三河国
<本多忠勝>
長山村に稲荷神を自称する幼子が現れた。
そんな嘘としか思えない噂は急速に広まり、いつ頃からか岡崎城下でも聞こえるようになった。
殿は敵勢力の計略。もしくは神を自称する愚か者だと考えたものの、やはり気になるようだ。
会議の場で密偵に探らせる方針を皆に伝えたが、ちょうど拙者はその会議に同席していた。
さらに仕事が片付いた所だった。
なので自分が行って直接確かめて来ると、堂々と名乗りを上げる。
殿は大層驚かれていたが、止めても聞かないだろうと思われているようだ。
苦笑しつつも、偵察任務を命じられた。
期限は十日で、それまでには帰ってくるようにと言われる。
さらに路銀を渡してお供の者たちまでつけて、快く送り出したのだった。
今現在の拙者は、敵の進軍を遅らせるために整備は二の次の街道を、馬に乗ってひた走る。
部下たちと共に、噂の長山村へと向かっていた。
「稲荷神を名乗る物の怪など、拙者の蜻蛉切で一突きよ!」
偵察任務は十日という期限付きだ。
そこまでのんびりとはしていられないので、寄り道せずに真っ直ぐに街道を進む。
そのままいくつもの関所を抜けて太陽の位置を確認すると、もうすぐ昼になりそうだと感じ取る。
「長山村は、まだ遠いのか!」
「あと一刻以内に到着するかと!」
この辺りを良く知る部下に尋ねると、もうすぐらしい。
「しかし前に来たときよりも人が多く、街道の整備も進んでいるような気が致します!」
「そうなのか?」
確かに長山村に近づくほどに、街道を行き交う人々の数が増えている。
街道も歩きやすいように整備されているのか、明らかに雰囲気が変わった気がした。
部下たちもこれまでの寂れた街道とは違うと感じたのか、拙者に小声で話しかけてくる。
「三河國一之宮の砥鹿神社への参拝客でしょうか?」
旅人も増えて目的地まであと少しということで、速度を落として進む。
部下が拙者に追従しながら尋ねてきたので、馬を走らせながら思案する。
事前に調べてきたが、長山村から少し離れた場所に三河国では知らぬ者なしと言えるほど有名な神社があった。
名前は砥鹿神社で、街道を行き交う人々の目的は、そこへの参拝だと考えるのが妥当だ。
しかし、想像だけで物事を決めつけるわけにはいかず、偵察任務では信憑性の高い情報を持ち帰ってこそである。
万が一、いや……億が一でも砥鹿神社ではなく、噂の稲荷神に参りに来た者も混じっているかも知れない。
良い機会なので拙者は馬を止めて、しばし周囲を観察する。
そして楽しそうに話しながら歩いてきた中年の夫婦に、ゆっくり近づいて行く。
やがてすぐ目の前で足を止め、馬上から声をかけた。
「そこの者たちに、少し尋ねたいことがあるのだが、良いか?」
「おっ、お侍様!? はい、もちろん構いません!」
こちらは複数人で、鎧武者姿ではなく麻の服だ。
それでも皆が刀や槍を持っているので、下手をしたら斬られると思って恐ろしいのだろう。
「乱暴する気はない。ちと気になることがあり、一つか二つ尋ねたいだけだ」
「そっ、そうでございますか」
しかし中年夫婦は若干腰を引けているが、受け答えははっきりしている。
「お前たちは参拝が目的か?」
「へえ、その通りでございます」
となると、やはり砥鹿神社に行ってきたのかも知れない。
それを聞いて拙者も部下も、取りあえずは自分たちの予想が正しいことを確信する。
「ならば、この先の砥鹿神社に行ってきたのだろう?」
「はっはい、確かに砥鹿神社にも参拝致しましたが──」
砥鹿神社に参拝したのは間違いない。だが何故か急に歯切れが悪くなった。
そんな若干気まずそうに視線をそらす夫婦を見て、部下の一人が苛立った様子で大声を出す。
「どうした! 早く話さぬか!」
すると彼らは、小さく悲鳴をあげて地面に座り込む。
続いて必死に頭を下げて、慌てて喋り出した。
「禁忌を犯して稲荷神様に参拝したのは、ほんの出来心でございます!
