傲慢令嬢は、猫かぶりをやめてみた。お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの。
「ねえねえ、シスター。この教会に『ゴーマンレージョー』がいるって聞いたんだけど、知ってる?」
「カブトムシとか、クワガタムシの親戚かな?」
「ツチノコの友だちかも!」
海沿いの小さな教会でシスターをしているダイアナは、近所の子どもたちから唐突に質問をされて目を瞬かせた。
「『傲慢令嬢』だなんて、みなさん難しい言葉をよく知っていますね」
「町にやってきた変な兄ちゃんに聞かれた。わざわざ王都から探しにやってきたんだって!」
「荷物、少なかったね」
「カッコよかったけど、ちょっと臭かったね」
「あと偉そうだったよね」
よほど子どもたちには奇異に見えたらしい。旅人の情報が続々と集まっていくとともに、ダイアナの表情は徐々にくもっていく。
「まあ、そうなんですか。ちなみに『傲慢』というのは、どういう意味かわかりますか?」
「なんかすごくて、強そうなヤツってことでしょ!」
「筋肉むきむきってことでしょ!」
子どもたちは「自分たちの考える最強のゴーマンレージョーポーズ」を、ダイアナに披露する。途中からゴリラのようにドラミングを始める少年たちが大量発生したため、慌てて答え合わせに入ることにした。
「それはもう『傲慢令嬢』というか、『巨大魔獣』か何かの間違いじゃありませんか?」
「いけ、『ゴーマンレージョー』!」
「がおー!」
やはりわかっていないらしい。目を輝かせる子どもたちに困り顔をしつつ、ダイアナはそっと自分を指差す。
「たぶんですけれど、そのかたが捜している『傲慢令嬢』というのは私のことだと思いますよ」
「ええええええ。シスターって空を飛べるの?」
「飛べません」
「目からビームを出したりするの?」
「出しません」
「巨大化したり、炎を口から吹いたりは?」
「もちろんできません」
子どもたちがぶうぶうと不満を垂れ始める。
「じゃあ、シスターは何ができるの?」
「みなさんに読み書きと簡単な計算を教えて、一緒に遊びつつ、畑を耕すことくらいでしょうか」
「そんなの普通のシスターじゃん! 全然、『ゴーマンレージョー』じゃないよ」
「そうですかね? みなさんと全力でかけっこをして、海辺で真剣に貝殻を拾っている『傲慢令嬢』だっているかもしれないじゃないですか」
そう言いながら、ダイアナ自身も堪えきれずに笑いだしてしまった。それから改めて子どもたちに解説を始める。シスターたるもの、勉強に使える素材があれば何だっていかしてみせるものなのだ。それが例え自分自身の汚名であったとしても。
「『傲慢』というのは、他人を見下し、偉ぶることです。決して良い態度ではありませんから、振る舞いには気をつけましょうね」
「なあんだ。珍しい魔獣じゃないのか。それにシスターは全然偉そうにしたりしないし」
「あのひと、ホラ吹きだったんだね」
「信じて損しちゃった」
「そもそも知らないひとに子どもだけで近づくのはおすすめできません。見慣れないひとに話しかけられたら、まずは大人を呼んでください」
一気に興味を失くした子どもたちは、今度はいい感じの棒を手にとり、探検とやらに飛び出していく。
(今さら『傲慢令嬢』に何の用があるというのでしょう)
騒がしい声が耳に入ったのか、教会騎士が駆けつけてきた。
「ダイアナ殿、何かあっただろうか?」
「……サンディーさま。先ほど王都からこの町におみえになった方がいらっしゃるみたいなのですが、どうも訳ありのようで……」
夏の終わりにわざわざこんな田舎町に来るなんて、厄介事にしか思えない。教会騎士は眉を寄せる。
「わかった、町の自警団にも伝えておこう」
「お願いします」
ただ静かに、愛するひとのそばで暮らしていたい。それがダイアナのささやかな願い。けれど願いというものは、えてして叶えられないことばかりであるということもまた、彼女は身をもって理解していた。
