを自分が教えた前世の知識で補完すれば、今の時代でも科学的な検証は可能そうだ。
私が思案している間も、賑やかな井戸端会議は続いていた。
「今どきそんな非科学的な迷信は流行らないわよ」
「だって、夜空の彗星があまりにも珍しかったから」
「気持ちはわかるわ。
天文学者が言うには、地球に接近するのは百年に一度あるかないからしいわ」
中年女性が高学歴なのか、小学生での成績が優秀だったのかは不明だ。
しかし江戸時代の一般庶民が、非科学的な迷信を否定しているのは確かだった。
このような会話を聞いて、私が知っている時代劇の世界とは、大きなズレが発生しているように思えた。
「稲荷様も、地球に落下することはないと断言したもの。心配はいらないわ」
「確かに稲荷様がおっしゃられるなら、安心安全ね」
そう言えば最初は私が、念の為に国民に向けて公式発表をしたことを思い出した。
『彗星が近づいていますが、地球への落下の心配はありません』
確かそんな感じの、当たり障りのない無難な内容だったはずだ。
二千二十年まで巨大隕石の落下で人類が滅んでなかったので、多分大丈夫だという楽観的な判断であった。
なお私が考え事をしている間にも、井戸端会議は続いていた。
「でも貴女、非科学的って言ったけど。稲荷様はどうなの?」
「神皇様は本物の神様よ? 科学的に証明されてるじゃない」
「それもそうね」
「でしょう?」
本当に稲荷神への信仰は大したもので、日本国民は完全に信じてしまっている。
大体自分が神様だということは、ちっとも科学的に証明できていない。
一体その自信は何処から来るのと、内心でツッコミを入れてしまう。
その後、聞こえてくる会話は、私がどれだけ素晴らしい神様で、これまで多くの偉業を成し遂げてきたかに変わっていった。
そろそろ私も羞恥で顔が赤くなってきて、これ以上は聞いていられない。
そしてもはや、正史の江戸時代からは完全に逸脱したと実感させられる。
彗星が幸運、または不吉の前兆であると、いつ頃まで信じられていたかは不明だが、少なくとも日本に混乱が広がることはないようだ。
しかし、情報とは多方面から得ることで信憑性が増すものだ。
そこであちこちから噂を聞いたものの、少なくとも江戸の町人は皆とても落ち着いていた。
それどころか逆に、いい機会だしどうせならお祭り騒ぎにしようぜと、稲荷大明神様の尻尾と呼称する有様だ。
混乱が起きずに平和なのは良いことだが、本当にこれでいいのかと、私は最後まで完全に納得はできなかったのだった。