ですのでどうか! 命だけはお助けくださいませ!」
夫婦揃って地面に頭を擦りつけて何度も謝罪するが、正直何故彼らがそのような行動を取るのか、拙者にはまるでわからない。
部下共々、大いに困惑してしまう。
しかし、このままでは埒が明かない。
命を取る気はないと再度伝えて、謝罪を止めさせ顔も上げさせる。
そして、何故そこまで怯えるのかと率直に尋ねた。
「稲荷神様を語る偽者の参拝。さらに間違った教えを信じるのは、禁忌でございます。
私たちの村の和尚様が、そのようなことをすれば仏罰が下ると言い始めまして──」
彼らの意見を聞いた拙者は、やれやれと大きな溜息を吐く。
三河国では一向宗が盛んに信仰されているので、禁忌と言い始めたのもその宗派だろう。
自分も少しは知っていて、腐敗が蔓延し、上層部に賄賂を渡すのは当たり前だ。
そして末端の坊主も好き放題威張り散らすので、決して清廉潔白な宗教団体ではない。
(開祖の規律を堂々と破り、賄賂や横領が蔓延しても知らぬ振りだ。まさに世も末だな)
拙者も中年夫婦も仏の教えを信じてはいるが、上から押さえつけるやり方は反感を覚える。
だが三河は一向宗の力が強く、監視の目がそこかしこにあった。
迂闊なことを口にしたせいで一揆を扇動されては堪らないので、口を閉ざして重い息を吐く。
(警戒するに越したことはないし、一向宗を貶めるような発言は控えねばな)
中年夫婦に和尚からの沙汰が下らないことを願いつつも、なるべく早く情報収集を終わらせるべきだ。
念の為に周囲の者に話を聞かれないよう、部下に見張らせる。
拙者は小さく咳払いをして、本題に入ることにした。
「ところで、その稲荷神……様、という輩はどうだったのだ?」
「あっ、あの……どう、とは?」
今の質問では大雑把過ぎて要領を得ないのか、中年夫婦が困惑している。
ついでに彼らの信仰を否定する気はないので、今この場だけでも稲荷神に様をつけてやり、率直に尋ねる。
「稲荷神様は本物か、それとも偽者か。どうなのだ?」
「どうと言われましても、……なあお前?」
「そうですね。稲荷神様は、まごうことなき本物でございました」
中年女性が口を開く。
夫のほうも同意だとばかりに、一緒になって何度も首を縦に振る。
つまり少なくともこの夫婦は、稲荷神様と名乗る輩が本物の神に見えたらしい。
だが、いくら神仏の存在が当たり前に信じられるからとはいえ、たった一組の中年夫婦の証言を鵜呑みにはできない。
「では、稲荷神様だと信じるに足る根拠はあるか?」
「私たちの生活を豊かにしてくれたからでございます」
即答であった。
もしかしてだが、稲荷神という輩は奇跡を起こせるのだろうか。
雨を降らせたり天候を自由に操り、怪我や病気を治す。人を超越した力を振るうのは神や仏なら十分にあり得る。
しかし一体どのような能力を使うのか気になり、もう少し詳しく尋ねる。
「生活を豊かにとは、どういうことだ?」
その力を使って人々の生活を豊かにしたのかだとすれば、彼らが信じるのも当然の話のように思える。
「滑車と洗濯板などを広めてくれたのです」
「……はっ?」
自分だけでなく周囲を見張っている部下たちまでもが、酷く困惑して動きが硬直する。
滑車と洗濯板とは何ぞやと首を傾げる。
だがすぐに道具や知識の類だと検討をつけた。
しかし、それを広めるだけで神様として敬われるかと聞かれると、甚だ疑問であった。
「では神としての奇跡、そちらは何かないのか?」
「もちろん、稲荷神様が直接奇跡を起こされた逸話もございます」
「おお! そうか!」
何だか、話を聞くたびに困惑が大きくなる。
妖怪か神か詐欺師か、それとも敵国の計略なのか、正直なところ良くわからなくなっていた。
ちなみに今は、何だか凄い狐っ娘という評価である。おまけに直接確かめてないので、信憑性はかなり怪しい。
だがしかし、殿に情報収集を命じられたのだ。