***
かつてダイアナは、傲慢令嬢として有名だった。もちろんその名前は、彼女の本質を表したものではない。彼女が王女やら公爵令嬢であれば、その傲慢さは生来の気質によるものであり、自業自得だと考えるべきだったかもしれないが、ダイアナは即席の伯爵令嬢だった。
もともと正妻の子どもではなく、お手つきによって生まれたメイドの娘。ずっと田舎の祖父母とともに平民として暮らしていたところを、伯爵の都合で呼び戻された。金に困った伯爵が、政略結婚の駒にするためだ。「傲慢令嬢」という名前は、都合の悪いことを彼女になすりつけるためだけに用意された蔑称だった。
――伯爵家のご令嬢は苛烈を極めているらしい――
ダイアナが社交界にデビューしたときには、すでに黒い噂が駆け巡っていた。どれだけ言葉遣いは訓練できても、生粋の貴族令嬢でないダイアナには気の利いた会話は難しく、噂に拍車がかかる。あげ足を取られることを防ぐため、ダイアナは一切口を利かないように厳命された。
粗相をしたメイドは鞭打たれ、金遣いは荒く、伯爵家を食いつぶしていると囁かれる。使用人を虐げているのも、家を傾けるほどに金遣いが荒かったのも、実のところ父親のほうだったのだが。
その一方で男にだらしがなく、誰にでも身体を許すと評判だった。それを信じた男たちに、売女のような扱いを受けたことも一度や二度ではない。夫が別の女に手を出し子どもまで生ませていたということを許せなかった、継母の仕業であることは明白である。無理矢理身体を暴かれなかったことだけが救いだったが、そんなことはダイアナにとってなんの慰めにもならなかった。
さらには婚約者として紹介されたはずの貴族令息は、ダイアナではない可憐な少女に夢中だった。父親は政略結婚など貴族の間では普通だと考えていたようだが、婚約者は愛がないどころか、排除すべき障害としてダイアナに辛くあたる始末。
『本当に全部うまくいくかしら?』
『大丈夫だよ。君は可憐でとても優しい、素晴らしい女性だ。明日の誕生日パーティーで、僕たちの幸せを邪魔する彼女を糾弾し、ふたりで幸せな未来を掴もう』
『嬉しい!』
『すべての責任は彼女にある。婚約解消に伴う慰謝料だって払わずに済むだろうし、逆に搾り取ってやるつもりさ』
『まあ、いけないひとね』
ろくに会話もなく、手紙を交わすこともないまま、ダイアナは婚約者の恋人を虐めた犯人として、貴族令息の誕生日パーティーにて婚約破棄されることになっていたのである。
ところがその計画は、ダイアナがパーティーの直前に不慮の事故で階段から落下したことにより、ご破算となってしまった。命に別状は無かったが、記憶を失い、手足に麻痺が残るだろうと顔馴染みの教会の司祭に診断された彼女は、年若い娘という最大の価値も失ったと思われ、元いた海辺の町へと送られることになる。療養といえば聞こえはいいが、ようは厄介払いされたのだ。
王都に行っている間に祖父母は他界。夏の終わりの海辺であてどもなくさまよっていた彼女の身元引受人になったのが、教会騎士でもあるサンディーだった。
***
教会近くの浜辺は、ダイアナにとって大切な場所だ。夏の終わりに、サンディーに出会った場所もここなら、ダイアナが自分の未来のために心を決めた場所もまたここだった。だから彼女は、悩みごとがあるときには浜辺を散歩することにしている。
余所者が入り込めば、船や馬車を降りた瞬間からあっという間に話が広がっていく小さな海辺の町。波乱万丈なダイアナの人生を知らないのは、まだ幼い子どもたちくらいなものだ。
変な詮索をされることなく静かに暮らすことができたのは、サンディーのお陰である。彼はダイアナのために心を砕き、町の預かりとなっていた祖父母の財産までダイアナが受け取れるようにしてくれた。だから、ダイアナはシスターとして教会に留まる必要はなかったのだ。実際、サンディーにも似たようなことをやんわりと言われたことがある。
それでも彼女は教会に留まり続けた。それこそが彼女の唯一の望みだったから。
