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睡蓮と檜

 檜は自分の部屋にある引き出しを開け、中に入っていたガラクタを取り出した。

 その引き出しは二重底になっており、底を外した下に、別のスペースがあった。そこには銃本体とそれを手入れするための小道具が入っていた。

 貴重品を扱うように両手で持った漆黒のCZ75のグリップ部には、赤い錆が疎らに付いていた。檜はしばらくそれを眺めた後、目を閉じた。


 北京郊外にある殺し屋を育成する学校。

 そこでの四年目のある日、全員の机の上に、この銃が置かれた。

「今皆さんに配った銃を卒業まで使ってもらいます。」

 真っ黒な長袍(中国の伝統的な衣装)を纏った男性教師がそう言った。

 丸いレンズのサングラスをかけた上では毛穴一つない頭が教室の蛍光灯を反射して光っていた。黒の手袋を嵌めた両手は後ろに組んでいる。

「人の命を奪う為に開発された武器。それは人の命を奪うことだけを考えた形状です。なんとも美しいじゃありませんか。洗練された形は、それ以上進化しません。注射器、眼鏡、傘、これらは100年以上、形状が変わってません。拳銃も、CZのその型で完成しているのです。銃というのはきちんと手入れをすれば長く使えます。そして使い手が重要です。射撃が上手くいかないときは自分の腕がまだ未熟なんだと思いなさい。何でも新しい物に目移りするのは愚の骨頂ですよ。これから皆さんはその銃刃を何度も握るでしょう。手に豆ができても、その豆が潰れても、どんなに痛くても。そして卒業後もこの銃を使い続けなさい。そして銃を見る度に思い出すのです。ここで学んだことを。ここの訓練を乗り越えた事を。」


 檜はゆっくりと目を開けて、銃を鞄にしまい、作業着に着替えた。リビングでは妻と娘が朝食を摂っていた。

「じゃあ行ってくるよ。」

 檜は板金工場に出勤するふりをした。

「行ってらっしゃーい。」

 棒読みで答えた妻は、こちらに見向きもせずに、娘が食べた朝食の食器を片付けていた。


 檜はしばらく二人を見つめた後、ドアを開けた。


 夕方、新島電機の店主は営業時間中にも関わらず、テレビを観ながら座っていた。

 チリンチリンというベルが鳴ったので、面倒臭そうに立ち上がった。

「いらっしゃいませ~。あぁ田口さんですか、珍しいですね。」

 店主がリモコンでテレビを消しながら言った。


「あぁ。早速だが新しい電池は入ってるか?」

 檜は聞いた。

「新しい電池?単三ですか?単四ですか?」

「とぼけるなよ。前回と同じ電池で良い。10本程買いたい。」

「そんな怖い顔しないで下さいよ。田口さんの言う電池は、もう全然売れないものですから、仕入れないことにしたんですよ。」

「まだ在庫はあるだろ?一本でも構わない。色付けて払うから売ってくれ。」

「古い電池なんで、もう使えなくなってるかも知れませんよ、それで構わないなら。」

 銃の弾丸は湿気に弱く適切な条件下で保管しなくてはならない。そのため檜はストックを持つことはせず、その都度このように業者から調達していた。

「それでいい。キャッシュで200払う。」

「要りませんよ。」

「どうしてだ?」

「この世界から撤退します。在庫処分料でむしろこっちが払いたいくらいですよ。その代わりもう来ないで頂けますかね。」

「あぁ約束する。もう二度と来ないよ。」


 檜は店から出た後、二時間ほど車を走らせて御岳山へ入った。

 道路脇にある適当なスペースに車を止めて、歩いて森の中に入って行った。一時間ほど歩いた後に仰向けに寝転がった。

 空には星が輝いている。


(懐かしい。卒業試験のあの三か月間、こうやって星空を見上げて眠りについたんだ。

「俺が周囲を警戒してるから、二人は寝ておけ。」

 ロシア人のあいつはそう言った。

「俺たちが寝ている時に寝首を掻くなよ?」俺はそう言い返した。

 そしたらあのロシア人はこう言った

「なら一人ずつ眠ろう。起きてる二人は周囲とお互いを監視するんだ。このやり方は三人いないと成立しないんだから、寝てる一人を襲うメリットは無くなる。」

 そうして俺たちは試験中でも、ひと時のやすらぎを得る事ができた。

 眠る前にこうやって夜空を見上げる瞬間が試験中の幸せだった。)


