前編
ミリアンとオードは九年前、二人で田舎の町から王都に移り住んだ。
その当時は、ふたりとも十八歳だった。
彼とは幼馴染で、小さい頃から一緒に育った間柄だ。
互いの両親も町の人たちも、ミリアンとオード自身も、将来は結婚するだろうと思っていた。
ミリアンの両親は食堂。オードの両親は小さな宿屋を営んでおり、将来は互いの稼業を組み合わせて、食堂のある少し大きめな宿屋を作ろうと、話し合いをしていたようだ。
だが、ふたりが十八歳になった年のこと。
農作物が不作になって町が貧しくなり、食堂も宿屋もほとんど客がいなくなってしまった。
このままでは、生活することができないと、互いの両親はそれぞれの店を閉め、山の仕事や畑の手伝いなどをして、暮らさなければならなくなってしまった。
ミリアンとオードは、ふたりでどうするか話し合った。
ここでの仕事も限界がある。ならば、新しい宿屋を建設する資金を貯めるためにも、ふたりで王都に行き、仕事を探したほうがよいのではないか。
そう決めて、互いの両親にも報告した。
オードの両親は、それがいいとすぐに賛同してくれたが、さすがにミリアンの両親は、年頃の娘を王都にやるのが心配だったようだ。
だがオードが一緒だから大丈夫だと、ミリアンは両親を説得した。いずれいずれオードとは結婚することになるのだから、宿屋の資金も一緒に貯めたいと思っていた。
ここでの生活が苦しいのは事実だったから、最後にミリアンの両親も許可してくれて、二人は最低限の荷物だけを持って、王都に旅立った。
そして徒歩や辻馬車を使って何とか王都に到着すると、すぐに仕事を探した。
ミリアンは食堂の給仕を。オードは商会の雑用係の仕事を見つけ、翌日からすぐに働きだした。
ふたりで借りた家は老朽化でかなり痛んでいて、隙間風もひどかった。それでもふたりで一生懸命に働けば、もっと良い家に住める。資金も貯めることができると、希望を持っていた。
それから、もう九年になる。
ミリアンが王都に来たときからずっと勤めている食堂は忙しく、昼が過ぎても客が途切れない。
そのため、仕事が終わると疲れ切ってぐったりとしてしまう。
それでも家に戻れば夕食の支度をしなくてはならないから、買い物をしてから帰らなくてはならない。
ミリアンは少しでも安い品を求めて歩き回り、日が暮れる頃にようやく五年前に借りた家に戻ってきた。
「ただいま」
そう言ってみたものの、家の中には誰もいない。
狭い部屋にはほとんど家具がなく、オードの服が散乱していた。
「もう、ちゃんと片付けてって、いつも言っているのに」
溜息をつきながら、散らばっている服をまとめる。
「……今日も帰っていないようね」
仕事はオードの方が早く終わるのだが、この家に越してきてから、彼が先に帰ってきたことは一度もなかった。
(昔は、夕食の支度をして待っていてくれたのにな)
思わずそんなことを考えて溜息が出たのは、今日はいつもよりもさらに忙しかったからだ。
明日は王都で王女殿下の誕生祭があり、町は多くの人で賑わっていた。
店も繁盛して、ミリアンは朝から休憩もすることができずに働きづめだった。
しかも店長の男性は、新しく入った若い給仕に甘く、残業はすべてベテランのミリアンに回された。残業代をきっちりと払えば、いくらでも働くことを、店長はもう知っているのだ。
衣服を着替え、長い髪をひとつに纏めて食堂の椅子に座る。
ぎしりと耳障りな音を立てた古い木造の椅子は、この家の前住人の置き土産だ。
疲れ果てていたミリアンは、すぐに夕食の支度をする気になれなくて、そのまま目を閉じる。
(あれからもう、九年かぁ……)
王都に出てきたときは、せいぜい五年くらいのつもりだった。
二人で一生懸命働けば、それくらいである程度の資金を貯めることができると思っていた。
でも王都は田舎の町とはくらべものにならないくらい物価が高く、賃金はたちまち家賃や生活費で消えていく。
小さな食堂の給仕では、いくら長年勤めていても、賃金はほとんど変わらない。
五年前にこの家に越してきたのも、以前住んでいた廃屋のような家が、強風や大雨で崩壊してしまったからだ。
そのとき、ミリアンはもう田舎に帰ろうと言ったが、オードはそれを承知しなかった。
