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物語Ⅹ

                  【明日もし、晴れたなら】




東京都の23区から外れた郊外に成る駅前。 外装がレンガの様な模様をした雑居ビルの6階にて、内から窓を開ける男が居た。


短くも長くも無い髪を、軽く左右に分けて上げてある。 白いYシャツに、青いサスペンダーをし、黒のスラックスを穿いたその男性は、40歳にまで届かない30代後半と云う風貌。 目は細いのだが、開き方に柔らか味が覗え。 パッと見て落ち着きの有る温和そうな人物だと思える。


(今日のお客さんは、予約だけだと坂上君と・・)


今日に面会する人物の名前を思い浮かべる彼の名は、山田直勝。 テレビで謳う程に宣伝はしないが、それと云う人には知れた事業家だ。 カウンセラーとしての心理学を大学で学び、事業と半々の活動で予約制のセラピーを営んでいる。


「あ、山田センセー。 おはよう御座います」


プリーツスクリーンを上げて朝陽を部屋に入れる山田の背後に、若々しい女性の声がする。


「ん。 佐瀬クン、今日の予約は二人だったかな?」


看護士の佐瀬真純が、一足遅れてやって来たのだ。


「いえ、もう御一人。 中学生の息子さんを看て欲しいという石田さまからも」


「あ・・、そうか。 うんうん、解った」


清潔感溢れる白い壁紙が真新しい部屋に、太陽の光が差し込んだ。 この8畳の部屋と、隣のガラス戸の向こうが山田の構える心理ケアの事務所である。


山田が主に行うカウンセリングの対象は、自閉症や欝を患った方で、中には対人的なコミュニケーションが成り立たない者や、言う処のアスペルガー症候群と云う病名に属す方に為る。 山田の活動は、彼らが社会復帰を果たす所まで関わっている。 今までに社会復帰を為した人は、ざっと数えて100人以上である。 今も、数年来の付き合いで通ってくる知的障害を持たれた方も居るのは、山田じゃないとダメだと言う家族からの意思が在るからだ。


山田がこれまでに看て来た人の数は、カウンセラーを本業として遣っている人からするなら、随分と少ない方かも知れない。 しかしながら、彼の行うカウンセリングや治療は、あまり高い評価は得られないだろう。 何故なら、彼の治療には、明確な科学的現象としての心理学やカウンセリングとは、少しかけ離れた部分が有るからだ。 彼の治療や問題解決法を論理的にする為に、実証と云う裏づけを行うなら。 其処には、重大な非科学が存在してしまう。


彼に相談をして、欝や自閉症などから改善した者は口を揃えて言う。


“山田先生は、私達の心の声が聴こえるんです”


と。


精神的に重度の欝から立ち直った青年などは、丸で言葉巧みに自分を信じ込ませる自称占い師にでも引っ掛かった様なぐらいに素直で、不思議な形容を混ぜて改善までの道のりを語る。


だが、山田が何か新興宗教に傾倒しているとか、怪しげなカルト的教えにのめり込んでいると言う訳でも無い。 カウンセリングの際に、御香などの物を使う訳でも無く。 また、改善したからと法外な治療費を請求する事も無い。


山田は、不思議なほどに落ち着いた人物であり。 彼を訪ねて来たクライアントに対し、対等かつ穏やかな対応をする。 面と向かい、一方的に話を聞く訳でもなく。 何時も席は斜めにした並行の仲間が語り合う様な、丸でディスカッションでも行う様な形で行われる。 その様子は、マジックミラーとして内から見えぬ外側から、誰でも見れる。 相談者の両親だったり、施設の職員だったり。


ただ、一つだけ目を惹く部分が有るとするなら、それは山田が相談者と必ず手を重ねる事だ。 “W”の形に繋がった一人掛けのソファーで、唯一密接しているのが手摺。 山田は、この手摺で相談者と手を重ね。 そして、相談と共に心の内の声を聞くのだ。


そして今日もまた・・、彼に胸の内を吐露すべく人が来た・・。



                       一



白く明るい部屋の中で、二人の人物がソファーに座っている。 一人は、山田。 もう一人は、少年である。 二人は席に腰を下ろしながら、片手を手摺の先で握る様にしていた。


「こんにちわ、孝平君。 私は、カウンセラーの山田と言います」


山田が穏やかに挨拶をすると、眼鏡をした痩せ過ぎの13歳の少年も。


「・・い・いい石田、こうへい・・です」


「有難う」


「・・」


「いや、君が名乗ってくれたからだよ」


「えっ?」


少年は、少し伸びた前髪の間から覗える目を見開いて驚いた。


しかし、山田は。


「いやいや、驚かなくていいよ。 君が私の“有難う”に、“どうしてお礼を言うのかな”って思ったから、説明したんだ」


「あ・・」


そのまま、石田少年は俯いた。


受付と事務所が一緒になっている隣の部屋では、可視化されたドアの向こうから母親が心配そうに見ている。 中々色合いの良いダークベージュのブランドスーツの上下を着こなした母親で、39歳と云う年齢がウソに思える様な若々しさが有る。


さて。 部屋の中では、数分に渡って黙ったままの二人が居た。 だが、徐むろに山田が・・。


「なるほど・・。 でも、孝平君。 言いたい事が在るなら、前を向いて言った方がいいよ」


と、言い出すではないか。


「えっ?」


また、何事かと山田に顔を上げた石田少年であったが。


「君は、小学校の高学年の頃に虐めを受けたんだね? 新しくクラス替えが行われて、いじめっ子達が誰を対象にするかって言う投票を勝手にしていた。 その中で、今まで虐められていた子達が君に投票し、君が虐められる事に成った。 更には、その事実を知った担任の先生は、たった2年ぐらいの辛抱だから我慢しろって言った。 だけど、そのいじめっ子とは中学も一緒になって、クラスまでまた同じに成ったんだね?」


知り合いに語り掛ける様に、山田は石田少年にそう言った。 山田の話を聞いた石田少年の顔は、見る見る泣き顔に変わって行く。


「うぅぅ・・ど・どしてっ」


彼が心の中で叫んだ言葉を、山田は正確に繰り返したからだった。 誰にも言い出せなかったという思いを爆発させる寸前の石田少年の様子に。


「理由は必要無いよ。 君が、僕に言いたくて言えないままに心で叫んだ事が、僕の心の耳に聞こえたんだ。 君は、私で3人目の心理士と対峙している。 私が聞くまで、口に出せず黙ったままに心で叫んでいたのだろう? “助けて”・・と」


大粒の涙を流し、俯き頷く石田少年。


山田は、彼の手を握ったままに。


「此処では、涙を隠す必要は無いよ。 だけど、ちゃんと前を見よう。 君の人生はこれからも続くし、まだまだ長いんだ。 俯く時間を長くしてはいけない。 さ、もっと言いたい事が有るだろう? 今度は、自分の声で言ってごらん。 君の声を出せば、僅かに何かが変わる。 さ」


「・・うぅ・・。 変わらなかったら?」


石田少年がそう問うと、山田は緩やかに笑み。


「君が言わず、お母さんも周りも原因が解らなかった。 でも、君が語れば原因が解る。 それなら、今度はその原因をどうするかと云う対処の思案に成る。 つまり、君一人で悩んでいた時とは違う場所に立つんだ。 虐められる環境を変えたいなら、他人任せではダメなんだ。 君も一緒に、どうしたらいいか考える場に立たねば。 今までの様に部屋に閉じこもっても、いじめっ子は消えないだろう? でも、環境を変える選択を下すべきは、その環境を変える事が出来る立場のお母さんだけじゃなく。 新しい環境に向かおうとする君の気持ちも必要なんだ」


山田の話を聞き、石田少年は直ぐに反応する。


「僕はケンカも強くないし、頭だって良くないよ。 僕を虐めるヤツに勝てないし、見返す事だって出来ない・・。 何も変わらないよ」


と、初めて山田の眼を見て言った。


だが、口元を微笑ませた山田は。


「君は、お母さんの話だと、人を見て何も言えないと聞いたよ。 だが、今はハッキリと私の眼を見て、そして自分の気持ちを言ったじゃないか。 変わる前の君に、それが出来たのかい?」