 檜は起き上がりあぐらをかいた。

(昨日の晩、ある一人の情報屋から蝮が殺されたことを聞いた。

 俺には無理だ。この戦いに参加することはできない。

 やはりあの場で全員を始末しておくべきだった。

 あいつらは俺を殺すために、俺の家族を利用するだろう。試せることは何でもやる。どんな手を使ってでも目的を達成しようとする。そういう奴らだ。

 ああやってみんなの前で強がってみたものの、家族は俺の弱点だ。

 自分の妻と娘の身に何かあって、何も感じない父親など、この世にいるものか。

 あの学校で洗脳教育されたことは確かだ。だが娘が生まれた瞬間に、全てが変わった。

 俺の落ち度は、学校の方針に反して家庭を持ったこと。更にその時に引退しなかったことだ。

 世界基準で学んだ俺は、日本の裏社会など安全だと甘くみていた。そして娘に莫大な資産を残したいと欲もかいてしまった。)


 檜はスマートフォンを取り出し三人にテキストメッセージを送信した。


【蝮の死骸を見付けた。

 俺は檜であり睡蓮では無い。 そして御岳山にて枯れてゆくだろう。

 ゆえに妻と娘には手出し不要。】


(これで睡蓮が俺の家族に危害を加えることは無くなった。意味の無い余計な殺しをするほど、睡蓮は愚か者でないだろう。そんなやつならもうとっくに消されているはずだ。)


 檜は弾倉に弾を込め、安全装置を外しスライド引いて装填した。

 銃口をこめかみに当てて、トリガーを引く前に娘の名前を呟いた。

「...楓。」


 その後、近くの木で休んでいたカラス達がパンッという破裂音に驚いて、飛び去っていった。



 檜のメッセージを鴉が受け取った一週間後に、今度は蜻蛉から連絡が届いた。

 また例のカフェで会合を開きたいとのことだった。

「蝮さんをリストラしたのが誰なのかは詮索しません。停戦協定を結びましょう。電話だと危険なので詳しいことは直接会って話したいです。」

 とのことだった。


 アメリカに逃亡する計画が無くなった鴉にとっても、ここで停戦協定を結べるのなら、それは好都合だと判断した。


 蜻蛉の連絡から更に三日後、前回の会合を行ったカフェに鴉、蜻蛉、椎名の三人が集まった。

 蜻蛉に関しては、相当警戒しているようで、珍しくサングラスをかけて現れた。


「すいませんね。後で詳しく話しますが、色々と動いていたので、面が割れている可能性があるんです。なのでサングラスはかけたままにしておきます。

 疑ってる訳じゃありませんが、念のため同じ飲み物を注文しましょう。来た飲み物は一列に並べてじゃんけんで勝った人から順にこちら側から取っていきます。」

 蜻蛉が説明した。

「確かにそれなら完全にランダムになるな。」

 鴉は納得した。

「飲み物も気楽に飲めないなんて、嫌になるねまったく。」

 椎名が呆れ気味に言った。

「まずはお二人共。今日は僕の希望した通りに来ていただいてありがとうございます。」

 蜻蛉は頭を下げた後に続けた。

「この一連の睡蓮騒動を招いた発端は僕です。なので責任を持って僕が終わらせるべきだと思いました。もちろん終わらせるというのは平和的にです。その誠意を理解してもらう為に...」

