後編
それからまた、何十日か経過した。
この日、ミリアンはエイダに頼まれて買い出しに向かっていた。
思っていたよりも客が多く、食材を買い足す必要があったのだ。
「ええと、次は……」
リストを見ながら買い物をしていくと、ふいに背後から声をかけられた。
「ミリアン?」
聞き覚えのある声だと思い、とっさに振り返る。
するとそこには、若い女性を連れたオードの姿があった。
まさかこんなところで会うなんて思わなかった。
しかも彼が連れていた女性は、あの商会の事務員ではないようだ。
ミリアンはとっさに視線を逸らし、聞こえなかったことにして立ち去ろうとした。
「待てよ、ミリアンだろう?」
それなのに彼は女性をその場に残して追いすがってきた。
仕方なく、溜息をついて振り返る。
「仕事中なの。ごめんなさい」
「待てよ。仕事ってどこだ? 前の食堂も辞めていたし」
オードの連れていた若い女性が、不機嫌そうにこちらを睨んでいる。
声を掛けたのはオードで、彼女を待たせているのもオードだ。文句を言うならそちらにしてほしい。
「もうオードには関係ないでしょう? 本当に急いでいるの。だからもう行くわ」
「関係あるだろう? 俺達は幼馴染なんだから」
そう言ってさらに引き留め、今のミリアンの状況を聞き出そうとする。
もちろん、答えるつもりなどない。
あまりにもしつこいオードに嫌気がさして、彼の背後を指した。
「ほら、彼女が待っているわよ」
「あっ……」
そこでようやくオードも、連れの女性の不機嫌な様子に気が付いたようだ。
「ごめん、待たせて。昔からの幼馴染に偶然会ったものだから、なつかしくて」
もう何年も会っていないような口ぶりだが、ほんの少し前まで九年間、同棲していた元恋人だ。それを告げたらどうなるかと少し考えたが、面倒なことになりそうなのでやめておく。
「ふーん。オードと同い年なの? もっと年上に見えるわね」
彼女はそう言って、くすくすと笑う。
嫌味だというのはわかっている。
けん制の意味も込められているのだろう。
それでも年下の若い女性に笑われるのは、あまり良い気分ではない。
「そうか? まあ、カルラに比べたら、誰だって」
もちろんオードは彼女を制するどころか、一緒になって笑っている。
彼がそういう人間だということは、もう十分にわかっている。
だからもう関わりたくない。
「それじゃあ、私はここで。彼女と結婚するのかしら? お幸せにね」
若くてもしっかりとした女性はいくらでもいる。
しかし彼が選ぶのは、ことごとくこんな女性だ。そんなオードが、ミリアンと結婚したいと思わなかったのも無理はない。
そう納得してしまうくらいだ。
「ええ、彼と結婚するの。幼馴染なら、ぜひ式には参列してね」
勝ち誇った声にどう答えたらいいか悩んでいると、背後から名前を呼ぶ声がした。
「ミリアン?」
振り返ると、私服姿のマークフェルが立っていた。
彼は今日、休みではなかったはずだが、どうしたのだろう。
「マークさん?」
思わずそう呼びかけると、彼はいつもとはまったく違う、甘い顔で微笑んだ。
「あまり遅いから、迎えにきたよ」
「え?」
困惑するミリアンの手から、彼は荷物を受け取る。
「さあ、帰ろうか」
優しく微笑むマークウェルの視線は、背後のオードと連れの女性に向けられていた。
きっと彼はミリアンが困っているのを見かけて、手助けをしてくれたのだ。
「そうね。じゃあ、オード。彼女とお幸せに」
そう言って、呆然としている二人を残し、さっさとその場から立ち去った。
「……すみません、わざわざ声を掛けていただいて」
二人が見えなくなった頃に、ミリアンはそう言って頭を下げた。
「いや、俺の方こそ、突然話しかけてすまなかった。何だか揉めているような雰囲気だったから、近付いてみたら君の姿が見えたから」
今日は仕事の日だったが、同僚の騎士に休みを変わってほしいと請われて、それを承諾したらしい。急に決まった休みだったからすることもなく、エリダの宿屋を手伝おうとして、店に向かっていたようだ。
「あなたの、幼馴染?」
「……恋人でした。新しい彼女ができたらしく、私とは結婚しないと言ってきて」