石田少年は、グッと何かを飲む様に黙った。


此処で山田は・・。


「ふむ、確かに君の抱える問題の解決にはならないね」


と、頷いた。


「・・・ほんとに、心が読めるの?」


恐る恐るの様に石田少年は、またも心で言った言葉を知られて真偽を確かめたくなった。 今の一言も、自分の心の内で出た思いに対する答えである。 自分が思った言葉を、山田と云う人物が聞いているとしか思えなかった。


さて、彼の顔を見る山田は。


「どうだろうか・・。 何も言ってくれなければ解らないよ。 私は、君が心で言う・・、思う声を聞いているだけに過ぎない」


「そ・そうなんだ」


「あぁ。 だが、君の想うとおりにするのは、確かに大人でも至難の業だね。 いじめっ子に、虐めを辞めさせるのは・・」


「やっぱり・・」


「だが、彼らも全く無邪気に自由に君を虐めてるのかは、実に疑問だ。 君を虐めて捌け口にしているなら、彼らにも何らかの鬱積したものが有るのだろうし。 また、君の態度が気に入らないとかなら、それはもう君が居なくなるしかない」


「・・やっぱり」


石田少年は、今まで思い詰めていたままの答えが返って来て俯く。


すると、徐に。


「孝平君、本当に居なくなって見るかい?」


と、山田が。


「えっ?!」


急な話の展開に、驚いて顔を上げた石田少年。


山田は、首を左右に振って。


「いやいや、死ぬとかではないよ。 ただ、学校を変えてみてはどうかな?」


「が・学校を・・変える?」


「うん。 通信制の学校でもいいし、別の中高一貫校に入って見るとか。 学校で学ばないまま閉じ篭ってるなら、それは勉強だって出来ないさ。 だけど、勉強が出来ないままでいじけてるより。 解らないから、解るまで教えてくださいって行く方がいいでしょう? 君は、何の仕事に就きたい?」


「え・・」


「いやいや、勉強の出来を考慮しなくていい。 これは、何をしたいかと語り合う為の話し合いだ。 テストが0点でも、総理大臣に成りたいと想う事にダメは言えないさ。 夢は、何処かで語って置いてみないと」


「夢を・・置くんですか?」


「そうさ。 誰にも語らずに仕舞いこんで、昔はこう思ってた~なんてまだ君が考える事じゃないよ。 やりたい事は、言ってみる。 書き出して、置いて見る。 何をしたいのか、自分で理解してみてもいいんじゃないかな。 目的を持つって、そうゆう事じゃないかな」


「・・・」


石田少年は、返答に困った。


山田は、ただラフな言い方で。


「時間は使って構わないよ。 午後のお客さんは、君だけ。 後・・4時間と30分。 自由に使っていい」


こう云われた石田少年は、時間と山田を比べる。 そして、また心の中で思ってしまう。


また、その彼の声を聞く山田は。


「君は、私のクライアントだ。 大丈夫だよ、私の生活はクライアントさんが居て成り立つ。 君を迷惑だなんて想わないさ」


こうまで云われてしまった石田少年は、隠し事は出来ないと山田を見て話を切り出した。 夢の事も、自分を苛める相手の事も。 そして、自分がしたいこと、したくない事も語り出したのである。


こうして、本当に夕方の5時半まで彼は居た。


石田少年との対話相談を終えた山田は、トイレに入ってから手を洗っていた。


その山田を見つけた佐瀬看護士が。


「山田センセ。 あの子、ホントに最後まで居ましたね」


と、手拭のタオルを差し出す。


「あぁ、済まない」


タオルを受け取った山田は、ただただ淡々と。


「4年近くも虐められて、自分を押し潰す程に悩み込んでたんだ。 たった4時間半じゃ、全ては言えないよ」


「4年・・ですか、私には無理ですよ」


この笑顔で笑う佐瀬真純とて、嘗ての山田のクライアントだった。 家庭内暴力に脅え、母親と二人で酒乱の父親の暴力に耐えていた。 山田は、父親を説得して酒を止めさせた。 もう、アルコール依存症もいい所で、今では癌で余命幾ばかりも無い人物だ。 真純は、母親すら放棄した父親の面倒を、今は一人で看ている。 父親の居場所は既に病院だが、その治療費とてバカには成らない額だった。


山田は、彼女を面倒見ようと引っ張った。 男女の関係は無く、彼女が一人で誰かを見つけれるその日を待つ事にしたのだ。 山田は、人によっては口に出さずこんな救済もしている。 


手を拭き終えた山田は、受付の整理をする真純に。


「佐瀬クン。 これから私は、店の方に行くよ。 今日は、全員が来ているらしいからね」


「あぁ、解りました。 後で、私も飲み物でも買わせて貰います」


「ん」


トイレ脇の幅狭い廊下を行き、木目のドアを開けると2畳の更衣室が。 上着を着た山田は、殺風景な床の間風の部屋の上に見える換気窓を見て。


(6時前でこの暗さか・・、夏の気配がもう遠くだな)


秋が深まる今を、陽の暮れ方でも十分に感じれる。


更衣室を出た山田は、真純に挨拶を置いて狭い通路が延びる廊下へと出た。 綺麗な半円の受付を持つ事務所から一歩出れば、そこは小さい雑居ビルの中だと教えてくれる狭い廊下。 その先には、4・5人乗ればブザーが鳴りそうなエレベーターが在った。 エレベーターで1階に降り、郵便物などを各階分受ける郵便受けが廊下を狭くすると云った暗いロビーが在り。 その先は、道路を左右に見渡せる歩道である。


「・・」


山田が見上げる空は、一方の彼方に雲と紫色を強弱に配したコンフィングの空が見え。 また一方の大型マンションが望める空には、星が輝いている。


(秋深き隣は何を売る店ぞ)


此処は東京都だが、都心に出るまでは一本は乗換えを必要とする。 この辺では、マンションばかりが新しく見え、古くなり始めた通りに面する雑居ビルなど一階にコンビニが明るく見える程度。 それこそ、隣のビルの中がどうなっているのかすら解らない。


ジャケット1枚では肌寒くなりそうな空気を感じつつ、山田はマンション前の交差点まで歩き、信号の変化を待って向こうへと渡った。 山田が歩く歩道らしきものしかない通りの先は、朝夕には込む駅が在る。 だが、山田が用有るのは、駅の裏側で・・。


“激安ディスカウントストア”


と、ネオンが大きく張り出したスーパーだ。 外に置かれたテッシュや洗剤の安売り商品を見た山田は、異常が無いと確かめてから店内へ。


「あ、社長。 お疲れ様です」


「社長、いらっしゃい」


店員を務める四十代、五十代の男性・女性の店員が、山田を見つけては声を掛けてくる。


「こんばんわ。 病院の方が終わったので、手伝いに来ました」


すると、この店を束ねる店長の中年男性が。


「社長さん。 それなら、奥に行ってくれないか?」


と。


山田は、在庫を管理する倉庫の方を見て。


「何か在りましたか?」


「いやね、新しく入った坂上クンと、松田クンのソリが合わないらしいんだよ。 今朝、先輩の松田クンが坂上クンを注意したらしいんだけど、坂上クンが違う事を言ってね。 それで、松田クンが怒り出しちゃって・・」


「そうですか。 解りました」


山田は、店員さんに声を掛けて労い。 それから最低限のチェックだけを終え、奥に向かっていった。


この店は、山田が完全に管理する店ではない。 社長ではあるが、ある程度は下の者に任せている。 しかし、山田がこの店を始めているのは、商売っ気だけではない。 この店のアルバイト店員の数名は、山田の病院に来た依頼主である。 対話を重ね会話が成り立つほどになると、山田はストレスを蓄積しない程度の勤務日数で働かせる。 軽作業だが、給料もちゃんと払う。 一般の人との触れ合いや仕事と云う責任行動を通し、閉鎖的な個人生活から開放された自主生活にシフトし。 労働と対価の報酬を得るという社会的な形態と云うか流れを覚え、自分の力を使って生きるという思考を身に付けて貰おうと云う狙いからだ。