こんな信憑性の欠片もない、胡散臭い噂を持ち帰るわけにはいかない。
そろそろ根拠に足る何かが欲しかったので、自信満々といった表情の中年夫婦を見て少しだけ安堵する。
「稲荷神様は常に狼の群れを従えていて、大猪の首を手刀の一撃で切り落として、腹も切り裂いて内臓を手掴みで取り出したらしいです」
「五穀豊穣をもたらすのではないのか!? まるで、戦いの神ではないか!?」
しかし、普通の人間では到底不可能だ。
もしこれが事実であるとすれば、人間が敵う相手ではない。
間違いなく神の領域に至っているという、根拠に成り得る。
ただし五穀豊穣ではなく、荒ぶる神とか破壊神のほうに大きく天秤が傾く。
中年夫婦の説明を受けると、ただ力を自慢したかったわけではなく、血を抜いて内臓を取り出すことで、肉の生臭さを消して腐りにくくするのだと理解したが、その割にはやり方が荒っぽすぎる。
しかし稲荷神は、日本に伝来する前はダキニ天だったらしい。
戦いも得意なのも、なくはないかと考え直した。
「それに冷たく澄んだ水の出る深井戸を、たったの一日で掘り終えました。
さらに、滑車を作って水汲みの負担を軽くしてくださりました」
「水と知恵の神が混じったのだが?」
この国は八百万の神が存在しており、それぞれ御利益が違う。
天照大神のように複数の加護を持っているのも、そこまで珍しくはない。
だが稲荷神といえば、五穀豊穣のご利益と決まっている。
それ以外にも戦と知恵と水が追加されるのは、いくら何でも盛りすぎだ。
「稲荷神様がもたらしてくれた洗濯板とたわしのおかげで、水を節約しつつ汚れも良く落ちます」
全く理解はできないが、稲荷神という存在が凄いのはわかった。
人々の生活を豊かにしているのは間違いないが、謎は深まるばかりだ。
しかし、それ以外にも一つだけわかったことがある。
「どうやら稲荷神とやらは、農耕のご利益はなさそうだな」
「いえ、農耕に関する道具はもうすぐ完成するようです」
「そっ……そうか」
一言呟くだけで精一杯だった。
何と言うか彼らの話を全て信じるのならば、あらゆる分野を網羅した神になってしまう。
居ないわけではないが、そんなことが出来るのは、仏や日本神話の大神様ぐらいだ。
「もし千歯扱きが実用化されれば、脱穀に使う時間はこれまでの半分以下になるらしいですよ」
「何っ! それは本当か!?」
「稲荷神様の考案された道具ですので。確かかと」
彼らは稲荷神のことを、すっかり信じ込んでいるようだ。
しかし今では自分と部下も、それは無理もない話だと納得する。
何故なら、稲荷神は優れた技術や道具を生み出すが、それを秘匿したり金儲けに使ったりはしない。
とにかく無償で周囲に広めているのだ。
見返りを求めることなく、常に人々の生活を豊かにしようと注力している。
そして神の御業を、人にも実用可能な技術に落とし込もうとしていた。
彼ら自らの手で、五穀豊穣という願いを実現させようとしている。
彼女の目的や正体は相変わらずわからない。
しかし情報を整理すると、少なくとも拙者たち人間の敵ではないことは明らかだろう。
中年夫婦との会話の中で、朧気だが噂の稲荷神の姿が見えてきた気がした。
「その稲荷神様に、拙者も興味がでてきた」
「稲荷神様は美しい御姿で、狐の耳と尻尾を生やしておりますよ」
中年夫婦から聞いた稲荷神の容姿は、岡崎城下の噂と一致していた。
付け耳や尻尾かどうかは不明だが、彼らのように目撃証言もあるなら実在はしているのだろう。
その後、さらに長山村や本人が居る詳しい場所を聞かせてもらった。
色々と情報提供で世話になった彼らには、少しだけ金を渡して別れる。
目指すは稲荷神が暮らしているという、山の社務所だ。
直接この目で見て本物だという確信を得たい。
いつの間にか人を食らう妖怪という可能性は、すっかり消えていたのだった。