 蜻蛉は両腕をテーブルの前に出した。その両腕には腕時計などの装飾品は何も無かった。

 そのタイミングで注文したアイスコーヒーが三つ来たので蜻蛉は腕を引っ込めた。

 その後は蜻蛉の提案通りに飲み物がシャッフルされ、三人は飲み始めた。

「檜さんからのメッセージは、同じものが全員に送られてきたと思います。」

 蜻蛉は肘をテーブルの上に乗せて言った。腕時計を付けていないことを、もっとアピールしたい様子だった。

「意味は全員分かるよね。蝮がリストラされて、檜は家族を守る為に自主退社したと。」

 椎名が言った。

「あるいは、そう思わせたい檜の演出かも知れんな。自主退社したと俺たちに思われれば、警戒されずに動けるからな。」

 鴉が言った。

「はい。僕もそう思って独自に調べていました。結果として檜さんの自主退社は真実です。僕が実際に現場に行って調査をしてきました。」

「それで不特定多数の人達と接したからサングラスってわけか。」

 鴉が補足した。

「しかしそれを僕らがどう信じろと?根拠も何も無いじゃないか。」

 椎名が不満そうに言った。

「まあまあ、そんなのは蜻蛉が聞き込みに来たかどうかを麓の村人にでも聞けばいくらでも裏は取れるよ。ここにきてずさんな隠蔽はしないだろう。」

 停戦協定に賛同している鴉は、蜻蛉の側に付いているようだった。

「そうですね。そして檜さんの自主退社が確定した時点で、そのきっかけとなった蝮さんのリストラも確定とみて良いでしょう。」

「まあ話は分かった。ひとまず信じるとして、停戦協定は具体的にどう行うつもりなのかな?」

 椎名が聞いた。

「はい。それを話し合う為に、集まってもらいました。このまま僕一人が全てを決めるのはフェアじゃないですから。全員が納得した形で行いたいと思います。何か提案があれば仰って下さい。僕の意見としてはデッドマンスイッチを上手く使えないかなと考えています。」

「なるほど、それは使えそうだな!三人分用意できるのか?」

 鴉は乗り気だった。

「はい。単純に信号を受送信するだけの構造なら指輪サイズで用意できます。もちろん花火にはしませんよ。」

「それは当然だな。内側から毒針が出てくるのもごめんだぞ。」

 鴉は答えた。

「デッドマンスイッチでお互いの生存を監視し合うと?位置情報はどうする?」

 椎名は議論に参加するふりをして、コーヒーを飲みながら、さり気なく外を見た。


(もう間もなく、僕の撃った“弾”が飛んでくるはずだ...)

 椎名は視線をテーブルに戻した。



「カフェに僕を含めて三人の男が座ってる。僕もろともトラックで吹き飛ばすんだ。できるね?」

 この会合の三日前、椎名は一人の男にそう言った。

 蜻蛉から停戦協定の会合に誘われた時、椎名はこれが二人をまとめて始末する最後のチャンスだと判断した。

 早速、椎名は弾を探しに行った。

 知り合いの闇金業者の顧客名簿から家族持ちの人間をピックして、その人間が抱えている債務の倍額を闇金業者に払って、その人間を買う。

 その後、その人間をマインドコントロールする。

 椎名は複数の女性を抱く為に、多くの部屋を保有していた。その中の一つに男を招き入れた。

「本当は信頼できる人しか、家に入れたくないんだけど...」

 タワーマンションの一室で椎名はそう言った。

 そう言う椎名を見つめる男の顔も気まずそうだった。

 自分だけの力では絶対に立ち入ることができない空間にいる男は、逆に居心地が悪くなった。ましてや知り合って間もない男の暮らしている部屋だ。

 人間の脳は、このように逃げられない不快な状況に陥ると、その状況を正当化しようと無意識に都合の良い解釈をする。

 “この男の部屋にいる自分は、この男と親密な関係であり、自分も本来ならばこの空間に相応しい人間なのだ。”と。

 これを“認知的不協和の解消”と呼ぶ。

 椎名はこのような心理テクニックを多く駆使していた。しかし、椎名は心理学など一度も学んだことは無く、それはただ天性のものだった。

「君が借金をしたのは家族の為だということを、僕は理解しているよ。そして君の目を見た時にすぐに分かった。君は信頼できる人だと。そんな人を前にして、僕が大事なお願いをしない理由ってあるかな?」