これも治療の一環と云って良いが、山田は依頼主の家族から金を貰う事は無い。 家族に山田が求めるとするなら、お客として時には買い物をして貰い。 日常的なコミュニケーションとして会話をしたり、朝食や夕食を共にする機会を得たりして欲しいと云う事だ。


この行為で誰もが立ち直れる訳ではなく。 また、誰にでも適用出来る事でもない。 だが、一人でも二人でも社会に巣立って行けるなら、それが家族の負担軽減にも繋がるし。 中々入り込めない家庭の闇で起こる事件を減らすとも山田は考えていた。


この事業形態の事は、漠然とした形で山田の胸の内に在った。 だが、現実として実現するのに当っては、モデルと云うべき手本が数多く在った。 知的障害や精神障害の在る患者に、自分の生活を護る上で自給自足を促す病院で在ったり。 精神障害者と云う閉じ込めた患者を作らない国の方策などがそれだ。 山田が事業主と云う立場を利用し、依頼主に出来る事はどれからだろうと考えた時。 このスタイルから入ろうと準備をして進めてきた。


さて。


倉庫の中に在るプレハブ小屋の様な休憩室。 8畳の休憩室に向かえば、帰る仕度の松田と坂上が居た。 店のロゴが入ったエプロンを取った彼らは、部屋の左右の四隅に分かれて缶の飲料を飲んでいた。


山田を見つけた老人の店員兼アドバイザーである志賀と云う男性が。


「お、ヤマさん来たかい?」


と、声を上げれば。


山田も、志賀を見て。


「どうも、お疲れさまです」


と、会釈する。


社長と社員の関係とは少し違った様子が在る二人だが、山田と志賀の仲は、そこそこ長い。 嘗ては忙しく働く精神科医で、その為に家庭を犠牲にしてしまった事から自分が精神病に落ちた志賀。 そして、彼を雇いながら店に依頼人を働かせて面倒を看させる事で、志賀本人の自信喪失を回復させた山田。 歳の離れた間柄ながらに深い信頼を持つ二人であり、山田を支える心強い存在が今の志賀だった。


山田は、壁に向いている松田を呼んだ。 ロッカーも並ぶ壁側に向かって、パイプ椅子に座っている松田が無口で心配に為った。


今まで山田の営む店で働き、社会へと旅立っていった者も増える中。 この面前へと歩いてくる松田と云う者は、古い付き合いに成る。 夏でも下着の上から黒いジャケットを着て背が高く、一見はのんびりしていそうな三十男と云う松田は、軽度の知的障害が在る男性だ。 簡単な作業や仕事の手順を覚えるのは早いが、何かイレギュラーが起こったりするとパニックに為り。 また、自分が覚えた手順を他人が変えて遣ると云う事に理解が行かない為に、しばしば他人と衝突をする事が在った。


山田は、自分より頭半分高い松田を椅子に座らせ。


「今日、怒ったんだって? 最近じゃ~久しぶりだね。 一体、どうした?」


「・・・」


無口で、俯きモゴモゴと云う松田。 何度も話し掛け、聞き出すに。


“坂上に仕事を頼み、仕事が大変だったろうと声を掛けたのに。 坂上が困った顔をして、笑い出したのに腹が立った”


と、云う。


「そうか。 松田さんは、気遣ったんだものな。 それは、驚いただろう?」


山田の話に、ガクリと頷く松田。


その間、山田は意図的に此方を見ない坂上を脇目に入れる。


この坂上と云う若者は、最近新しく入った人物だ。 彼の行動を傍から見ていると、一般の者と何等変わりが無いと思え。 只の引き篭もりではないか・・と、見てしまうだろう。 会話を自分からする事は稀で、人の輪から離れて居る傾向も強いが。 話を聞けば、ちゃんと答えを返すのだから・・。


しかし、彼の病気は対人恐怖症と、アスペルガー症候群とも取れるものだ。 大人の人物に対し、人見知りよりも強い恐怖を感じる傾向に在り。 また、顔色や言葉と態度で差し向けられる相手からのコミュニケーションに対し、彼は寸部も読み取る事が出来ず。 遵って、適切な言葉や間合いにてのコミュニケーションのレスポンスを返す事が出来ないのだ。 彼のこの症状を軽視する者も居るが、社会的に生きる上でコミュニケーションが成り立たないのは大変である。


『何か在ったのか? 今日は、何をした?』


と、云う出来事や進歩を聞く分には、まだいい。 だが、人と人がお互いを語り合う様な、つまりは大きく括った雑談をするのには苦労が多い。 上手に相手を気遣う事も出来ず、相手が自分をどう思っているのかが解らない。 下手をすれば、相手が怒っているのに冗談を言ってしまったり。 また、泣いている処に、更に怒ってしまうなどしてしまう。 相手が何で笑っているのかが解らず、勘違いしたり。 相手が何で泣いているのかが解らず、自分でどうして良いか解らず苛立ってしまうのだ。


この坂上と云う人物は、幼い頃からその症状が在り。 小学校時代に知的障害など無いのに、擁護教室に行かされていた。 彼をどう扱っていいのか解らない父親の仕業であるが、彼をなんとか普通にしたいという母親が家庭で勉学の遅れを補っていた。


が、彼が思春期に入り、益々精神不安定に入り。 中学校の途中から不登校に為り出した。 


特に会社人間で、世間体を気にする父親と彼の対立は凄まじく。 酔っ払って彼を部屋から引き摺りだそうとした父親を、怒り狂った彼が包丁で刺そうとした事も在ったらしい。 相手の言葉遣いや表情から感情を読み取れずコミュニケーションが出来ないという病状を、実の父親が理解出来なかったのだ。


また、不登校の息子を持ったと、世間に恥を晒していると思い込んだ父親の葛藤も強く。 閉じ篭る彼と父親の戦争じみた戦いは、実に6年以上にも及んだ。 その後、医者に看て貰う事でその戦いを緩和しようとした母親の献身的な行為により、遂に山田と坂上は出会う事に為ったのである。


「坂上クン、お疲れ様。 さ、帰る前にこっちへ」


坂上を呼んだ山田の声は、平常のものである。


「・・済みません」


椅子から立ち上がり、倉庫が見えるアクリルの嵌め込み窓から山田に顔を向けた坂上。 ボサっとした髪が目に掛かるほど長く、神経質そうな顔だが、暗いと云う印象以外には悪いものではなかった。


「いや、謝らなくていい。 君が何をしたと云う訳でもないよ。 漸く人前に出出した君には、全てが訓練であり。 上手く会話が出来る様になるまで時間も掛かる。 君の事を、周りもまだ理解しきれていないしね。 さ、いい事も、悪い事も当たり前に在る事なんだ、話を聞かせてくれないか?」


「・・・はい」


坂上と云う青年にして、この山田と云う人物が一番解らない。 何事にも怒ってしまう事が無く、手を触れ合う事で心を通じ合える。 不思議で、神秘的な人物に見えた。


山田は、先に松田を帰し。 30分ほど話し込んでから、坂上も帰した。


話を聞き終えた後の山田に、経過を見届けていた志賀老人が。


「しかし、お前さんもタフだな。 あの二人の話を最後まで聞いて、摩擦を和らげようって気だろう? だが、幾ら心が聞けても、それは難しいぞ」


と。


上着を脱ぎ、そろそろ閉店の準備に入る店員の手伝いをしようかと云う山田は。


「ですかね。 でも、彼らが考えをしっかり持って、自分の人生を乗り切る為には必要な事です」


と、休憩室を出た。


彼の背中を見る志賀老人は、内心に心配だった。


(アイツの能力が、どう開花したのかは解らん。 アイツが云わない以上、理由を封印したいだけの何かが在った・・。 ま、そんな処だろうなぁ。 だが・・、アイツは包容力が強過ぎる。 全てを抱え、全てを掬い上げるなど無理だ。 アイツの云う通り、人生は自分のものだ。 生き抜くのは、己でなければイカン。 抱え過ぎれば、患者たるクライアントの依存を招き。 また、依存を飲み込んでやろうと無理が出る。 ・・嘗ての俺の様に。 ・・・いや、壊させたくないな。 その為のワシの存在かも知れん)