あの会話を聞いていたのなら、だいたい察しているだろう。
そう思ったので、正直に事情を話した。
「王都に来てから九年も付き合っていたのに。でも、今日の彼女はそのときの女性ではなかったので、もともとそういう人だったのかもしれません」
もしあのままオードと結婚していたら、ずっと女性関係で悩ませられていたかもしれない。
「そう思うと、別れて正解でした」
こうしてひさしぶりに彼と会ってみても、未練はなかった。むしろ面倒だと思ったくらいだ。
もう過去は振り返らずに、前を向いて歩いている。
それがはっきりとわかった。
「本当に、大丈夫ですか?」
だからそんな彼の気遣いにも、笑顔で答えることができた。
「ええ。もういいの。だって私は、今の方が幸せだもの」
笑顔でそう告げる。
ミリアンが心から思っていることが伝わったのか、マークフェルもようやく表情を綻ばせた。
「そうですか。余計なことをしてしまって、すみませんでした」
「いいえ、むしろ助かりました。どうやって逃げようか、そればかり考えていたので」
どうしてオードがあんなにも食い下がったのか、理解できない。
彼女と結婚すると言っていたから、ただそれを自慢したかっただけなのか。
(私と別れても自分は幸せだと、見せつけたかったのかしら。そこまで残念な人だったとは思いたくないけど……)
どちらにしろ、もう会うことはない。
そう思っていたのに、それから五日後。
どうやって調べたのか、ミリアン宛に二人の結婚式の招待状が届いた。
宛名の字から察するに、送ってきたのはオードの相手の女性だろう。
たしか、オードにカルラと呼ばれていた。
「どうしてわざわざ……」
あのとき、オードが自分を待たせてまでミリアンに話しかけたのが、気に入らなかったのかもしれない。
それともミリアンが元恋人であることを知って、嫌がらせをしてきたのか。
どちらにしても面倒だし、もう関わりたくはない。
煌びやかな装飾を施された招待状を手に、大きく溜息をついていた。
「あら、結婚式の招待状かい?」
それを見たエリダがにこやかに声をかけた。
「もし休みが欲しかったら、遠慮なく言ってちょうだい」
「いえ、違うんです。これは……」
エリダには事情をすべて話していたから、前の恋人のオードと町で出会ったこと。女性を連れていて、彼女と結婚すると言っていたこと。そして、その女性から招待状が送られてきたらしいことを、説明した。
「そうだったの。それは大変だったね。嫌な思いをしなかったかい?」
事情を知っているだけに、そう気遣ってくれた。
「大丈夫です。ちょうどマークさんが通りかかって、助けてくれました」
彼が声をかけてくれて、そのおかげでうまく逃げることができたと話す。
「本当に助かりました。理由はわからないけど、何だかしつこくて。でも、何も話さなかったのに、どうしてわかったのかしら……」
あのとき、オードには働いている場所も住んでいるところも教えていない。
それなのに、届いた招待状。
わずかな情報だけでミリアンの居場所を探し当てた女性の執念に、恐ろしいものを感じる。
「ああ、そうだ。マークを連れていけばいいよ」
憂鬱な気分になったミリアンに、エリダは明るい声でとんでもないことを告げる。
「え? マークさんを、ですか?」
「そうだよ。ミリアンにも新しい恋人がいるってわかれば、向こうもこれ以上絡んでこないだろう。うん、それがいいよ」
なぜかエリダは上機嫌で、どんどん話を進めてしまう。
「そんなこと、できませんよ。マークさんはお忙しいですし……」
王城を守護する騎士に偽装の恋人になってほしいなんて、言えるはずがない。
「どうせ休みの日は鍛錬しかしていないんだから、平気だよ。あの子もたまには、そういう場に出た方がいいからね」
そう言って、さっさと段取りを決めてしまった。
いつにない強引さだが、彼女には恩がある。さらに、オードと婚約者ともう二度と関わらないためには、その提案が一番だとわかっていた。
こうしていつのまにか、マークフェルと一緒にオードの結婚式に参列することに決まっていた。
(どうしてこんなことになったのかしら?)