 あくまで話の主導権を握っている。しかしそこに客観性を持たせることにより、なるべくしてこうなったという演出をする。

「君が僕の言う通りに動いてくれれば、君の借金は全て無くなる。それだけじゃないよ。君の家族にも多くのお金が入る。」

 借金がチャラになるどころか、家族に資産まで残せるのだから二つ返事で飛びつくのも当然だ。そこに椎名の魅力的な声が加わることによって、殺人まで犯す弾が出来上がる。

 一度撃った弾は使えない。椎名はこうやって何人もの人間を弾として、使い捨ててきた。

 実のところ、椎名が直接手を下したことは数える程しかない。

 この人心掌握術こそが椎名の武器だ。


 椎名の美しい見た目は椎名の母親、そしてこのカリスマ性は父親譲りだった。椎名の両親は高いレベルの交渉術を駆使してハワイで不動産業を営んでいた。

 米国では、一つの不動産をより高い不動産に買い替えた時に税法第1031条を利用すれば、もとの不動産を売却した時にかかる資本利得(キャピタルゲイン)税を先延ばしにすることができる。つまり、より高額な不動産の購入をしている限り、最後の不動産を売却して現金化するまで、1ドルたりとも税金を払わずに済むのだ。

 椎名の両親はこの法律を利用して、莫大な資産を築いていた。

 しかし、椎名に日本での教育を受けさせたかった椎名の両親は、家政婦付きの豪邸を日本に残した。


 椎名が自分の能力に気付いたのは小学三年生の時だった。

 担任の女性教師の自分に対する態度が、他のクラスメイトの子に対する態度と違うことに気付いた。

 他の子が怒られるようなことを、自分がやっていても何故か怒られない。

 椎名は試しに、先生の家に遊びに行きたいと伝えた。

 それから椎名は週に一回のペースで女性教師の家に招かれるようになった。

 家政婦は既に椎名の言いなりだったため、椎名が夜に外出しても何も言わずにいた。

 教師の家では特別なことは何もなく、ただ話をして晩御飯を食べるだけだった。

「食べたいもの、欲しいものがあったら何でも先生に言ってね。」

 独身で一人暮らしをしていた女性教師は椎名のことを自分の子供のように可愛がった。


 ある日、椎名はこの先生がどこまで自分の為に行動してくれるのか気になった。

「クラスのあやかちゃんが僕をいじめるんだ。」

 椎名は泣いて訴えた。椎名には泣きたい時に自分の意思で涙を流せる能力もあった。

 もちろん椎名はいじめられてなどいなかった。そのクラスメイトの名前も、一番初めに思い付いた子であり、深い意味は無かった。

 次の日、女性教師はその子を別室に呼び出した。その子は全治二週間の怪我を負い、女性教師は逮捕された。

 椎名が高校に上がった頃、その能力は高いレベルで昇華した。もちろん、学校は椎名の帝国となっていた。

 ある日、校門から出ると一人の女性が立っていた。

 年齢を重ねた上に少しやつれていたが、それが逮捕された女性教師だと椎名は気付いた。

 その時に従えていた男子生徒に追い払うように命じようとした時、元女性教師が話し始めた。

「やっと見付けた。立派に成長していて嬉しいわ。ご飯はしっかりと食べてる?困っていることはある?何でもするから、また私に言って。」

 予想外の発言に椎名は追い払うことやめた。椎名の魔術は、まだ解けていなかった。

 椎名は後日、元女性教師と二人きりで会い。抱き締めながらこう伝えた。

「今の担任の男性教師からひどい体罰を受けている。僕の両親は海外にいるから誰も頼れる人がいない。そこに付け込んだ男性教師は更にエスカレートして僕に性的な関係まで強要してくる。」