志賀老人は、缶コーヒーの残りを煽って後片付けの手伝いに向かった。




その後。


志賀老人のサポートも在り、山田の依頼主であるアルバイター達に大きな摩擦は無かった。


だが、事件はクリスマス商戦も控えた11月末に起こった。




秋風が木枯らしに変わった晩秋の昼過ぎ。 事業主として店に置く商品のサンプル紹介を受けに、都内の大手菓子メーカーに来ていた山田の携帯が鳴った。


「あ、チョットすいません」


コーヒーブレイクとして、応接室にて休んでいた山田。 相手方の商品開発責任者の女性と雑談交じりのアイデアの出し合いをしていた時だったが・・。 電話相手は、志賀だったので優先したのだ。


「もしもし、山田です」


廊下に出ながら電話に出た山田の耳に、驚くべき事柄が告げられる。


「済まん。 松田が坂上を酷く殴って、大怪我をさせた」


「え゛っ?」


山田の聞く電話の向こう側の志賀の声が、酷く無念そうに聞こえる。


「山田さん、松田がまた勘違いして怒っちまった。 坂上は、逃げずに何かを云ったらしいんだが、それが逆効果になっちまったみたいだ。 逆上してしまった松田は、店脇の路地で坂上に馬乗りに為って・・」


その話を聞く山田は、静かに目を瞑ると。


(和彦・・。 俺は、諦めない)


こう念じ、目を開いた。


「もしもし、山田・・聞こえてるか?」


「あ、はい。 志賀さん、病院には?」


「おう、今さっきに電話が有って、救急で都内の総合病院に・・。 ご家族も向かってる」


「そうですか。 では、これから自分が病院に行きます。 警察が来て、事情を聞きに来たならこっちへ」


「おっ、おいっ。 お前、病院に行くのか?」


「当たり前ですよ」


「だが、ご家族が・・」


「仕方ないですよ。 それより、店の従業員のケアを願います。 体が二つ欲しいですよ」


「バカ。 それは、任せとけ」


電話のやり取りを終えた山田は、商品のデータだけを貰って病院へと向かった・・。


地下鉄とバスを遣い、新宿方面の病院に着いた山田は、松田夫妻と坂上の母親に囲まれた。


「先生っ、これは一体どうゆう事ですかっ?! ウチの子がっ、何で人を殴るんですかっ!!!」


加害者として、息子を罪に問われるのではないかと脅える松田夫妻。 母親はヒステリックに成り、父親は酷く青褪めた顔に。


一方、坂上の母親は、もう狼狽するだけに。


「嗚呼・・先生。 息子は・・あの子は何をしたのでしょうか・・。 うぅ・・、意識が無いって・・・」


山田は、双方の親と話し合った。 病院側の用意してくれた一室で、とにかく話し合った。 松田が坂上の放つ独語を勘違いして聞いたのは、志賀からもう一度聞いた話から確かだという。 また、松田が被害妄想の重病者であった事も有れば、坂上の母親からは出来るだけ事を大きくしたくないという意思表示が有った。


松田の父親が、治療費だけでも払わせてくれと云うのに対し、坂上の母親は静かに頷いて了承をした。


話し合いの後。 坂上の母親は、病室へ。 山田と松田の両親は、事情聴取に来た警察の対応に向かった。



この事件は、山田には大変な責任が問われた。 松田と坂上が、以前にも衝突を起こしていたからだ。 資格を持つ責任、店で働かせていた管理者として二人を当分の間は同じ勤務に就かせない様に出来なかったのかと。 路上で二人がケンカをしてしまい、通報したのが近所の奥様方だったから。 商工会から尚更に山田へ疑問が投げ掛けられた。


そして、無論の事ながら従業員からも苦情が出た。


一方。 山田ぐらいしか自分を面倒看てくれる人物が居無い事は、松田本人も解っている。 刑務所に行くほどではなかったが、この職場や山田から見捨てられたくないと泣き出す始末。 和解をする方向で話し合いをすると云う為に双方の弁護士が動き。 起訴も取り下げられる事になった。


近くで山田を見守り、彼の風当たりを軽減しようと努めた志賀老人は、どの方向から来る話にも毅然としながら穏やかに対応する山田を見ていた。 疲れと云うか、精神疲労で山田が窶れかけたのは事実だが。 それでも志賀の見る山田は、この難事も乗り越えようとしていると見受けれた。


そして、12月に入ってから。



小春日和と云う感じの晴れ空が広がった或る日。 山田は、また坂上を見舞った。 意識不明で、二日を彷徨った彼だったが。 三日目には気が付き、会話はしないが食事はし出していた。


山田が最初に見舞ったのは、入院4日目だが。 白いベットに寝ていた彼が、山田を見て頭を下げたのに母親が驚いていた。


二回目は、6日目。 事件の経過を母親から聞いた彼は、松田が実刑を喰らったりしないだろうかと心配していた。 自分の病気を解っているだけに、自分が誰からも誤解を受けるのだと思い込んでしまい始めていたのが気がかりだった。


毎日来たかった山田だが、周りの声に耳を傾ける時間に機会を奪われる。 今回は4回目だが、山田は、非常に坂上が気がかりだった。 3回目の時、心の呟きで坂上は自分を責めていた。 自分が何か間違えた事をしたのではないか、父親に怒鳴られ詰られ続けた罵倒の声を借り、自責の念を生み出していた。 自分が生きてるから、迷惑を掛けると・・。


病院の受付に、面会として挨拶を入れた山田だが。


(坂上クンは大丈夫だろうか・・。 昨日も、お母さんが電話で言っていたな。 話をせず、食事も細く為ってきていると・・。 イカン。 これでは、和彦の二の舞だ)


山田と云う人間は、夢や希望からカウンセラーに成った人物では無い。 寧ろ、最悪のケースを辿った一人の人物を通し、その二の舞を一つでも無くしたいと成った側だ。 彼が今までに感情をむき出しにしないのは、その最悪のケースを辿った人物の過程で培わされた我慢に端を発する。 山田が青春期の中で負った絶望は、彼を強くした。


だが。


3階に在る坂上の病室へ向かうべく、エレベーターに乗った山田。 だが、3階でドアが開いて降り立った瞬間だった。


「・・・」


山田の体の中で、何かが駆け抜けた。


(こ・・この・・・感覚は)


その押し戻される様な圧迫感を体の中に感じる不思議な体感は、山田には経験が有った。


「坂上クン・・」


思わず口に彼の苗字が突き出た。 山田は、もう心が何処かに行ってしまいそうな感覚に陥り、そのまま窓側奥の個室へと向かっていった。


―坂上―


この名前だけが掛かる一人の個室に入った山田は、静かに横に成っている坂上を見た。 丸で呼吸すらしていない様な寝姿で、彼は横に成っている。


「・・・」


誰かが座っていたであろうパイプ椅子を引き寄せ、彼の横に座った山田。


(こうして見ると、和彦に少し似てるか)


山田が坂上の顔を見て、黙ること数分。 長い様な、短い様な時間の経過。


だが突然、其処にまたドアが開く音が・・。


「あ、これはどうも」


「あら、先生・・」


母親が来たのだ。


窓側に移り、母親と話をする山田は、そのやつれた母親が痛々しいと思えた。 坂上が食事を削り出したのを、母親は鋭く自虐の念からだと見抜いていた。 縋り付いて、泣き喚いてでも食事の量を戻させようとしたい母親だが、此処は病室。 それも敵わずと、悶々としていた処だったらしい。