絶対に宿屋を建てられるだけの金を貯めて帰ると言ったのだから、目的を達成できずに帰ったら、町中の笑いものになる。そう言って、ミリアンの申し出を強固に拒んだのだ。
仕方なく、一番家賃の安い場所で家を借り、そのまま二人は王都での生活を続けていた。
それが、もう今年で九年目。
十八歳だったミリアンは、来月には二十七歳になる。
互いにそんな年齢だから、近所の人達も職場の人達も、ミリアンとオードを夫婦だと思っているようだ。
でも、結婚するのは故郷に新しい宿屋を建ててからだとこだわるオードのせいで、二人はまだ婚約者のまま。
王都では十代のうちに結婚する者が多いようで、ミリアンも実は未婚であるとは、今更言えない状況である。
何度か、ミリアンのほうから結婚を切り出してみたこともある。
それなのにまだ余裕がないとか、田舎の両親が不在なのに結婚することはできないとか言われ、そのうちミリアンもそのことに触れなくなっていた。
オードが不機嫌になるだけで何の進展もないし、今の状態も結婚しているようなものだ。
それでも年齢を重なるにつれ、少しずつ焦燥が募っていく。
今夜あたり、もう一度切り出してみようか。
そんなことを思いながらようやく立ち上がり、夕食の支度を開始する。
特売の野菜を小さく切り刻み、簡単なスープを作る。今朝焼いたパンをオーブンで軽く温め、あとは干し魚を焼いて完成だ。
ちょうど魚が焼きあがる頃に、オードが帰ってきた。
彼も、九年前からずっと同じ商会で働いている。
最初は雑用係だったのが、長年真面目に勤めたのが評価されて、今では帳簿を手伝うこともあるらしい。
そのうち帳簿をすべて任されることになる。そうなったら、賃金も倍以上になる。
それが最近の彼の口癖だった。
本当にそうなればいいとミリアンも思っている。
だが商会の帳簿係はかなり重要な役職で、そう簡単に任せてもらえるとは思えない。
本音を言えば、賃金は今のままでもいいから、もう少し家事を手伝ってほしかった。
「おかえり。夕食できているよ」
声をかけると、いつ新調したのか、真新しいコートを脱いだオードは、食卓を見てつまらなさそうに呟く。
「また野菜スープと魚か」
「今月の賃金をもらう前だから、しょうがないじゃない」
最初こそ二人で節約をして、貯金を頑張っていた。
でも最近のオードは仕事の付き合いがあるからとか、商会に勤めているのにみすぼらしい恰好はできないと言って、めったに貯金しなくなっていた。
たしかにそれも一理あると思うが、このままではますます結婚から遠くなってしまう。
「ああ、そうだ。今月の家賃なんだけど、オードの番よね?」
言いたいことはたくさんあったが、まず夕食を終えてからだと、ふたりで向かい合わせに座って、食事を開始する。
それでもこれだけは言わなくてはと、ミリアンはそう切り出した。
この家の家賃は二人で交互に払うことにしていた。先月はミリアンが支払ったのだから、今月はオードの番である。
「管理人さんが、明日の夕方に取りに来ると言っていたわ」
そう告げると、オードは視線を彷徨わせた。
「今月は、少し出費があって。悪いけど払っておいてくれ」
「え?」
ミリアンは驚いて声を上げる。
「私だってそんなに余裕はないわ。来月のために貯金しているくらいだもの」
来月の自分の支払い分に向けて、少しずつ貯めている途中だ。
「だったら来月は俺が払うよ。それでいいだろう?」
オードは不機嫌そうに言ったが、今月払わないのなら、来月払うのは当然のことだ。壁に掛けてあるコートを見ながら、思わず言ってしまった。
「もう。こんなことを続けていたら、いつまでも私達は結婚できないわ」
冗談めいた口調で言うつもりが、つい本気に聞こえるような声になってしまっていた。
こんなことを言えば、きっとまたオードの機嫌が悪くなる。
今の状態で結婚してもうまくいくはずがない。無謀だと、否定的なことばかり口にするだろう。
言い争いになってしまうのはわかっている。それが面倒で、ミリアンは笑みを浮かべた。
「まぁ、もう結婚しているようなものだから、そんなに焦る必要はないわね」
「そのことなんだけど」
食事の手を止めたオードが、真面目な口調でそう言った。
