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お忍び

 元禄元年の一月になり、井原西鶴いはらさいかくさんが日本永代蔵にっぽんえいたいぐらを刊行した。


 ちなみに彼は、頭一つ飛び抜けた神作家である。

 しかも私を描いた作品が多いことから、その界隈でも有名な人であった。




 お供え物として六巻セットの書籍を受け取ってはいるが、自分が書かれている本は軽く目を通す程度で、正直真剣に読んだことはない。


 さらに言えば、稲荷神を題材とした性関連の書物がお供えされることも珍しくはない。

 やはり自分が登場する書物を真剣に読むのは、敷居が高かった。それがエロ本ならばなおさらだ。


 しかしR18関連について質問されてもまともに答えらないのは、稲荷神として失格かも知れない。

 そっち系の一部住人は大喜びだろうが、当人は色んな意味で恥ずかしくなるのは確定だ。

 これは何とかしなければと、私は決意を固めた。




 なお基本的には、私が登場するエッチな書物は自宅に置いておきたくない。

 一度雑に読み飛ばしたら、稲荷大社の裏に建てられた正倉院に奉納している。


 情報を得るためにもう一度引っ張り出すには管理人を通す必要があるため、かなりの抵抗があった。

 もしそれ以外の手段で新しく手に入れようとするならば、側仕えに依頼しての取り寄せか、自分で町に出て購入しなければならない。

 