母親の話を長々と聞く山田は、母親が休むスペースに睡眠薬剤の殻フィルムを見つけて。


「お母さん、少し休まれては如何でしょうか。 今日は、自分も夕方まで居たいので、その間にお休み下さい」


「あ・・でも・・」


「お話は覗いました。 さ、お母さんが倒れられては、私ももうお手上げですよ。 助け合えるなら、時間は有効に使わないと」


山田に心情を吐露した母親は、確かにそうだと休む事に。 恐らく、身体はもう限界だったに違いなかった。


数分後。


(寝たか)


坂上の顔色を覗う山田は、母親の寝息を聞いて一抹の安心を得た。


さて・・。


医師の話では、何か酷く眠らせる要因が精神的な意味合いで有るのだろうと云っていたとか。 彼は一日の殆どを寝る様にして過ごしているのが不思議だった。 疲れているとか、薬とかではない。 昏睡に近い状態まで、一気に堕ちて行くのだ。 一昨日辺りから、揺すっても起きない状態に12時間以上も入り。 昨日は、18時間。 今日は、まだ一度も目を開けて居無いらしい。


山田は、眠っている時でも手を介して心の声が聴こえるのか不安だった。 だから、自分が行く時は起きていて欲しかったのだが・・。


「・・・」


黙る山田が、やや躊躇いながらも手を伸ばし。 坂上の手を触って見ると・・。


《誰かっ、僕を殺してっ!!!!!!!!!!!》


「あ・・」


自分の体全身に麻痺の様な響きで木霊する声が聴こえた。 驚いた山田で、思わず坂上の手を放した程である。


(きっ・聴こえた。 寝ているはずなのに、夢か?)


今度は、大きく深呼吸し、覚悟を持って手を握る山田だ。 坂上が何を思っているのか、少しでも知りたかった。


山田の手が、しっかりと坂上の手を持つ。 すると・・。


(兄さん・・、此処だよ)


聞き覚えの有る声と共に、山田の意識が堕ちて行った・・・。




                       二




山田は、夢を見ている様な感覚に陥った。 だが、次第に意識が目覚めて行き・・。


「ん?」


目を開けた山田は、美しい夕焼けの伸びる花畑に座っていた。


「此処は・・何処だ?」


立ち上がる彼の鼻に、花の匂いがする。


「・・・、此処は確か」


周囲を見渡す山田の脳裏に、この風景と酷似した風景を見た記憶が在ると感じられた。 だが、記憶は曖昧で何処だったか・・・。


その夕焼けの花畑を見ていた山田は、気付けば歩いて何処かに向かっていた。 当てがが有る訳でも、向かいたい場所が在る訳でも無い。 気が付けば・・だった。


山田が歩くその何処かは、様々な顔を持っている“世界”の様であった。 時折、何処かから、微かな声がする。 その声を追い暗い林の中を歩き、急に開けたと思う場所は水面に自分が映る水面が辺り一体に広がる世界に変わっていたりする。 近付きつつ有る様な声を追うままに、歩く度にふっと景色が変わる。


(此処は・・坂上クンの心の中なのか?)


山田は、周囲の景色を見ながら此処が何処なのかと考えるうちに、


「もう嫌だ・・、もう・・」


と、坂上らしき声を聞き。 その声を探す内に、深い森の中に迷い込んだ。


「くっ、道が無くなってる」


森の中の獣道の様なものが、次第に薄れて暗い森の中と化したのだ。 そして、振り返ると自分の来た道すら消えて無くなっているのだ。 山田は、森を抜けるしかないとそのまま突き進んだ。


どの位歩いたか・・。


突然に。


「あ・・ん?」


森の中なのは変わらないが、少し開けた場所であり。 其処には、教会にも似た建物が建っているではないか。


「こんなものが・・、此処にか?」


その建物が、山田には非常に不思議に思えた。 その建物に吸い寄せられる様にして、彼は歩み寄って行く。


(心の中に・・建物か。 これは、一つのカテゴリーに似た意識の中に在る特別な領域なのかも・・)


注意深く、その建物の入り口となる木のドアを正面に見て立った山田。 そのドアは、坂上の心の扉だと思い、軽々しく触れるのも躊躇われた。


が。


(不思議な建物だが、建築様式から造りまで細部に亘って鮮明だ。 現実に在る物を見た記憶なのではないか)


建物をぐるりと一周して、そう思う山田。 しかし、再度正面のドアの前に向かおうとすると・・。


(ん? あっ、・・誰かが居る)


山田が正面に回ろうと、側面の壁から曲がろうとした時。 入り口の前に、白いスカートを穿いた10歳前後の少女が立っていた。 髪が長く、目の綺麗な女の子であった。


「あ・・ちょっといいかな」


山田は、正面に出て声を掛ける。 するとその少女は、山田の方に顔を向けた。


「・・おじさん、だあれ?」


その少女が山田に聞き返した。


(返事を返した・・)


会話が成り立つと解った山田は、その少女の目の前にしゃがみ込み。


「おじさんは、や・ま・だと云います。 あなたは、どなたですか?」


山田は、この少女が此処に居ることが不思議であり。 また、この少女が坂上とどうゆう関係に成るのかが気に成った。


少女は、ジッと山田の眼を見る。


山田もまた、ジッと見つめた。


「・・やす・・だ・・ゆき・・・です」


少女がおずおずとした感じで名乗ると、山田はその場に座った。 安心を与える為にである。


「やすだ、ゆきさん・・か。 教えてくれ、ありがとう」


山田がお礼を言えば、少女はペコンとお辞儀をくれる。 山田は、あえて彼女を逃さない様な事はせずに、穏やかなままに。


「おじさんは、さかがみ だいきクンを探しに来ました。 お話がしたいんだけど、ゆきさんは、だいきクンが何処に居るかを、知っていますか?」


ゆっくりと、丁寧に山田が問うと・・。


「だいきクンと、おじさんはおともだちなの?」


「あぁ。 先日、大樹クンが怪我をしてね、どうしてるかな~って心配に成って、今日に来てみたんだよ。 だけど、大樹クンは寝てるみたいで、お話が出来なかった・・。 だから、おじさんは大樹クンの事を探しに来たんだよ」


すると、少女は教会の様な建物の中に目を向ける。 何時の間にか、ドアが消えていた。


「おじさん、だいきクンは・・あっちだよ」


少女は、ドアの消えた暗い空間の広がる入り口に指を向ける。


山田は、坂上の最近の事が気に成っている。 この少女が何者なのかは解らないが、坂上の心の中に住む住人だと云う事は解る。 精神学の中でも少し偏った見方に為るかも知れないが、夢・空想・妄想などから精神の具合などを考察するに。 現実の世間との交流が浅いと思われる坂上からして、心に存在するほどの誰かは、彼にとって重要なキーマンである可能性も在る。


だから・・。


“ゆき”と名乗った少女を見た山田は、もう少し話を重ねる事にしてみたく。


「ゆきさん。 おじさんは向こうに行くけど、ゆきさんも来てくれないかな。 おじさん、道がわからないから」


「いいよ」


「よし、じゃ行こう」


その場で立ち上がる山田だが、衣服にドロなどが付着することも無く。 ゆきと云う少女と手を繋ぎ、その入り口に向かって歩き出す。


「こっちでいいのかな」


「うん」


「そっか。 ところで、ゆきさんは大樹クンとお友達なのかな?」


「うん」


「そうなんだ。 大樹クンにも、こんなお友達が居たなんてな。 おじさん、お友達に成ってからまだ短いから、知らなかったよ」


二人して踏み込むドアの消えた先は、暗い世界に絵の具をごちゃ混ぜにしてぶちまけた様な空間になっていた。


さて。 山田と歩くゆきは。


「あのね、わたしとだいきクンは、ずぅ~~っと昔からお友達なんだよ。 この前まで、少し会わなく為ったこと有ったけどね。 だいきクンとは、良く遊ぶの」


山田は、この話に気を留め。


「そうか、じゃ最近はあまり遊んでなかったんだね?」


「うん。 何日か前に、ひさしぶりにだいきクンが来たの。 お父さんと一緒に、だいきクンに逢ったのよ」


(・・お父さん? 彼と接点の在った誰かだろうか・・。 それとも、何らかの意味を持った妄想の産物か)