いつにない真剣な表情に、ミリアンも思わず緊張してしまう。
もしかして、日頃言葉にしないだけで、彼もちゃんと二人の将来のことを考えてくれていたのだろうか。
結婚しよう。
そう言われるのを、つい期待してしまった。
長かった同棲生活も、ようやくきちんとしたゴールを迎えることができる。
そう信じていたのに。
「俺たちの将来のこと、考え直さないか?」
「……え?」
オードが言ったのは、想像とは正反対の、残酷な言葉だった。
「か、考え直すって、どういうこと?」
あまりのことに、それを理解することができずに、ただ彼の言葉を繰り返す。
ショックを受けたミリアンとは真逆に、オードはすっきりとしたような顔をして、すでに食事を再開していた。
「そのままの意味だよ。たしかに今までは親の言う通りに王都まで来て働いて、そのままミリアンと結婚すると思っていた。でも、もう俺たちも立派な大人なんだ。親の言いなりに結婚する必要なんて、まったくないだろう?」
「親の言いなりって……」
王都に行くと決めたのも、将来を誓い合ったのも、二人で決めたこと。
それなのに、いつのまにかオードの中では、互いの親が望んでそうしたことになっている。
「ミリアンだって、俺との結婚は望んでいないだろう? それとも、結婚したかった?」
九年という歳月は、ミリアンにとってあまりにも重すぎた。
まだ王都に来て二、三年の間だったら、気持ちを入れ替えてやり直すこともできただろう。
でも、もう九年も一緒に暮らしていて、近所の人達にも職場でも既婚者だと思われている。
今更、実は結婚していなかったなんて。
九年も同棲していた幼馴染に捨てられたなんて、言えるはずがない。
それでも、薄ら笑いを浮かべてそう言ったオードに縋るほど、ミリアンも落ちてはいなかった。
「そうね」
震える手を押さえつけて、何とか笑みを作る。
「よく考えてみれば、互いに別の道を進むのも、良いかもしれないわね」
ミリアンの答えは、オードにとっても望むものだったはずだ。
それなのになぜか、彼は不機嫌そうに視線を逸らす。
自分は簡単に切り捨てたのに、ミリアンがそれをあっさりと承諾したことが気に入らなかったのかもしれない。
(勝手なことを……)
泣いて縋って欲しかったのか。
あなたしかいないと、そう言って欲しかったのか。
そう思うと、悲哀に満ちていたミリアンの心も冷めていく。
昔はオードも優しかった。
あれは、前に住んでいた家でのこと。
慣れない職場で失敗し、ひどく叱られて帰ってきたミリアンを、涙が止まるまで根気強く慰めてくれた。
古くて隙間風がひどくて、今にも崩れ落ちそうな家だったが、今となっては二人で寄り添って暮らしていた、あの頃が懐かしい。
今の家に移ってから、オードの帰りが遅くなった。
家事を手伝ってくれることがなくなった。
ミリアンの仕事が休みの日に、わざわざ用事を入れて外出するようになった。
少し考えてみれば、ミリアンとの生活を大切にしていないことくらい、すぐにわかることだ。
(それに、変わったのは私も同じかもしれない)
オードの機嫌が悪くなるのが面倒で、話し合いを避けていた。
昔なら、オードのために家事をするのが楽しかったのに、それが苦痛になってきた。
もちろん先にオードが態度を悪化させ、ミリアンに対して理不尽に怒ったり、愚痴を言うことが多くなったという原因がある。
そこを乗り越えてまで、オードとの関係を改善させようという気持ちが、ミリアンにもなくなっていた。
(九年という年月は、長すぎたかもしれない)
家族ではなく、ただの恋人として過ごした日々。
王都に移り住んですぐに結婚してしまえば、今頃は子供も生まれ、生活が苦しいなりにも、幸せに暮らしていた可能性もある。
もう取り戻せない時間を思うと、胸が苦しい。
でも今からオードとの関係を修復して、ここからまた一緒に歩もうとは、思えなかった。
この年で、王都でひとりになってしまう恐怖。
誰も頼る人のいない、心細さ。
これからの未来への不安。
それらすべてを押し込めて、ミリアンはオードに向き直った。
絶対に、彼にだけは弱みを見せたくない。
「それで、これからどうするの?」
「どうって?」