懇意にしている服屋の店員に、結婚式に参列するための服を選んでもらった。セミロングにしている髪も綺麗にセットしてもらったが、崩れないように維持するのがとにかく大変だった。
「うん、綺麗よ。見る目のないあの男が、逃がした魚は大きかったと知って歯噛みする様子が見えるようだわ」
服と髪を整えてくれた彼女が、そう言って笑顔を浮かべる。
「ありがとう。でも、本当にわざわざ結婚式に行く必要なんてあったのかしら?」
正直に言えば、祝福する気持ちなんてまったくない。
しかも結婚式となれば、オードの両親も参列するだろう。こうなってしまった以上、顔を合わせるのも気まずい。
少し前に、自分の両親には手紙を出して、オードと別れたことを報告していた。さすがに驚いていたようだが、王都に出てきてから九年も経過しているのに結婚の話が出ないことから、何となくうまくいっていないのではないかと察していたようだ。こちらのことは気にしなくていいから、自分の思うようにしなさい。母親は手紙にそう書いてくれていた。
だがオードの両親が経営している宿屋と共営する話がなくなり、結局食堂は閉めることにしたようだ。
それを聞いたミリアンは自分のせいだと落ち込んだが、もともと母親のほうは共営の話に乗り気ではなかったらしい。
そういえば母は、オードの母とあまり仲が良くなかった。だから、これでよかったのだと言ってくれた。
「もちろん、行く必要があるわ。マークフェルさんを連れていけば、もうあなたに手出しはしないと思うわよ」
ああいう男は、結婚したらますます遊ぶだろうと彼女は苦い顔をする。
そして、別れた女性はずっと自分を想っているはずだと思い込んでいる。
「だから、今のうちにしっかりと牽制しておくことが大切よ」
「もちろん大切だと思うけど、マークさんに悪くて」
「そんなことはないですよ」
ふと声がして振り返ると、騎士服を身にまとったマークフェルの姿があった。彼にとっての正装は、この騎士服である。
当然だが、式場ではかなり目立つだろう。
「むしろあなたの恋人を演じられるなんて、光栄です」
そんなことを言われて、思わず頬が紅潮してしまう。
「からかわないでください。マークさんには、何のメリットもない話なのに」
「ありますよ。あなたと一緒に出掛けられますから」
「……っ」
そんなセリフをさらりと言ったマークウェルに、何も言えなくなって視線を逸らす。
彼は、休日にも鍛錬をしているような真面目な騎士ではなかったのか。
「軽薄な言葉ですね。オードみたいだわ」
反射的にそう言ってしまい、すぐに後悔した。
彼がひとりきりになってしまった祖母を支え、忙しい任務の合間を縫って、頻繁に宿屋に顔を出していることを知っている。
マークウェルは、オードのような不誠実な人ではないのに。
「……ごめんなさい」
素直に謝罪する。
「予想外のことばかりで、少し余裕がないみたい」
「俺も同じです。祖母から、責任重大だと脅かされてしまって」
そう言って彼は、穏やかに笑った。
(よかった。いつものマークさんだわ)
ミリアンを守るようにと散々言われて、彼も緊張していたようだ。
「すみません、私のせいで。一緒に行ってくれるだけでいいので、よろしくお願いします」
「はい」
マークウェルは頷き、ミリアンに向かって手を差し出す。
「そろそろ行きましょうか」
「……ええ」
ここまで来たら、逃げるわけにはいかない。ミリアンはおとなしく彼の手を取った。
「いってらっしゃい。頑張ってね」
支度をしてくれた店員の声援を受けて、結婚式の会場に向かった。
最近は結婚式を教会で挙げるよりも、町の大きな広場を貸し切って行われることが多い。今日のオード達の結婚式もそうらしい。
まだ王都に来たばかりの頃は、自分もここで結婚式を挙げてみたいと憧れて、何度も見に来ていた場所だ。
まさか恋人だったオードの結婚式で訪れることになろうとは、あのときは想像もしていなかった。
入口から覗いてみると、会場にはすでに、新婦の友人らしき若い女性が何人か集まっていた。皆、華やかに着飾っている。
(あの中に入っていくのはちょっと……)
少し苦手だと思っていると、マークウェルが手を差し出してくれた。
「行きましょう」
「……そうね」
ここに、いつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。
覚悟を決めて会場に入っていくと、彼女達の視線がいっせいにこちらに向けられた。臆しそうになったミリアンの背に、マークウェルがそっと手を添える。