 元女性教師の胸は椎名の涙で濡れた。もちろん全くの嘘である。

 二日後、椎名の担任の男性教師は、背後から何者かに刃物で十ケ所以上刺され殺害された。元女性教師は、殺人の容疑で逮捕された。

 これが椎名が人生で初めて放った殺人の“弾”だ。

 その後、椎名はこの能力を最大限にマネタイズする方法を考えた。

 その結果、今の仕事に落ち着いたのである。

 不思議なことに逮捕された弾は誰一人として、椎名のことを口にしなかった。椎名にとって不利益になるようなことは誰も言わなかった。元女性教師も個人的な恨みで男性教師を刺したと主張し続けた。そのおかげで、椎名は今日に至っても、警察から一切マークされていない。

 そんな椎名にも同業者だけは弾にしないというルールがあった。

 人の命を奪うような仕事をしていても平常心を保っていられるような人間は、自分の手には負えない例外だという恐怖があった。

 殺しが普通になっている人間であるならば、その矛先がいつ自分に向いてもおかしくはない。実際に弾は社会的弱者で十分間に合っていた。


 カフェでは相変わらず熱い話し合いが行われていた。

「デッドマンスイッチはどうやって充電するんだ?そもそも外した時はどうなる?」

 鴉は言った。

「充電はワイヤレスで出来る様にします。そしたら脈拍を検知する時間を予め指定しておきましょうか。その時間以外は外していても大丈夫なようにできます!」


 今回の攻撃は椎名にとっても賭けだった。

 外を警戒し過ぎると、二人に何か感付かれてしまう。だからなるべくリラックスしている必要があった。

 突っ込んでくるトラックは、ギリギリまで二人に知られてはならない。椎名にとってのアドバンテージは、ただそれを”知っている”というだけだ。だが知っているだけでも、回避行動は二人よりもスムーズに行えるはずだと椎名は自分に言い聞かせた。


(この座り順なら、真ん中に座っている蜻蛉はもろに轢かれるだろう。問題は鴉だ。もちろん彼は頭の片隅では周りを警戒しているだろうし、仕事柄、普通の人間よりも反射神経は良いはずだ。)

 椎名はカフェの時計を見た。もう間もなくだ。椎名の心拍数が上がった。


「椎名さん、大丈夫ですか?なんだか具合が悪そうですけど。」

 蜻蛉の発言と同時に鴉もこちらを見た。

「あぁ、ちょっと最近の睡蓮騒動で精神的に参っちゃったみたいで、少し寝不足でね。ほら、ここにクマができちゃって...」

 椎名は二人の視線を更に自分に集中させた。そしてこの発言を言い終える辺りで視界の横に何か大きいものが入った。


(弾が来た!)


 パリィン!

 というガラスが割れる音の直後、蜻蛉の「うわ!」っという声が聞こえた。

 同時に椎名は踵で床を思い切り蹴り、床と水平方向に身を投げ出した。

 ドゴン!という鉄の塊とコンクリートがぶつかる音が響き渡った。10tトラックがカフェの壁に激突したのだ。

 周りでは一般客の悲鳴と叫び声が聞こえる。

 崩れたコンクリートが床に落ち砂埃が舞っている。トラックもシューという音を立てて白い煙を出していた。


 椎名はまず自分が生きていることを確認した。

(よし、ひとまず僕は無事だ。体も損傷していない。)

 椎名は今回の攻撃で自身も片足を失うくらいの覚悟はしていた。睡蓮を倒すには、それくらいの代償は必要だと思っていた。しかし、今自分の視界にあるのは、どこも損傷していない下半身だった。しばらくして左手首に痛みを感じた。椎名が自分の左手首を見ると、それは内出血を起こし紫色になっていた。

(手を変なふうに着いてしまったのかな、いずれにしてもこの程度で済んで良かった。許容範囲内だ。二人はどうなった!)


 椎名が辺りを見回すと、蜻蛉がほふく前進のように床に這いつくばりながら、こちらに向かってきているのが見えた。

 そして、その腹部からは大量に出血し、小腸の一部が出ていた。

(よし!あの怪我では蜻蛉はもう助からない!あとは鴉だ!彼はどうなった!?)