(これ以上大それたことなんて望まない。ただそばにいたいだけなのに)
ダイアナが足元の白い貝殻を拾い上げようとしゃがみこむと、後ろから声をかけられた。
「やっと見つけた!」
振り返れば、少しやつれた、けれど貴族らしい端正な顔立ちの男がひとり。それはダイアナのかつての婚約者だった。彼女が柔らかく微笑みかけると、男が息を呑む。
「旅のお方、どうかなさいましたか。もしかして、道に迷われたのでしょうか?」
「久しぶりだね!」
「……申し訳ありません。事故のせいで、記憶があいまいで。どちらさまだったでしょうか」
「ああ、そういえば記憶喪失だとか言っていたな。手足の麻痺は治ったようだし、問題ないか。早速だが、僕と結婚してほしい」
男の言葉にダイアナは目を丸くした。男がダイアナに手を伸ばすが、彼女は一歩後ろに下がる。
「どういうつもりだ。なぜ僕を避ける」
「奥さまがいらっしゃるというのに、どうして求婚まがいのことをおっしゃるのでしょう?」
「僕を知らない君が、僕が既婚者であることをなぜ知っている? 記憶喪失というのは嘘だったのか? まあいい。あの時のことは水に流そうじゃないか」
ダイアナの気持ちには興味がないらしい。自分勝手な言い分を並べ立てる男を前にため息をつく。肩をすくめながら、男の左手を指差した。
「あなたの左手の薬指には、細い白い線が残っておりますから、結婚指輪をはめていたのだろうと思っただけです。一度結婚すれば、死別以外の離婚は許されていません。あなたの年齢で奥さまと死別というのは珍しいですし。訳ありの男性に口説かれても、警戒するのが普通ではありませんか」
「ああ、そんなことを気にしていたのか。指輪なら、先ほど陰気な教会騎士に投げつけてやったよ。僕が君を探していると言ったら、変に詮索してきたからね。彼は君のことを自分の女とでも思っているのかな。そんな不道徳な輩は、窃盗の罪で警らに突き出してやろう」
貴族相手への窃盗は重罪だ。ぴくりとダイアナの肩が震えた。
「まったく。かつては、『傲慢令嬢』と呼ばれた君が、こんな田舎町の寂れた教会でシスターなんかをやっているとはね」
「はあ」
「僕が迎えに来たからにはもう大丈夫さ。こんな場所で腐る必要はないんだ。一緒に華やかな王都に帰ろうじゃないか」
いきなりダイアナを抱き寄せると、無理矢理口づけを迫ってくる。深窓の令嬢であれば、悲鳴さえあげられずに失神してしまうだろう。だが、ダイアナは深窓の令嬢でもなければ、生粋の令嬢でもなかった。
「何勝手なことしようとしてんのよ、このすっとこどっこい。一昨日来やがれ!」
静かな浜辺に乾いた音が響き渡る。彼女の罵声に呼応するかのようにウミネコがみゃあみゃあとふたりをはやしたてた。
***
「いきなり酷いじゃないか!」
「それはこっちの台詞よ。あんたなんかに、サンディーさまの何がわかるっていうのよ」
頬を真っ赤に腫れさせた男の前で、ダイアナが青筋を立てている。鬼気迫る表情に男の肩がはねた。
「ダ、ダイアナ?」
「馴れ馴れしく呼ばないでちょうだい。サンディーさまですら、ダイアナ殿なのに」
「どうしたんだ。あの頃の君は、控えめで物静かなご令嬢だったじゃないか。どうして急に、そんな乱暴な物言いや振る舞いをするんだ」
「だって、これが本来の私なんだもの」
「なんだと?」
「王都にいたときは猫を被って静かにしていたから、気弱な田舎者に見えたんでしょ。好き勝手に言いたいことを言ってくれたじゃない。でもまあお陰で、あんたとの婚約も解消できたし、ラッキーだったわ」
「つまり、君は全然僕のことなんて好きじゃなかったと?」
信じられないと言わんばかりに、震える声で男は尋ねる。そんな彼に向かって、ダイアナは鼻を鳴らした。
「当たり前でしょ」
「じゃあ、どうして王都では不遇な状態を受け入れていたんだ。僕のそばにいたかったからじゃないのか」