親子で居ると云う話を聞き、山田の中で何か不思議な感じがする。


考える山田に、ゆきと云う少女が手を引き。


「ほら、ここがだいきくんの居るところ」


と、ドアの前に案内してくれる。


「此処が、だいきクンの部屋か」


案内されたのは、空間の中にポツンと在るドア。 ノブに手を掛け、押し開いてみる・・。


(坂上クン、此処に居てくれよ・・)


切に願いながら、ドアを開いた先には・・広い講堂の様な場所が存在していた。 一歩を踏み込みながら、山田が見る視線の先に、なんと少年が。


「あっ・・うわっ!」


驚くべき事に、その少年は全身から血を流している・・。 学校に良くある金属の足を持つ板の目の椅子。 それに座った子供が、全身を血みどろにして俯いていた。


「だいきクン、お友達のやまださんをつれてきた~」


ゆきと名乗ったあの少女が、山田の手から手を放して血みどろの少年へと向かってゆく。


「嗚呼・・、あれが・・大樹クンだと?」


山田は、その大怪我をした少年を前にして、思わず力が抜けて膝を崩す。 何か、急激に絶望感に襲われてしまったのだ。


「だっ・大樹くん」


苦し紛れ・・喘ぐままに思わず声が山田の口から出た。 聖堂のホールの真ん中の様な場所にて、椅子にぐったりと座っている坂上と思しき少年。  坂上が幼稚園の頃から苛められていたのを、山田は聞かされていた。 相手の表情や醸し出される空気を読めず、彼はバカにされ続けていた。 その後は、彼を理解出来ない父親との戦い・・。 山田が思うに、彼の心は相当に傷付いていたと思って居た。 だが、この様子からして、かれは満身創痍のままにいままでを過ごしていたらしい。


(なんて事だ・・。 これが坂上クンの心の中であり。 この姿が今の坂上クンの真の姿だとしたら・・、彼の意識はもう自滅に向かって自虐的な方向にしか行かなくなってしまう。 ナイーブで傷付き易い者では無く、傷付き過ぎた者・・だ)


山田は、この状況で今更ながらに人の心を知る難しさを知った。 表に出ず、親との葛藤で引き篭もる者の多くは、自信が無く、自分の良さを見出せず、自分の足で歩く事に脅える者が多い。 世間に出ない分、人に接する機会が少ない分だけ心は弱く傷付き易いのだ。 だから、過去の些細なマイナスの記憶がトラウマに変わる。 一概に全てをこれで語れないが、大体はそうなのだ。 だから、山田の行う改善行為として、徐々に働かせて外部になれる事での立ち直りが可能なのだ。


しかし・・。


この目の前の坂上の姿は、まるっきり逆だ。 丸で世間から酷い仕打ちを繰り返し受けた様な、重病人の状態と云える。 山田が聞いた彼の生活で、此処まで酷く為るものなのか・・。 引き篭もりどころか、ずっと社会から責められ続けてきた様な様子だった。


山田が愕然として見ている中で、あのゆきと云う少女が坂上の傍に近付き。


「だいきくん・・だいきくん・・」


と、揺すり動かす。 だが、彼はピクリとも動かない。


すると、ゆきと云う少女は・・。


「おとうさ~~ん、おとうさ~~ん」


と、周りに向かって声を上げる。


すると・・。


「どうしたんだい?」


山田の背後で、低いしゃがれ声がした。


「え?」


声に驚いた山田は、膝を折った態勢から振り向いた。


だが、山田が見たのは、自分の脇を歩く誰かの脚。 見上げると、男性と思しき誰かの背後しか見えない。


(あれが、彼女の父親だというのか? 心の中だと仮定して、彼は想像の産物なのか? それとも・・)


山田が一人理解に苦しむ中。 ゆきと云う少女に呼ばれた男性は、坂上らしき少年の下に向かって行く。


「おやおや、これは酷い・・。 やっと誰かの手助けを受け、外の世界に目が向いたと云うのに。 これでは、繰り返して死んでしまうぞ」


男性の声が、山田には聞き覚えが有りそうな気がする。 だが、今はそれ処ではない。 山田がみている中で、近付いた男性は坂上の傍らに膝を折る。 そして、その力無く下がっている左手を取り。


「ゆき、大丈夫だよ。 私が、彼の心を聞こう。 まだ、彼は覚悟を決めて居無い。 自虐的に為っては居るが、致命的な所まで自分を追い込む事に躊躇いが残っている。 今なら、歯止めだけなら出来る」


すると、坂上と思しき少年を気遣う“ゆき”と云う少女は、その背面しか解らぬ男性に抱きつき。


「おとうさん、だいきくんを助けてよ。 また、前みたいにゆめを持てる様に・・」


「ん、ゆき・・。 そうしたいが・・、私ではそこまでは無理だよ」


「じゃ、どうすればいいの?」


少女と男性の会話が続く中、山田の頭に声が響く。


“しっかりっ、大丈夫ですか?”


だが、それと共に。


「う゛っ・・、ず・頭痛がぁぁ・・」


山田の頭が、電流に撃たれる様な痛みを伴って悲鳴を上げた。 頭を抱え、何とか少女と男性の方を見る山田だが。


「彼を助け・・・は、か・・だけ・・。 わ・しで・・、もう・・りだ・」


途切れ途切れに、男性の声が聴こえる。


(うぅ・・なん・・だ? ・・なに・・を、い・云おうと・・) 


男性が何を喋っているのか、山田は気になった。 だが、激しい頭痛がその聞き取りを妨げ、急速に意識が薄れ出す山田。


そして、目の前がフラッシュバックする様に二度意識を失い掛けた後だ。


(キミ・・)


朦朧とする意識だが、目の前にあの“ゆき”と云う少女が立っているのを確認した。


「おじ・ん、だいき・・・助け・・よ」


彼女が自分に何かを言った。 山田は、それだけはハッキリ聞こえた。


と、思った瞬間。


「おじちゃんっ、やまだのおじちゃんっ!!! だいきくんを助けてよっ!!!!」


山田の身体に有る全ての感覚が、爆発する様に目覚める様な・・。 その少女の声が、ハッキリと山田にぶつけられた。


「・・うん」


痛みすら掻き消された一瞬の中で、山田はそう応えた。


が。


・・・・・。


彼は津波の様に襲ってきた頭痛に呑まれた。 割れる様な痛みに、目覚めを強要されて・・。





「しっかりっ、山田さん大丈夫ですかっ?!!」


看護士の強い呼び掛けに、山田が目を覚ました。


「・・」


目を開いた山田の肩を掴む看護士の男性は、彼をしっかりさせる為に本気であり。


「大丈夫ですかっ?!」


と、再度に確かめる。


「は・はい・・」


返事をした山田に、看護士は。


「山田さん、何かを飲みましたか?」


山田は、何事かと。


「いえ・・、昼にお茶を飲んだ・・・」


言い掛けた山田の目の前で、医師が忙しく坂上の眼をペンライトで見ていて。


「小島くん、薬物の作用ではないよ。 これは、患者の体の問題だ」


「あ、はい。 では、どうしますか?」


看護士の受け答えに、医師は興奮剤の投与を示唆した。


意識がハッキリした山田の前で、自然死しかけた坂上が緊急治療に回る様子が在った。


そして、その後。


(ふぅ・・、一体何が有ったんだろうか。 私は・・どうしたのだろう)


外来を受け付ける正面ロビーの明かりが落ちた中で、時折だけ看護士が行き来したり。 患者が歩く様子が在る待合の椅子に、山田の姿が有った。 考え込む山田は、病院経由で駅に向かう最終のバスを待つ中で、あの不思議な出来事について考察を繰り返していた。