苛立ちを隠そうともしないオードに、ミリアンは言い放つ。
「もう恋人じゃないんだから、一緒に暮らす意味もないじゃない。この家はどっちが住む? 私が出ていくなら、家賃はもう払わないわ。あと、共同で貯めていた資金。それも、どうするか決めないと」
結婚しないと決めた以上、もうオードとは赤の他人だ。一緒に暮らすことはできない。
ミリアンはそう思っていたが、彼の考えは違うようだ。
「別にこのままでいいだろう」
不思議そうに、こんなことを言う。
「幼馴染であることには変わらない。兄妹みたいなものなんだから」
今までの生活は変えずに、ただの幼馴染に戻ろう。オードはそう言いたいようだ。
「そんなこと、できるはずがないじゃない」
すぐにそれを否定する。
いくら幼い頃からよく知っているとはいえ、実の兄妹ではない。恋人でもなくなった今、もう一緒にいることはできない。
それなのにオードは、薄ら笑いを浮かべながらこんなことを言い放った。
「何を言っている。若い娘でもないんだから。今さらひとりで暮らす方が、世間体が悪いだろう?」
ミリアンが口を閉ざしたのは、いつものように彼の機嫌が悪くなるのが嫌だったからではない。
これ以上彼と話しても無駄だと、はっきりとわかった。
彼との対話を諦めたからだ。
オードはそれでミリアンが納得したと思ったのか。
いつものようにオードは食事を終えると、後片付けをすることもなく自分の部屋に戻っていった。
ミリアンはすぐに立ち上がる気になれずに、そのまま食堂の椅子に座っていた。
(本当に私は、九年間も何をやっていたのかしら……)
オードだって昔は優しかった。
それが急に変わったとは思えない。
仕事に追われ、忙しいだけの日々。
毎日を過ごすのに精一杯で、周囲に気を配るだけの余裕を持つことができなかった。
その結果が、これなのか。
自分にも悪いところがあったと思う。
それでも、九年間一緒に暮らしていた人を、若い娘でもないんだからと嘲笑ったオードと暮らすのは、もう無理だ。
彼が出ていかないのであれば、自分が出ていくしかない。
今まで抱いていたはずの彼に対する愛は、綺麗になくなっていた。
この愛も、いつのまにかなくなっていて、それに気が付いていなかっただけかもしれない。
(ああ、これから忙しくなりそうね)
今の仕事では既婚者だと思われているから、新しい職場も探さなくてはならない。これを機会に、新しい子ばかり優遇する店主と決別するのも悪くはない。
(すぐには無理ね。職場と、住む所を探さないと)
それに、生活するにも物が必要となる。
この家に置いてあるものはすべて二人の共同の財産だが、この家を思い出すものを、傍に置いておきたくない。
少し時間は掛かるかもしれないが、必ずこの家を出ていこう。
ミリアンはそう決意して、ようやく立ち上がる。
明日も朝から晩まで仕事だ。さっさと後片付けをして、早く休まなくてはならない。
翌朝。
まだ眠っているオードを放っておいて、ミリアンは仕事に向かった。
職場では相変わらず、店主が新しい子ばかり贔屓して、ミリアンに雑用を言いつける。
最初は戸惑っていたその子も、今ではミリアンに平気で仕事を振ってくるようになった。
よくこんなところで九年も仕事をしていたものだと、我ながら呆れてしまう。
(早く新しい職場を探して、辞めてしまおう)
そう思いながら、手際よく仕事をこなしていく。
安い値段と立地で、食堂はそれなりに繁盛していた。
ミリアンが辞めたらきっと店主も新人も困るだろうが、そこまで気にする必要はないだろう。
原因を作ったのは自分達だ。
いつもは店が終わったあとも残業をしていくのだが、今日は少し早めに切り上げ、町に出た。
まだ早い時間のため、町は人で溢れていた。
その光景を眺めながら、ミリアンは思う。
王都には、こんなに多くの人がいて、仕事もたくさんある。
いつまでもオードや、今の職場にしがみつく必要はない。
「うん、がんばろう」
思わず声に出してそう言う。
今までの九年間を取り戻すくらい、自由に生きて、好きなことをしよう。
そう思うと、不安だった未来さえ楽しみになっていく。
食堂とはまったく違う仕事をしてみるのもいいかもしれない。