「ああ、やだやだ。これだからナルシストみたいな顔だけ男は嫌なのよ。私の好きなひとは、教会騎士のサンディーさまなの。あのたくましい腕に抱き上げられてみたいわ。誰があんたみたいなもやしっ子を好きになるもんですか」
ポーズを決めたサンディーを脳裏に思い浮かべ、ダイアナはうっとりと頬を染める。この辺りの浜辺は、教会騎士や町の警らなどの訓練所でもある。汗を流す男たちを熱っぽく見つめる女性陣も多いのだ。ダイアナもまたそんな恋する乙女のひとりであった。
「もやし?」
「サンディーさまは、もともとこの辺り一帯を治める領主さまのご子息なの。だから、平民……しかも片親の私なんかじゃ到底手が届かない。礼拝の時に偶然を装って話しかけるので精一杯。もっと堂々とお近づきになるための身分が欲しかったから、王都に行ったのよ。あんたがいなくても私は全然困らないの」
「馬鹿な、婚約を破棄されたら女としての価値はなくなるんだぞ」
「教会騎士さまの隣に立てるのは、妻である女性か、修道女だけ。けれど、修道院に入れるのは貴族か、裕福な女に限られる。利用価値のなくなった私なら、貴族という肩書きと手切れ金として渡される金子とともに駆け込むことができるわ」
にやりとダイアナが口角を上げた。
「君は僕を利用したのか!」
「それはお互いさまでしょう」
「この傲慢令嬢め!」
「『傲慢令嬢』であることを否定したことが、一度だってあったかしら? 好きなひとの近くにいるために、利己的な振る舞いをしたこと、私は十分に理解しているわ。それに、悪名は無名に勝ると言うでしょう?」
彼女の言葉を聞いて、男はしくしくと浜辺で泣き出した。
***
「君に見捨てられたら、僕は本当に行くあてがないんだ。妻のもとからだって、啖呵を切って逃げ出してきたのに。どうかお願いだ、考え直してくれ」
「ちょっと、やめてくれない? あんたの鼻水が服につくじゃない。汚いわね」
なりふり構わない男がダイアナの脚にすがりつこうとしたその時、男の身体が華麗に宙を舞った。
「ダイアナ殿、大丈夫か」
ダイアナは脱ぎ捨てていた猫を拾い上げ、慌てて被る。出来上がるのは、よそ行きモードのシスターダイアナだ。
「サンディーさま。まあ、いつの間にこの浜辺に?」
「……最初からだ」
「え?」
「朝からダイアナ殿に変な男の話を聞いていただろう。彼が来たときに気になって、後をつけたんだ。突然指輪を投げつけられたから、難癖をつけられる前に返したかったというのもあるが……」
「それでは、もしかして事情は全部把握されましたか?」
「……ああ。立ち聞きは申し訳ないとは思ったんだが」
その途端ぽろぽろとダイアナの目から涙がこぼれた。
「す、すまない。もっと早く仲裁に入るべきだった。怖い思いをさせてしまって……」
「うえーん、バレちゃった。サンディーさまにバレちゃったよお」
再び被った猫を投げ捨て泣き始めた。ダイアナをどう慰めるべきか、サンディーが右往左往する。
「急にどうしたんだ?」
「記憶喪失な薄幸のシスターとして、頑張ってきたのに。こいつが来たから全部知られちゃうかもしれないとは思っていたけれど、立ち去るなら綺麗な姿だけをずっと覚えておいてもらいたかった! よりにもよって、こんな形で全部知られちゃうなんて。うわーん、もうおしまいよ」
しゃくりあげるダイアナの頭を、サンディーがそっと撫でた。
「君のことを嫌いになるわけがない。だって俺は君の近くにいるために教会騎士になったんだから」
「サンディーさま、どういうことですか?」
「君を見つけたのは、俺のほうが先だったってこと。この声に聞き覚えは?」
少しかすれた弱々しい声に、ダイアナは目を見開いた。それは王都で孤立していたダイアナの話し相手をしてくれていた、教会の老司教と同じ声だ。
「教会騎士は司教の資格を持っていて、王都への出入りも自由だ。変装をしていても、任務の一環だろうと見逃されることが多い。俺はそれを利用して君のそばにいた」
「ではあのとき、記憶喪失と手足の麻痺が残るという診断をしてくださったのは、私が故郷で滞りなく修道院に入るために協力してくださったのですか?」