(彼の手を握って、意識が堕ちた。 恐らくあの世界は、坂上クンの意識の中だ。 では、どうして入れたのだろうか・・。 私が何時も行う声の聞き方は、胸の内で発せられる声を・・この手を介して聞くだけだ。 だが、あの時は普通では無かった。 触れた直後に、・・堕ちた)


山田は、嘗て無い経験に困惑が激しかった。 いや、触れる相手の心の声が聴こえる様に為った時も、動揺に動揺を繰り返した程である。 今回の特別な経験は、衝撃的と云う点では比に有らずという所だ。 だが、今までの培った経験から、酷く取り乱す事も無く落ち着けている・・。


そんな山田の元に。


「あの・・先生」


坂上の母親が来た。


「あぁ、これは気付かずに・・。 大樹クンの様子は、どうですか?」


薄暗い待合場で、山田の横に座った母親がもう壊れそうになって涙を流し。


「なんとか・・安静になりました」


「そうでしたか・・。 今回は、すみません。 力及ばず、どうなってしまったのか良く解りません」


山田が頭を下げると。


「いえ・・。 それより、息子はもう・・ダメなのでしょうか。 嗚呼、もう昏睡状態から抜け出せなくなったら・・」


と、母親が言う。 恐らく、医師から宣告されたのであろう。


だが、山田としても何ともハッキリした事は云えなかった。


嘆く母親、黙る山田、二人が会話を横に置いて、少しし・・。


山田は、思い出した事を率直に聞こうと思い。


「あの、お母さん。 大樹クンは、本当にずっと引き篭もりだったのでしょうか」


母親は、すすり泣くのを止め。


「ど・どうゆう事・・でしょうか?」


「あ・・、疑っているのでは有りません。 ただ、彼の傷付き方と云いましょうか・・。 その、彼の冷めた様子や自分を追い込む形が、現実的に対人と接触して出来た心の傷を負う・・そんな風に思えます。 引き篭もる前・・、その最中にも彼は・・外に出ていたと云う事は有りませんか?」


すると、母親が涙さめも止まり掛ける様子で、時間が止まった様に為った。 山田と、母親が見合って少ししてから。 何故か彼女は周りを見てから。


「・・、先生」


と、小声に。


「はい?」


「あの・・、後日にでもお伺いしても宜しいですか? その・・先生の病院の方に」


母親の言葉に、山田はまだまだ語られてない何かが在ると感じた。


「解りました。 では、ご都合の良い時間で構いませんよ」


「はい」


「では、バスが来たみたいなので、私はこれで」


母親の顔を見ず、山田は立ち上がる。 よくよく考えれば、この親子の謎は多い。 別居したという父親の事を、坂上は現在進行形の話し方で詰りすらしなかった。 全て、過去形だった。



しかし、だ。 この後更に、山田には信じられない事が起こる事など、予測すらしていなかった。



それは山田が普段の生活に戻ろうという3日後。


山田が都内で数店舗構えるディスカウントストアの渋谷店にて。 人事部から、抜けた人手を埋める為にアルバイト募集を掛けたという報告を受けた。 渋谷の店は、郊外の店舗の様にセラピーを受ける依頼主を働かせぬ唯一の店であり。 アルバイトの店員は、入れ替わりが激しいと聞いていた。


さて、その報告と云うものの続きで、採用の担当だけで裁ききれない人数が集まったと。 クリニックを休む日であった山田も、当日のこの日に面接官の一人となってその面接の場に居た。


処が・・だ。


山田の持ちビルである雑居ビルの3階と4階で面接を行っていると。


「おはよう御座います。 面接に参りました安田 由紀と云います。 本日は、宜しくお願いします」


と、仕切られたブースに声がしたのである。


「・・」


用意した面接シートで名前を見て、ギョッとした山田。 その驚きに満ちた顔をそのままに、彼は面接を受けにきた女性を見た。


(こ・これは・・偶然か? 同じ名前の女性が・・・・、あ、いやいや。 名前が同じと云うだけ・・だろうな)


面接を受けに来たのは、顔立ちの整った若い女性であった。 人気アイドルとはちょっと食い違う雰囲気だが、何となく落ち着いた様子は好感を持てる。


山田はシートに顔を落とし。


「はい、ではお座り下さい」


「はい、ありがとう御座います」


礼儀も正しく、音も少なく座る女性。


「え~、安田 由紀さんですね。 年齢は・・」


確認事項を反芻し、記入と偽りが無いか確かめる最中。 また、山田の動きが止まる。


(同い年・・、しかも緊急の連絡先が・・彼の家と近い)


神秘的な経験の後、この偶然は怖い。 偶然では無いと、色々聞いてしまいたくなる。


なんとか確認を再開した山田だが・・。


「え~っと、安田さんはこれまでにアルバイト以外のお仕事には?」


「就いていません」


「ほう、と云う事は・・何か希望の職種でも有りますか」


「あ・・、はい」


「なんですか?」


「・・大それた話に成りますが。 芸能界で、女優さんをしたかったんです」


「したかった・・、過去形ですか?」


すると、俯き加減になった由紀で。


「えぇ・・、オーディションとか・・全然受からなくて。 もう、夢見て5年・・」


そんな由紀を見る山田は、彼女の持つ光はアイドル的な要素でもなく、光って爆発すると云う要素でも無いと見た。


「今まで、どんなオーディションに? アイドルとか、歌手とか、グラビアの要素が強いものはダメだと思いますよ」


由紀は、山田を見つめた。


「・・解るんですか?」


シートに顔を戻す山田で。


「若さをウリにするなら、貴女は不向きだ。 容姿が悪い訳ではなく、華々しさに欠ける。 本当に女優さんを目指すなら、10年売れないと覚悟し、劇団に入るとかした方がいい。 それから・・、その俯く様子が今のままではお芝居にも出ますね。 ・・自信を持つと云うより、受かるまで砕け散るぐらいの全力が欲しいかと・・」


由紀は、益々驚きの顔に変わって。


「それ・・、オーディションで云われました。 私の芝居は、只の芝居でやる気が見えないって・・」


思わずセラピストの様な事をしてしまったと、山田は俯き。 そして思わず。


「ほう、緊急の連絡先が大田ですか」


と、口走ってしまった。


「あ、何か?」


由紀から尋ね返され、山田は流れの様に。


「いえ。 先日、ウチの別店の坂上君と云う人物が入院してしまったんだが・・。 彼の実家と似た住所だったものでね」


と。


それは、用意された出会いなのか。 それとも、偶然の中で奇跡でも起こったのか・・。


「えっ? 私・・坂上さんと云う人を知ってますよ。 同い年・・の」


由紀の口から出た、この話。 山田は、巡り合わせだと思った。 いや、


“やまだのおじちゃんっ、だいきくんを助けて!!!!”


こう云ったゆきと云う少女と、・・・目の前の女性がダブった。


山田は、エントリーシートを伏せて。


「ふぅ・・。 安田 由紀さん。 それは、坂上 大樹君と云う男性ですか? 多分、年齢は同じだと思いますが?」


すると、由紀は何処か不安げに頷く。


「そうですか・・。 安田さん、お時間が宜しければ・・上の階で坂上クンの事をお聞かせ願えませんか」


「え?」


驚く顔の彼女は、無理も無い。 だが、山田は坂上を救うには、この由紀の存在を知る必要が在ると直感した。


採用は、別の話として決定とし。 山田は、由紀を連れて上の階に上がった。 紅茶を出し、誰も居無い応接間にて話を聞く山田は、坂上が依頼主として自分のクリニックに来た事自体を運命に思った。


先ず。


安田 由紀。 彼女の父親は、既に亡くなっている。 脳腫瘍と云う事だが、その死に至るまでが不可思議だった。 由紀の父親と為る以前に、若かれし由紀の父親は脳腫瘍を患った。 だが、手術が難しく進行が早いと、数年の余命宣告を受けたにも関わらず、彼は生きた。