 そのような事情もあり、正直あまり気は進まなかった。

 だが動機はどうあれたまには外に出るのも良いかと考え、お忍びで江戸の町に出かけるための準備を始める。


 側仕えに頼むという手も使えなくもないが、日本の最高統治者である稲荷神の命令だ。

 それなのに私が主人公のエロ本を買いに行かされる人の気持ちを思うと、とてもではないがそんな残酷な仕打ちはできなかったのであった。







 人員の手配や移動ルートの掃除、季節に合わせた変装セットを取り揃えるなど、外出の準備には相応の時間がかかる。

 なので実際に行動したのは、元禄元年の二月になってからだった。


 外に出て空を見ると、晴れてはいる。しかし時々吹く風は冷たく、まだまだ寒い。


 なお私は心頭滅却すれば火もまた涼しで、風邪は引かないし怪我もしない。

 だが厚めの丹前たんぜんや防寒頭巾でしっかり髪を隠して、稲荷大社の外へと出て行く。


 綿花の栽培を全国で進めているので、藁装備で寒さを凌ぐ必要はない。

 お金持ちでない庶民も、冬に凍え死ぬことはなくなった。




 ちなみに洋服のデザインも過去に提案したものの、流通しているのは主に和服であった。

 これは最高統治者の普段着が紅白巫女服だからだし、何着が作ってもらっても試着することは滅多になく、殆どがタンスの奥に眠ったままだからと考えられる。


 それでも戦国時代と比べれば、暑さ寒さの抵抗手段も増えていた。

 冬は丹前たんぜん、またはちゃんちゃんこを着て、さらには夜は温かな布団で寝られるようになったのだ。


 日本の文化水準は確実に向上していると、江戸の町を見回しながら、しみじみとそう感じたのだった。




 それはともかくとして今の私は目立たないように、近衛二名と側仕えを一人つけて家族を演じている。

 コードネームはいつぞやと同じく助さん格さんとお銀だが、あくまでデフォルトなので別に他の偽名を使っても構わない。


 しかし思えばこれまで、江戸の稲荷大社の外には毎朝のジョギング以外は、滅多に出歩くことはなかった。


 公務や先触れを出した訪問が殆どで、入用な物があっても側仕えに伝えれば、すぐに取り揃えてくれる。

 森の奥の一軒家に引き篭もることが私の望みなので、手厚いサポートに感謝こそするが文句はあるはずがない。




 ただ、人目があると素を出すこともできず、常に稲荷神を演じなければいけない。

 流石に慣れたので気疲れはしないが、見られているのは何となく落ち着かない。それに下手に情が湧いて親密になると、また別れが辛くなる。


 何よりワッショイワッショイされると、分不相応な評価に恥ずかしくなって赤面してしまうのだ。


 そのため付きっきりの側仕えや護衛は遠ざけて、程々の距離感を維持するようにとお願いしている。

 炊事洗濯掃除は全て一人こなす、悠々自適な暮らしを送っているのだった。




 まあ公務や宅配、ジョギング等で割と頻繁に会っている。

 常に狼たちに囲まれてるので、寂しくない。

 だがあまり仲を深めたくないとはいえ、時々人恋しくなることもある。


 今回の江戸の町のお忍びも、多分そういった感情が強まって重い腰を上げたのかも知れない。


 それに今を生きる日本国民が普段どのように過ごしているのか、近くで見てみたい。

 孫を見守るお婆さんのような視点だが、私の心境を表すにはこれが適切であった。




 上下水道が完備された江戸の町の大通りを、側仕えと手を繋いで歩く。

 私は興味津々といった表情で、あちこちを観察していた。


 ちなみに本日の最終目的地は、狐の穴と呼ばれる大型書店だ。

 簡単に紹介すると、一般向けからR18方面まで幅広く取り扱う、その界隈では有名な販売店である。


 そして私が途中で、あるものを見つけて足を止めた。

 まだ若い側仕えが私が立ち止まったことに気づいて、こちらに顔を向けて小声で話しかけてくる。


「いかが致しましたか?」


 ちなみに江戸幕府を開いてからは、毎年希望者が殺到する中で抽選を行い新規に雇っている。

 さらには時々公務に出て、現地で子供たちを拾ってきたりして、今では大勢の者が稲荷大社で働いていた。


 今回のお忍び外出で選ばれたのは、家族を演じるために全体的に若い。


 人目がある時は、自分は娘か妹で通し、兄弟姉妹を演じる。

 髪や顔、耳や尻尾はしっかり隠しているので、自分は見た目相応の子供として扱われるだろう。




 それはともかく、私は大通りのある場所を指差した。

 側仕えと近衛もそちらに視線を向けて、すぐに合点がいったようだ。


「焼き鳥ですね。お食べになられますか?」


 彼女の提案に、私は若干恥ずかしそうにコクリと頷く。


 お供え物は山程貰っているが、ぶっちゃけ自分は無一文だ。

 家族(仮)のお財布が頼りだが、一方的に要求するのも気が引ける。


 それを小声で伝えると、何故か側仕えが急に私を抱きしめてきた。


「むぎゅっ!?」


 大きな脂肪の塊に顔が挟まれて変な声が出てしまった。

 だが三人は気づかずに、感極まったように涙を流す。


「気になさる必要など、ありませんのに!」

「何と慎ましい!」

「好きなだけご購入ください!」


 ついでに近衛が慎ましいと言ったのは、自分の胸のことだろう。

 かれこれ百年以上経ったが一向に成長しないので、今も貧富の差を否応なしに自覚させられている。


 しかも彼らは顔を覆って涙を流しているので、絶対憐れんでいる。


 だが冬とはいえ、江戸の大通りで三文芝居をしていると、通行人の注目を集めて面倒なことになる。


 なので私は、狐っ娘の怪力で側仕えを強引に引き剥がして、近衛のほうに顔を向けて口を開こうとする。

 しかし正気に戻った彼のほうから、先に声をかけてきた。


「それでは、屋台ごと買収すればよろしいですか?」

「何処の世間知らずのお嬢様ですか! 一本で十分です!」


 大体お供のお財布頼みなのに、そんな無理がまかり通るわけがない。

 もし上に掛け合って稲荷大社から出させたら、清廉潔白なイメージに傷がつく。


 とにかくあまりにも常識外れな指摘だったので、思わず大声を出してしまった。

 私はもしかしたら正体がバレたかもと考えて、恐る恐る慎重に周囲を見回す。




 うっかり通行人と視線が合って、一瞬驚いた表情に変わった。

 だがすぐに、何食わぬ顔で各々の仕事や行動に戻っていく。


 少々動きがぎこちない気もするが、近づいて話しかけて来ないので、多分大丈夫だろう。


「お母、あの女の子って──」


 私が一安心したときに、別方向から声が聞こえたので慌てて振り返る。

 そこには年若い女性と、私より年下の男の子が居た。


「シッ! 見ちゃいけません!」


 視線の合った母親はぎこちない微笑みを浮かべて、慌てて子供の口を両手で塞いだ。


「きょっ、今日は良いお天気でございますね!」

「あっはい、少し肌寒いですが良い天気ですね」


 私は無難な相槌を打つと、彼女は愛想笑いしながら小さな息子を引きずってカニ歩きで移動する。

 そのまま近くの路地裏に入り、何も言わずにフェードアウトした。


 一体今のは何だったのかと困惑する私が、首を傾げて疑問を浮かべる。

 だがタイミング良く側仕えから声をかけられ、現実に引き戻される。


「それよりも、何を注文されるのですか?」

「あっ、そうですね。取りあえず現物を見てから決めましょう」


 やはり私は色気より食い気らしい。

 社会勉強や人恋しさで江戸の町にお忍びでやって来たつもりだったが、焼き鳥の屋台に後ろ髪を引かれてしまった。


 そして多分、これから先にもグルメツアーと称するお忍び外出が頻発する。

 そんな確信めいた予感がするのだった。

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