寛永の大飢饉
寛永十七年。とうとう来るべきものが来た。
その年は、あまりにも酷い凶作だったので、寛永の大飢饉と呼ばれる天災であった。
追い打ちをかけるように西日本で牛疫が広がり、感染した家畜が大量に亡くなったので、悪いことは重なるものだと苦虫を噛み潰したような表情になる。
こちらとしても被害の拡大を防ぐため、検疫を強化したり、一斉殺処分を行ったりと、やれることは全て実行していく。
一番の問題は飢饉だが、この時のために備えは万全にして来たつもりだ。それでも被害は全国規模なので、何とも頭が痛くなる。
寒さや日照りに強くなるように品種改良を行ったり、米倉や食料庫を増やして貯蔵に回したり、米以外の食物の生産にも力を入れたりと、多方面から弛まぬ努力を続けてきた。
なのでこの程度でへこたれてなるものかと、私は気合を入れて舞台に立つ。
「皆も知っての通り、今は全国的に危険な状態です!
ですがこれは神の試練でも、天罰でもなく、ただの異常気象です!」
江戸の稲荷大社の境内に設置された舞台の上で、徳川家光さんが自由に喋って欲しいと言ったので、いつも通り好きにやらせてもらう。
私は不安気な表情をして暗く沈んでいる民衆の前で、ありったけの声を張り上げる。
「このような事態を想定して、備えてきたつもりです!
明けない夜はないように、どのような苦難も皆が協力し合えば必ず乗り越えられると、私はそう信じています!」
未来では冷夏や日照りなどは気象変化の一種なのだが、今の時代は何でも神様の仕業で片付けてしまう。
民衆は現代知識で賢くなったが、それでも個人差がある。
人間には到底抗いようのない天災に遭遇すると、神の前では何をしても無駄だと、生きることを諦めてしまう者も出てくるのだ。
「これより江戸幕府は災害対策本部を設置し、各藩との連携を密にします!
どうか皆さん! 希望を捨てずに生きてください!」
全国規模とはいえ、たかが冷夏で絶望して命を捨てるなんてバカバカしい。
死ぬならせめて、倉に溜め込んだが使い道のなかった食材を、残らず食べきり、どうしようもなくなってからだ。
取れる手段を全て試して、それでも駄目なら諦めもつくが、まだ災害支援が始まってもいないのに諦めるなど、私は絶対にごめんだ。
境内の舞台から降りたあとは、脇目も振らずに本宮の謁見の間に向かう。
先程宣言した通り、江戸幕府の対策本部を設置するためだ。
立派で大きな城が建っているのに、全国規模の災害が起きたら稲荷大社を拠点にするのは、江戸時代の統治システム上、仕方ないことだ。
それに、行き来に不便な高層建築よりも、平屋で人の出入りが楽な本宮のほうが情報の伝達が早いので、ある意味では便利であった。
「物資の運送は船舶と、試験運転中だった蒸気タービン機関車を使います」
「船舶はともかく、蒸気タービン機関車は長距離試験と耐久実験もまだだが、大丈夫なのか?」
「点検しながら運用しますが、そう上手くはいかないでしょうね。
しかし、失敗から学ぶことが大切なのです」
本宮の謁見の間で、徳川家光さんや老中、その他の役人が集まり、対策会議を行う。
鉄道網は前世の地図で北は青森、南は山口まで開通している。江戸幕府を開いた頃から続けてきた、公共事業の成果だ。
しかし日本は山が多く、四国と九州と北海道は、本州から地続きになっていない。
トンネル工事中に崩れて、死傷者が出たときは大変だったが、いつかは誰かがやらなければいけない、大切な国家事業だ。
それに犠牲になった人の思いを無駄にしないためにも、諦めたりせずに、必ず完成させるべきだ。
中身は元女子高生でも、今だけはまるで本物の統治者になったかのようだ。
私は日本国民に、そう強く訴えかけたのだった。
ちなみに蒸気タービン機関車の実用化の目処がついたのは最近で、短距離のエネルギー効率と耐久性は改良を重ねて問題なくなったが、長距離運用試験はこれから行う予定だ。
若干の不安要素があるが、今現在の強力な手札の一枚なのには変わりない。
今回の大飢饉を、運用試験の代わりにすればいい。
最初から成功するなど思っていないので、失敗から学んで改善に繋げることが大切なのだ。
まあ色々言ったが、その辺りのことは徳川家光さんや各関係者も理解してくれたようで、私の方針に反対はしなかった。
それに正直今は手が足りないので、持ち札を全て使わないと、危機的状況に対処できないのが大きい。
だが、良い報告もある。
元々江戸幕府の倉はどれだけ増設しても、すぐに溢れてしまっていた。
正直、備蓄の使い道に困って頭を抱えていたのだ。
そして今回は大飢饉で全国的に食料が不足し、江戸から日本中に分配する必要がでてきたのだ。
なおこれまでは荷馬車で運んでいたのだが、それでは時間がかかり過ぎる。
食料が届く前に餓死者こそ出ないだろうけど、パニックになって暴動が起きては意味がないのだ。
「陸路の他にも海路での輸送も必要ですね」
「北海道とオーストラリア、そして沖縄。他の友好国にも救援物資を要請しよう」
「…そうですね。相手国に余裕があれば、その方針でお願いします」
「任された。早速手配しよう」
こうして対策会議での基本方針が決定して、徳川家光さんたち関係者は、与えられた役割を果たすべく各地に飛び、事態を収拾するために奔走した。
なお私はと言うと、大まかな指示を出したらあとは委任プレイなので、いつもの小屋の縁側でワンコと戯れていた。
寛永の大飢饉なのに、これっぽっちも緊張感がなかったのだ。