こんな年で、とオードは馬鹿にしたが、人生はまだこれからの方が長いのだ。
結婚だけが人生ではないし、オードだけが男でもない。
清々しい気持ちになって町を歩いていたミリアンだったが、ふと見覚えのある後ろ姿を見かけて、思わず足を止める。
(もしかしてあれって……)
見覚えのあるコートを着た男性が、ひとりの女性と腕を組んで、嬉しそうに歩いている。
そっと物陰に隠れて様子を伺うと、間違いなくオードだった。
(ああ、そういうことだったのね)
彼らの声がここまで聞こえてきた。
「ねえ、オード」
甘えたような、若い女性の声。
「キャサリン、どうした?」
「いつになったらあの人と別れてくれるの? もう半年になるのよ?」
半年。
もうそんなに前から、彼女と付き合っていたのかと唖然とした。
「俺だって、すぐにでも別れてキャサリンと暮らしたいよ。でも、ミリアンが嫌がっていてね。俺と結婚するつもりのようだ」
「ええ、信じられない。愛されていないのに縋るなんて、惨めね。年増女は後がないから、必死なのかしら」
そう言って笑う彼女はたしか、オードが勤めている商会の事務員だ。
オードがよくキャサリンという名前を口にしていたことを、ミリアンは覚えていた。
(そうだったのね。半年前から、オードは……)
それにしても、同棲を解消するのを嫌がったのはオードの方だ。それをミリアンのせいにしている姿に、怒るよりも呆れてしまう。
(いいわ。そんなに出て行ってほしいのなら、すぐにそうしてあげるから)
そのまま家に戻り、簡単に荷物をまとめる。
田舎から王都に出てきたときだって、住むところもなかったし、仕事もなかった。それでも何とかなったのだから、きっと大丈夫。
この家を出ていこう。
そして、ひとりで新しく人生をやり直そう。
ミリアンが出ていけば、オードはきっとあのキャサリンという女性と結婚するだろう。
ここで一緒に住むかもしれない。
そのときに、文句を言われたくないと思い、自分の部屋とキッチン。そしてリビングを綺麗に片付ける。
「……これって」
そのとき、リビングで見覚えのないブレスレットを見つけた。
淡いピンク色の可愛らしいデザインのものは、どう考えても自分のものではない。
オードはすでに、彼女を家に連れ込んでいたのか。
ここまで最低な男だと、未練を残すこともない。かえってよかったのかもしれない。
ミリアンはブレスレットをテーブルの中央に置くと、掃除を終え、自分の部屋に戻って最後の確認をする。
「うん、これでいいわね。あとは、共同の貯金を半分にして……」
さすがにこれは、オードのいないところではやりにくい。
このまま顔を見ずに出ていくつもりだったが、最後に別れを告げて出ていくのも、区切りとしてはいいかもしれない。
そう思ったときに、ちょうど彼が戻ってきた。
「あら、今日は早いのね」
声を掛けると、オードは驚いたようだ。
「ミリアンこそ、今日は早いな。夕飯は?」
その言葉に、思わず笑いがこみ上げる。
自分は可愛い女の子とデートをしておいて、家事だけミリアンに要求する。
恋人ではなくなったのに同棲を解消したがらなかったのは、ミリアンのことを、家事をしてくれる家政婦だとしか思っていないから。
それがはっきりとわかった。
「今までの貯蓄を半分に分けようと思って待っていたのよ。こういうことは、きちんとしないと」
「何を言っている。それは昨日、今までのままでいいと話し合ったはずだろう」
途端に不機嫌になるオードに、ミリアンは笑顔を向けた。
「こういうことは、きちんとしておかないと。キャサリンさんだって、嫌がると思うわよ?」
「なっ……」
オードは見事なほど狼狽えた。
キャサリンはただの仕事仲間だと必死に言い訳をしたかと思えば、そんな勘違いをするなんて、キャサリンに申し訳ないと思わないのかと逆に怒り出す。
ミリアンは、そんなオードの姿を静かに見つめていた。
「今日、見たのよ」
「な、何を……」
「あなたが、キャサリンさんと寄り添って歩いていたところを。早く一緒に暮らしたいって彼女が言っていたのに、私のせいでできないって言っていたわよね。だから、出て行ってあげようと思って」