「前日に、大怪我をするかもしれないから、運び込まれたら絶対に対応してくれと頼み込まれていたからね。何かあってはいけないとパーティーに潜り込んでいたが、階段から勢いよく飛び降りる君を見たときには心臓が止まるかと思ったよ」
「私、昔から運動神経だけは良かったので。受け身を取る自信はあったんですよ。時々自宅で練習もしていたし」
「まさか、君の体に出来ていた痣は練習の賜物だったのか!」
階段を転げ落ちる練習は、たびたび使用人によって目撃、吹聴されたあげく、父親によるダイアナへの虐待疑惑として周囲にじわじわと染み込んでいったのだが、そんなことなど露知らぬダイアナは、縮こまるばかり。
真っ赤になってうつむくダイアナを子どもたちが冷やかし始める。男を探しに飛び出した教会騎士を、総出で追いかけてきたらしい。
「ねえ、シスター。そもそも、最初から猫なんて被れてなかったと思うよ」
「サンディーさまがいないとき、鬼ババみたいに俺たちのこと怒ってることあるもん」
「窓の外で、サンディーさまが苦笑してたよ」
「え、そうなの?」
「無意識とかヤバいじゃん」
「は、恥ずかしい」
両手で顔を隠すダイアナとそんな彼女を慰めるサンディー。ようやっとくっついたふたりの姿を満足げに見ている子どもたちは、近くから聞こえるうめき声に気がついた。
「腕が、腕が動かない」
ラブストーリーに気をとられていたせいで、誰にもかえりみられていなかった男がひとり。おかしな方向に腕を曲げたまま、真っ青な顔でびいびいと騒ぎ立てていた。わらわらと子どもたちが集まっていく。
「あ、『ゴーマンレージョー』を探していた兄ちゃんじゃん」
「ねえねえ、『ゴーマンレージョー』を見つけてどうするつもりだったの?」
「『ゴーマンレージョー』に負けたの? 喧嘩に負けていちいち泣くとか、子どもじゃないんだから」
「なあ、泣くなよ。最近見つけたぴかぴかの蝉の抜け殻、お前にやるから」
「そんなものを近づけるな」
男は飛び退き、その衝撃で足をくじいたのかさらにべそをかく。
「そうだよ。そんな物もらっても喜ぶヤツなんていないよ。とっておきの、蛇の抜け殻やるからさ」
「ひいっ」
「あ、兄ちゃん。今、波打ち際をうろうろしない方がいいと思う。夏の終わりの浜辺には、ヤバいくらげが」
「ぎゃあああああああ」
「あ、遅かった」
「大丈夫だよ、ちゃんと治療すれば死なないから」
「治療しないと死ぬのか!」
「運が悪ければ?」
「頼む、助けてくれえ。傲慢……いや、ダイアナ……嬢」
「お好きなように呼んでくださいませ。愛しいひとが私のことをわかってくださるなら、それで十分ですもの」
とびきりの笑顔で、ダイアナがウインクをする。涙と鼻水で綺麗な顔面をぐしゃぐしゃにしてのたうち回る元婚約者は、サンディーによって教会に連れて行かれ、なんとか一命を取り留めることになったのだった。
***
元婚約者は、海の男たちに揉まれながら今日もしっかりしごかれている。情けないへっぴり腰姿は相変わらずだが、ここしばらくの間にこんがり焼けていて、都落ちした冴えない男から、漁師見習いには十分ランクアップしたようだ。涙目になりながら魚のさばき方を習っている様子は、はたから見ていて結構面白い。
その後海辺の町に彼を追いかけてきた奥方も、世話焼きな女性たちに根性を叩き直されているらしい。とはいえ、他人を蹴落とすくらいガッツと根性のある彼女はなんだかんだでこの町に馴染んできているようだ。かかあ天下になる日もそう遠くはなさそうである。
心優しくて働き者な教会騎士と喜怒哀楽のはっきりとした少しばかり口の悪いシスターは、海辺の町きってのおしどり夫婦として有名になり、町の小さな教会で結婚の誓いを行えば夫婦円満になると評判になったと言われている。
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