騒動終えて
翌日、騒ぎが落ち着き、父母や関係者に連絡をした瑠華は、自室でトランクに荷物を詰めていた。使用人たちは彼を止めようとしたが、彼の意志は変わらなかった。帰還者となった以上、マレンシャの家の者に迷惑を掛けるわけにもいかない。それが、彼の答えだった。
「ローレンス。私は北へ行きます。岸壁の港町の北部へ。これが、どういう意味か分かりますね?」
それを聞いたローレンスの瞳は、わずかに左右に揺れた。
「分かります。分かりますけど、そこまでなさらなくても、いいですよ。ええ、いいに決まってます」
岸壁の港町の北には、時代の濁流に呑まれ、打ち捨てられた者たちの集う都がある。人呼んで、棄民城。そこへ赴くことは追放に等しく、二度と岸壁の港町へ帰らないことを意味していた。瑠華は、身寄りのない一人の人間となるのだ。
瑠華は、ファニングの名を唸りながら退場させられたミスカを思い出して、リメイラの時と変わらない口調で告げる。
「あの調子だと、アルクラデ家は私に報復を仕掛けようとするでしょう。帰還者となった以上、私は私のことを、私のみでする必要があります」
トランクを閉め、瑠華はシンプルな運動用の服の襟を正した。そして、護身用にと与えられたナイフを腰のホルダーに下げ、あの次期当主殿のように後ろで髪を束ねた。いっそ切ってしまえば良かったのかもしれない。けれど、瑠華はできるだけ、リメイラの姿を残したいと思っていた。瑠華の答えは、もう一つあった。
「棄民城には、失われた昔の魔法や道具もあると聞きます。そこで、私はもう一度、リメイラに戻る術を探そうと思うのです」
帰還者として目を覚ましてしまった瑠華は、いなくなることを選ぼうとしていた。この身体はリメイラ・マレンシャのものであり、阿良川瑠華のものではない。現に、自然に話そうとしても彼女の口調はそのままであったし、瑠華は自分が目を覚ましたことが正しいかどうか分からなかった。だから、不慮の出来事から起こった歪みを正し、できるだけ誠実に対応したいと思ったのだ。それが、リメイラや、彼女を愛したものたちに対する誠意だと感じていた。
「リメイラ様。いえ、ルカ様。その。あのですね」
黙って聞いていたローレンスが、指と指を合わせて、あいまいに口を開く。彼自身もどう言っていいか分からない様子だった。らしくないと、瑠華は笑った。
「あなた、本当は狂ってなんていないでしょう。私が帰還者となっても、私の記憶が失われたわけではありませんよ。あなたと初めて出会った時のことを、思い返しもしたのです」
瑠華はトランクに荷物を詰める時、リメイラとして育った幾多もの思い出を思い返していた。その中で、鮮烈に光っていたのは、このアンドロイドが来た時の記憶なのだ。
――初めまして、リメイラ様。今日から貴女様にお仕えする、Mid_Bird-002"Lawrence"と申します。捨てられた身ではありますが、どうぞ、貴女様が一人で立ち上がれるその日まで、お側に置いてください。
あの時、ローレンスはちゃんと挨拶をしてくれたのだ。頭を下げ、礼儀正しく。無駄なことひとつ言わず。それを改めて想い、瑠華は初めて思い当たったのだ。ひょっとして、彼は狂ってなどいないのではないか。ただ、人を遠ざけるために、わざとそうしているのではないか。彼らの長兄であるプロトタイプがそうして、人間から心を閉ざしたように。それでいて、自分をずっと守ろうとしてくれていたのではないか。
Mid_Bird型たちは人間に近すぎるから、自分を主張する時、人間そっくりであることを否定するしかないのかもしれないと。そんなこと、賢いリメイラなら、とっくに気付いていたんじゃないか、と。
(人間によく似ているからって、機械や壊れたふりをしなきゃいけないなんてしんどいはずなんだ。きっと、他に方法がある。彼らがもっとやりやすい『生き方』が。それも、探したい)
だから、瑠華はローレンスに手を差し出した。そこに女性と男性型だとか、人間と機械だとか、そういうしがらみはなかった。ただただ、長らく同じ時を重ねてきた、友情に似た温かい気持ちがあるだけだ。
「あなたにとっても、私にとっても良い選択をせねばなりません。壊れず、私を手伝いなさい。ローレンス。私はあなただけを連れてゆきます」
報いたい。瑠華は、彼にそう願った。
「いやあ。あは。難しいな。はは……困りましたね。困ったな」
ローレンスは、しばらく紫の瞳をくるくるとさせて、手を出したり引っ込めたりした。だが、最後に一息つく仕草をすると、至って自然に、リメイラの細い手を取ったのだ。
「この喋り方は、処世術のようなものなのです。これなしで生活しようとすると、私は辛くなってしまいますから、そのままでいいですか?」
「もちろん。でも、大切な時は、ちゃんと話してくださいな。今までと、同じように」
「ルカ様も、ルカ様の喋り方が楽になったら、そうしてくださいね。いいですね?」
お互いにお互いを許して、かくして一人と一体は人知れず旅立つ。復讐の刃を家から退けるために。また、一人の令嬢の輪郭を取り戻し、一体の苦しみを拭うために。あるいは、名家の名を捨てて、ただ一つの存在として在るために。その頭上には旅立ち日和の青空が広がっていて、瑠華は空を見ればどこへだって歩いてゆけるような気がした。
それは奇しくも、ロステル・ファニングが失踪という形で旅立つ、数日前の出来事であったという。
こちらは、地底と星様に依頼されて製作した「ディスワールドでの異世界転生もの」の短編作になります。