「大丈夫。俺がついているから」
その言葉と温もりに励まされて、まっすぐに歩いていく。周囲が騒めいているのは騎士服を着たマークウェルのせいだと思うが、それにしては注目されすぎているような気がした。
「あなたが綺麗だからですよ」
耳元で囁かれた声に、ミリアンは眉を顰める。
「またそんなことを言って……」
「本当ですよ。町で元恋人が声をかけてきたのも、久しぶりに会ったあなたがあまりにも綺麗になっていたからです。周囲の反応を、声を、よく聞いてみてください」
「そんなはずは……」
反論しながらも、彼の言葉通りに周囲を見渡してみる。
すると女性達の囁き声が聞こえてきた。
「あれがカルラの夫になる人の、元恋人?」
「綺麗なひとよね。しかも騎士を連れているわ」
「カルラは前の恋人が未練がましくて困るって言ってたけど……」
「嘘よね。どう考えても、あの騎士の方が素敵だし」
綺麗という言葉がどうしても信じられなくて、自分の頬に手を当てる。
毎日仕事と家事に追われ、やせ細っていた頬は、今ではふっくらとしていて、手触りもまったく違う。
エリダの宿屋に勤めるようになってから、きちんと食事をするようになったからかもしれない。長くてパサついていた髪も、今では艶やかになっている。
ふと顔を上げると、驚いた顔のオードと、悔しそうにこちらを見つめている花嫁の姿が見えた。
「ほら、俺の言った通りだ」
そう言ってくれたマークフェルに、ミリアンはとびっきりの笑顔を向ける。
「いつのまにか、世界が変わってしまったみたい」
もう過去を振り返ることは、二度とないだろう。
昔から、働くのはそれほど苦ではなかった。
朝早く起きて食事の支度をするのも、家族のために家事をするのも嫌いではない。
心がこちらに向いていないとわかっているのに、その人のために家事をしなければならないのが苦痛だったのかもしれない。
オードに捨てられたと思っていた。
でもミリアンの心にも、もう愛は存在していなかったのだろう。
今の夫と出会い、子どもにも恵まれた。家業もあるし、毎日とても忙しくて、息をつく暇もないくらいだ。もしかしたらあのときよりも忙しいかもしれない。
それなのに、つらいと思ったことが一度もなかった。
楽しくて、幸せで、あっという間に時間は過ぎ去っていく。
今のミリアンは大家族で、家業とは別の場所で夫が建ててくれた家で暮らしている。
夫のマークフェルは王城に勤める騎士で、忙しいながらも休日は家業を手伝ってくれたり、子ども達の面倒を見てくれたりする。
夫の祖母のエリダは、もともと家業である宿屋を経営していたが、今は引退して、子ども達の面倒を見てくれていた。
代わりにミリアンと宿屋を仕切っているのは、田舎の家を引き払って王都に移り住んだミリアンの両親だ。
食堂を営んでいた両親の手料理は、この辺りでも評判になっていた。
両親を呼んだらいいと言ってくれたのは、宿屋の女主人だった夫の祖母だ。
もちろん夫も賛成してくれた。
あの頃の夢とは形が変わってしまったが、両親と宿屋ができることはミリアンにとっても嬉しかった。
そして、子どもがふたり。息子は五歳。娘はまだ二歳になったばかりだ。
息子はいずれ父のように騎士になりたいと言っているが、娘は宿屋に遊びに行くのが大好きなので、将来はこの宿屋を継いでくれるかもしれない。
今朝も早くから子ども達の世話をして、夫を仕事に送り出してから宿屋に向かう。
するとここに泊まって仕事をしている両親から、オードが離婚して、田舎の町に帰ったことを聞かされた。
「……そうだったの」
あの結婚式から一度も彼に会うことはなかったが、そのときの彼女とは一年も経たずに離婚してしまい、別の女性と結婚していたはずだ。
どうしてオードはあんなふうになってしまったのだろう。
自分のせいかもしれないと悩んだ時期もあったが、マークフェルが繰り返し、ミリアンは悪くないと言ってくれたから、もう考えないようにしている。
今は彼が幸せであるように、祈るだけだ。
新しい客が入ってきて、ミリアンは笑顔で振り向いた。
「こんにちは。宿泊ですか? それともお食事ですか?」
旅をしているらしい壮年の夫婦は、宿泊を希望してくれた。改装したばかりの真新しい部屋に二人を案内する。
戻ってくると今度は、食事を希望する近所の夫婦が来てくれて、食堂の方に案内する。
厨房では、父と母が忙しく働いていた。
忙しいけれど充実した幸せな日々は、これからもずっと続いていくのだろう。




