神皇
私が征夷大将軍になってから時が流れ、天正十年の冬のことだ。
森の奥の小ぢんまりとした家の一室で、七輪の上に金網を乗せてお餅を焼く。
狼たちが集まって暖を取っている横で、私は机に向かい合って座布団に腰掛け、山積みにされた書類を開いて目を通していた。
いつもの政務というやつだが、狐っ娘の身体能力は凄まじいので、処理速度が凄まじく速い。
そしてこれまでは、やってもやっても終わらない書類の山に辟易していた。
しかし最近は日本の治安が昔と比べてかなり良くなり、江戸幕府の役人も増員されて仕事を覚えるなど、組織運営の効率化が図られて上手く回っていくようになる。
「ふう、今日の仕事はこれで終わりかな」
なので私に回される仕事が、かなり減ったのだ。
だからふと窓の外の景色を眺めながら、もう自分が必要ないとは言わないが、いなくても江戸幕府は運営できるのではと思った。
「⋯⋯そうだ! 退位しよう!」
京都に行きたくなったから、突発的に旅行をするような気軽さだ。
しかし前々からいつかは辞めるつもりだったし、こういう機会でもないと退位しようとは考えない。
なので私は座布団から立ち上がり、壁にかけられている綿のコートを身につける。
そして先程片付けた書類の山を持って、玄関に向かって歩いて行くのだった。
私が征夷大将軍を辞めたがっていることは、徳川さんや他の役人にはお見通しのようだ。
仕事の引き継ぎなどもあるので連絡をしに行くと、とうとうこの日が来たかというような真面目な表情で対応される。
てっきり私が退位するのは止めるのかと思ったが、別にそんなことはないようだ。
「わかりました。謹んでお受け致します」
「ええ、よろしくお願いしますね」
稲荷大社の謁見の間で退位の件を告げると、すんなりと受け入れてくれた。
このあとは式典など色々と準備することがあるが、それは追々だ。
今はようやく征夷大将軍という役目が終わり、肩の荷が下りた。
これで普通の女の子に戻って、悠々自適な隠居生活が送れる。
私はそう思って大きく息を吐くと、徳川さんが真面目な顔で口を開く。
「稲荷様が征夷大将軍を辞めるのは構いません。
ですが、一つだけ私の願いを聞いていただけませんか?」
「願いですか? もちろん構いませんよ」
今は清々しい気分なので、徳川さんの願いを聞くぐらいどうってことはない。
ただし叶えるかは別だけど、彼もそのぐらいはわかっているだろう。
なので征夷大将軍としての最後の仕事だと割り切り、なるべく聞いてあげるつもりで耳を傾けるのだった。
色々あって時は流れ、征夷大将軍を退位して一年近く過ぎた天正十二年の春のことだ。
私は相変わらず、江戸の稲荷大社の神域の森に住んでいた。
あれから政務や仕事をしなくて良くなったのは、とても嬉しい。
長年の夢だった平穏な暮らしも送れている。なのでそれに関して、不平不満を言う気はない。
だが完全に納得できるかというと、実はそうではないのだ。
その原因は、徳川さんが就かせた神皇という意味不明な役職にあった。
これは朝廷よりも位が上で、日本で一番偉い存在だ。
詳しく説明すると、地上に現界している神様の特別な肩書らしい。
どう考えても私のために新しい作った階級であり、征夷大将軍でなくなっても肩の荷が下りた気がしないのだった。
それでも多少は気楽になったので、ポカポカ陽気な小春日和に、縁側で座布団を敷いて日向ぼっこを堪能する余裕はある。
「政治から遠ざかって仕事は減ったから、そこは良い点だと思うけどさぁ」
自宅の周りでは家族の狼たちが楽しく遊んでいて、自分も近くに寄って来た虎サイズのボスの頭を優しく撫でる。
征夷大将軍だった頃にしていた、政務のお仕事がなくなったのは良いことだ。
だが年中行事に出席したり、たまに民衆の前に顔を見せて本音トークをするという役目は残っている。
何だか最高統治者というより、マスコットキャラやアイドルのお仕事のようだ。
おまけに日本でもっとも偉い立場なのは変わりなく、基本的な方針は私が出している。
予想外のトラブルが発生したら幕府の関係者が相談しに来るので、政治と完全にノータッチなわけではなかった。
「徳川さんはきっと、こうなることがわかってたんだろうなぁ」
何しろ神皇というのは、自らの意思で退位はできない。
神様が地上に降りた瞬間に、勝手に付いて来る位なのだ。
そして神皇を辞めるためには、地上の肉体を捨てて天界に帰る必要がある。
つまり私が死なない限り、ずっとこの役職のままであった。
徳川さんにしてやられたという悔しさはあるが、彼なりに気を遣ってくれているのは知っている。
おかげで今は仕事は殆どなくなり、表面上は悠々自適な隠居生活と言えなくもないのだ。
「私が強行すれば退位はできるけど。
それはそれで、平穏無事には済まなくなるしなあ」
江戸時代は余程不味い事態にならない限り、三百年の天下泰平は守られるはずだ。
それでも列強諸国がどう動くかは、まるで読めない。
外から平穏な暮らしが崩される可能性も、十分にありえた。
こんなことなら、もっと真面目に歴史を学んでおくんだったと大きな溜息を吐く。
ついでに私が神皇を辞めたいと口に出せば、上を下への大騒ぎになるのは目に見えている。
波風立てずに征夷大将軍を徳川さんに引き継いでもらっただけでも、とても凄いことなのだ。
なので今回はこれでヨシとしておく。
それに徳川さんが昨晩わざわざ謝罪に来てくれて、お土産に江戸で評判のぼた餅をくれたのだ。
日持ちしないので今日の十時のオヤツにいただこうと、戸棚から出して縁側まで持ってきた。
そして私は美味しそうなぼた餅に手を伸ばす。
きっと彼なりに苦渋の決断だったのだろう。
日本にとって、今はそれが一番良かったのだ。
私も渋々だけど現状を受け入れていたので、彼のことを許した。
おかげで今では毎日のんびり過ごせていて、毎日美味しい物が食べられるようになる。
稲荷大明神様へのお供え物が、全国から送られてくるのだから、そんな生活も悪くはない。
「あとは、寿命が人間と同じだったらなあ」
もし人間と同じなら、強引にでも征夷大将軍を退位すれば目的達成だ。
たとえ列強諸国が攻めてきたとしても、その時期には寿命でとっくに亡くなっている。
「取りあえず、征夷大将軍を退位するという目的は果たした。
そして森の奥で平穏に暮らせてるし、これはこれで良かったのかな」
流石に、何百年も生きる不老不死ではないと信じたい。
だが姿形が変わらず、怪我も病気もしないことから、普通の人間よりかは頑丈で長生きする可能性は非常に高い。
「これまで私の味方だった時間が、まさか敵に回るとはねぇ」
人間はいつか、自分たちが信仰していた神や精霊は自らの作り出した幻想であり、心の拠り所なのだと知ることになる。
それに唯一残された最大の謎を解き明かそうをする科学者は、これから大勢出てくることだろう。
もし江戸時代が終わるまで生きるのなら、私はどのように対処するべきか悩む。
だが現状では打開策が思い浮かばないので、いつものように一旦保留とし、ぼた餅を小さな口でモキュモキュして糖分を補充する。
取りあえずは元女子高生だった、ロリペタ狐っ娘が平穏に生きられる時代が訪れることを、神頼みで切に願うのだった。