「違う! あれは彼女が勝手にそう思っていただけで、俺にそんなつもりは!」
オードは激しく首を振りながら、叫ぶように言った。
キャサリンとは、ただ遊んでいただけだというのか。そうだとしたら、その方が最低だ。
「オードがどんなつもりだったとしても、もう私には関係ないわ」
たくさんの女性と遊びたければ、そうすればいい。
オードと自分の関係はもう、ただ同じ町の出身だということだけ。
落ちていたブレスレットを、彼に指し示す。
「これ、多分彼女のでしょう? 返してあげてね」
それを見た途端、オードの顔がより白くなる。
「あ、あいつ。こんなものを置いておいたのか。違う、誤解なんだ。ただ相談があると言うから。誰にも聞かれたくないというから、ここに連れてきただけで……」
もしそれが本当なら、それが彼女の作戦だったのかもしれない。見た目の可憐さとは違い、かなりしたたかな女性だ。
でも、部屋に連れ込んだのが誤解だったとしても、一度途切れてしまった気持ちは、もう二度と元には戻らない。
もうオードとの関係は過去のこと。
今のミリアンは、未来しか見ていなかった。
「とにかく、私は出ていくわ。これが、共同貯金の半額よ」
家に送金するなり、ここの家賃に当てるなり、彼の好きに使えばいい。
「待ってくれ、ミリアン。もう一度話し合おう」
ミリアンが本気だとわかったのか、オードは必死にミリアンを引き留めようとしていた。その真意がわからずに、首を傾げる。
「私と結婚しないと言ったのは、あなたよ」
「……それは、考え直そうと言っただけで、しないとは……」
口ごもる彼の姿に、気持ちがますます冷めていく。
たとえオードと結婚したとしても、きっと優しいのは最初だけだ。
そのうち彼は他の女性と遊び歩くようになり、自分は仕事と家事に追われながら、ただオードの帰りを待つ日々になる。
そうなってしまうという、確信があった。
今までのミリアンなら、それにも黙って耐えていたのだろうか。
「私にも、自分の人生があるの。それをあなたのために消費するつもりはない。さようなら、オード。今までありがとう」
そう言うと、呆然としている彼を置いて、さっさと部屋を出ていく。
まだ宿屋は空いているだろうか。
荷物を抱え、ミリアンは町を歩く。
夜の町がこんなに賑やかだったなんて、知らなかった。
宿に泊まるなんて、初めて王都に来た日以来で、少しわくわくしている。
よさそうな宿を見つけて、思い切って飛び込んだ。
「すみません。部屋は空いていますか?」
受付には優しそうな老婦人がいて、にこりと笑って頷いてくれた。
「ええ、もちろん。ひとりかい?」
「はい」
「明日の朝食はどうする?」
「お願いできますか?」
屋台に行って食べるのも楽しそうだが、ひさしぶりのひとりの朝だ。ゆっくりと過ごしたいと思い、そう答えた。
「これが部屋の鍵よ。二階の、一番奥になるわ」
「はい、ありがとうございます」
荷物を持って二階に上がり、部屋の扉を開けた。
こじんまりとしているが、綺麗に整えられた部屋。
寝台の上に荷物を置き、窓から外を眺めてみる。
宿屋のすぐ前には、大通りがあって、そこにはたくさんの人がいた。
人の流れは夜更けになっても途切れず、ミリアンは飽きることなく、ずっとそれを眺めていた。
こんなふうに、何もしないでぼうっと過ごすことなんて、今まで一度もなかったかもしれない。
九年間ずっと一緒にいたオードとあんなことになってしまって、これからひとりでどうやって生きていくのかと、不安に思った。でも、人生を見つめ直す良い機会だったのかもしれない。
(私の人生は、私のものだもの。自分でちゃんと決めて、生きていけばそれでいいよね)
清々しい気持ちになって、空を見上げる。
田舎と違ってあまり星は見えないが、夜の明かりに照らされた王都の夜景は、とても綺麗だった。
「うん、今日はもう寝てしまおう。明日のことは、明日考えよう」
でも夜景があまりにも綺麗で、少しだけ寂しくなってきた。
ミリアンは綺麗に整えられた寝台に潜り込むと、ゆっくりと目を閉じる。
(あの職場も、仕事が見つかったらすぐに辞めよう。そして、新しい生活を始めよう)
そのまま意識は途切れて、ミリアンは夢も見ずに、ぐっすりと眠っていた。