 椎名は目を凝らして周りを再度見渡したが、白い煙と埃で非常に視界が悪く、ほとんど見えなかった。

 周囲では、まだ人々が騒いでいる。ゲホゲホという咳き込む声や泣き声も混ざり始めた。


 トラックの運転席で、男が額から血を流して、ハンドルの上に頭を乗せて気を失っているのが見えた。

(弾は死んでいようが、ただ気を失っていようがどちらでもいい。それより鴉の姿が見えない。トラックの向こう側か?)

 そう考えている椎名の近くに蜻蛉が来た。

 ずっと這いつくばって進んでいたため、床に血の跡が出来ていた。

 体をまるで芋虫のようにもぞもぞしていた蜻蛉だが、目だけは椎名のことを恨めしそうに見つめていた。

(この死にぞこないめ。君はもう絶対に助からない。)

 その後、蜻蛉は遂に動かなくなった。しかし、目だけはしっかりと開いて、椎名を見続けていた。蜻蛉の大きな瞳は、まるで椎名を呪い殺すかのように見えた。

(蜻蛉は睡蓮ではなかった。ただのお人好しだったのか。)

 椎名がそう思った直後、蜻蛉の片目に異変を感じた。赤いランプが点滅している。


(...義眼?

 マズい!デッドマンスイッチか!)


「脅威は爆発そのものじゃない。その爆発エネルギーよって飛び散る金属の破片だ。」

 椎名の脳内で檜による手榴弾の説明が再生された。

 カチっというスイッチ音の直後、蜻蛉の頭部が破裂した。

 ほとんどの飛散物は、蜻蛉の頭蓋骨によって抑え込まれたが、何も障害が無い、蜻蛉の目線方向には、放射線状にカッターナイフの刃のようなものが飛んでいった。

 椎名は咄嗟にダンゴムシのように丸まり蜻蛉に背中を向けたが、少し遅かった。

 破片の一つが椎名の喉に突き刺さった。

 蜻蛉は最後の力を振り絞って、椎名の喉に狙いを定めていたのだ。

 椎名は口から血を吐き出した。

「ゴプッ!」

 血液は気道にまで入り込み、椎名は呼吸ができなくなった。

 無意識に首元を手で押さえたが、何も状況は変わらず、ただ椎名の手が真っ赤に染まるだけだった。

 椎名の美しく滑らかだったおでこに、醜く血管が浮き上がってきた。


(マズい!自分の血で溺死する!)

 新しい酸素が供給されていない椎名の脳だったが、冷静に機能していた。

 椎名は倒れたテーブルに向かって、四つん這いで進んでいった。そして、割れているグラスの傍にあったストローを喉の傷口に差し込んだ。ヒューという音が鳴った。

(よし。気道は確保した。出血量はそこまで多くは無い。後は何とか止血すれば助かる!)

 そう希望を持った椎名だったが、すぐに絶望のどん底へと落とされた。


 煙の中から、鴉が現れた。

 どうやら鴉も無傷ではないようで、片足を引きずり、右手で左肩を抑えていた。しかし命に別条は無さそうだった。


(失敗した。鴉に致命傷は与えられなかった。)

 椎名は鴉を説得しようとしたが、声が出なかったため、鴉を見つめることしか出来なかった。

(そうか。君が睡蓮だったんだね。だとしたら、話ができたとしても、無意味だろう。)

 椎名は諦めて仰向けに寝転がった。


「やってくれたなぁ、まったく!」

 鴉は、頭部の無くなった蜻蛉の体と、喉にストローを刺して仰向けに寝転がった椎名を交互に見た。

 状況整理ができていない表情をしたが、その足は、まだ生きている椎名に迷わず向かって来た。

「俺は本気で停戦するつもりだったんだぞ!」

 そう言いながら、鴉はガラスの破片を拾った。


 椎名が最後に思い浮かべたのは両親だった。

(父さん母さん、ごめんなさい。

 真っ当なビジネスでも、僕は成功できただろう。

 でもそれは、僕にとっては退屈だったようだ。仕方がなかったんだ。たった一度の人生だからね。)


 鴉は無言で椎名にとどめを刺した。


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