養護施設を幾つか掛け持つカウンセラーだった由紀の父親は、一端脳腫瘍の進行が止まっていた。 その原因は良く解らない。 だが、脳腫瘍が進行し始めた事は、坂上と関係しているらしい。 由紀が話す父親とは、正しく山田と同じ能力を持っていた。 触れた相手の胸の内を聞き取れ、口をつぐむままに自分の殻へと閉じこもる孤児の声を聞き、その代弁者・導き手として彼らを癒していた。


(まさか、私以外にも同じ能力を持つ者が居たなんて・・。 では、一体坂上クンと何が・・・)


由紀が知る限り、坂上 大樹と接点が有ったのは2・3年だ。 幼稚園時代の坂上と、由紀の父親が接触しており。 由紀と坂上は、同じ施設に・・。


「安田さん。 君と坂上クンが同じ施設に? それは、幼稚園と云うことなのかな?」


「いえ。 正規の時間外で、子供達を一時預かる託児所です。 母が開いた託児所で、坂上クンは夕方だけお母さんが預けに来てました」


「それは・・、仕事上の都合だろうか」


「さぁ、良くは解りません。 只、小学校1年生まで、大樹君は遅くまで居ました。 私、母の作った夕食を大樹君と良く食べました。 遊ぶのも一緒だったのに、その・・2年生に上がってから、彼が離れて行きました」


「なるほど・・、その理由は解りますか?」


すると、由紀は俯いた。


(・・幾つかの坂上君を苦しめる要因。 その一つが、此処に在るのか?)


あれから、山田は必死に坂上の心がズタズタに傷付いた原因を探してみた。 心の中と仮定した世界で、幼い少年のままに坂上は傷だらけだった。 そのなると、彼の心に負った無数の傷のうち、幾つかは幼年期から少年期に掛けてに負ったのではないかと推察してみたのだ。 そして、彼の幼年期から少年期の初めを知る由紀に出会った。 更に、この俯いた様子も何かが在ると思わされる。


「急に話さなくていい。 少し落ち着いてからでも構わないよ」


山田がそう場を和らげようというのだが・・。


由紀は、山田に向き。


「先生・・あ、いえ。 社長?」


「どっちでもいいよ」


「・・では、山田先生」


「はい、何でしょうか?」


「先生は、其処まで聞いてどうするおつもりなんですか?」


由紀の眼は、過去や心に何等かの重荷を背負い。 それを云いたくないと云う様子が現れていた。 正当な、納得するだけの理由が無ければ喋らないと云う雰囲気が・・。


「ん。 込み入った話だし、君も理由を知る権利は在るね。 実は・・、私も君のお父さんと似た能力が有る。 相手に触れると、心の内に出す声を聞けるんだ」


「あ・・え?」


驚く由紀の顔が、見る見る唖然と驚きの混じる様子に変わる。


だが、山田は続け。


「私の場合、実の弟が過去に自殺していてね。 精神的な要因から口を利けなくなった弟の心を知れなかった無念が、その力の解放に繋がったと思っている。 ま、私の事はいい。 問題は・・」


山田は、坂上の今の現状を語ろうとした。 いや、それが由紀の疑惑や疑心を払拭する一番の説明と思ったのだ。


だが、山田の語りを遮る様に、由紀は勢い良く席を立った。


ガタン・・。 動いたテーブルのその音に、山田も語りを遮られてしまう。


「う・・嘘でしょ? そそそ・・そんな事って・・だって・・え?」


由紀が独りで混乱を来たす。 その様子を覗う山田は、由紀の眼が自分に一点に向いているのが気に掛かった。


「安田君、落ち着いて。 さ、紅茶でも飲んで」


だが、由紀は山田に飛び掛る様に掴み掛かって来た。 胸を押される様に由紀に触れられた山田は、落ち着かせようと彼女の肩に触れる。


「ど・どうしたんだい?」


意味が解らず戸惑う山田へ、驚愕と云う顔に染まった由紀が・・。


「し・・・死ぬ前のお父さんの予言・・当った」


と。


一方で。


(お父さんっ、この人がそうなのっ?!!)


由紀の肩を触った山田の手から、由紀の心の声が伝わってくる。


「“お父さん、この人がそうなの”・・。 安田君、君のお父さんは・・・一体?」


由紀は、山田を見て目が離せなくなった。 自分の心の声を、彼が言ったからだ。 由紀は、心の中の疑惑や疑念を捨てた。


「先生、私の話を・・聞いて下さい。 もし、大樹君が大変な事に為ってるなら、助けられるのは先生だけです」


「ん?」


・・・。


話の切り出しは、大樹君に続いた苛めからだった。 その後、早くから大樹の持つ障害に気付いていた由紀の父親は、夫婦で夜遅くに大樹の母親から相談を受けていた・・と。 だが、大樹の父親と思われる人物が怒鳴り込んできた事から、大樹が預けられる日が激減したらしい。 そして、由紀と大樹が小学校に上がって、もう間も無く2年生に進級しようと云う時。 久しぶりに預けられた大樹は、感情と云うか表情を失いかけていた・・・。 由紀の父親は、大樹の内なる声に耳を傾け、その心を助けようとしたらしい。


だが・・、その治療の最中に由紀の父親は倒れた。 救急車で運ばれた病院で出た診断の結果、進行が止まっていた脳腫瘍がまた・・進み始めたと。


安田 由紀と山田の話し合いは、その後に2時間近くに亘って続いた。


話を聞き終え、坂上の今の現状を救って欲しいと由紀に言われた山田。


「はい・・、解ってます」


と、だけ返し。 彼女を返した。 由紀は、坂上が働いている店は独り暮らしをしている場所から遠くないので、人が足りないならそっちでも構わないと云ってくれた。 山田から聞く坂上の病状が、彼女も大変な局面になっていると解ったからだ。


坂上が昏睡状態に陥り。 3日は緩やかに過ぎたのに・・。 山田と由紀の出会いは、時と事態の歩みを加速させる。


その日の夕方、山田の携帯が鳴り。


「せっ、先生・・」


クリニックの方から、掃除と整理をしていた佐瀬看護士から連絡が来た。 坂上の母親が、山田に会いたいと云うのだ。 坂上の容態が、また自然死をしても可笑しくない。 丸で老衰の様な状態に成ったと・・。


山田は、直ぐに病院へ行くと返した。


夜、6時。


総合病院にタクシーで着いた山田を出迎えたのは、母親である。


「先生・・大樹が・・だ・大樹がっ」


狼狽する彼女を落ち着かせたい山田だったが、息子の死に立ち会うかも知れないと切迫した母親が落ち着ける訳が無かった。 とにかく、危篤の患者や、緊急搬送された患者の家族用に割り当てられた個室へと向かう事にした。


3畳の座れ座敷部屋になっている個室。 部屋の入り口の横に置かれた自動販売機で、何か飲むものをと温かいものを二つ買った山田。 部屋の中に入れば、小さいテレビが窓の隅に有り、内線の受話器が壁に在るだけの白い様相の個室。 山田が入るなり、母親は言った。


「先生っ・・、全ては私が悪いんですっ!!」


押し殺しながらも、迸る様な母親の声。


「話を聞きます。 一体・・どうしたと?」


「はい・・」


クシャクシャのハンカチを握る母親は、口早に語り始めた。


大手の会社の管理部に勤めた大樹の父親。 普通なら、母親が幼年期の彼を託児所に預けるなど変わった環境だと思えた。 だが・・、その回答は・・、山田がこれまでに知らされた事とは大きく違っていた。


母親は、元はホステスだった。 若い彼氏に入れあげ、その男が抱える借金の片棒を担がされる。 彼に捨てられ金に困った彼女は、一時だけと風俗に勤める。 そして、そこで知り合うのが大樹の父親だった。 熱心に、ファンの様に氏名してくれる父親と、彼女は仕事の関係を乗り越えてしまった訳だ。


「では、御結婚するまえに・・大樹君が出来てしまったと?」


「はい・・」


大樹の父親は、結婚はすると云った。 だが、まだポストに就く前の一番忙しい年頃で。 子供の面倒を看る時間が無いと・・。


母親は、借金の大半を肩代わりして貰うを条件にする形で、5年待った。 つまり、父親として家族が成り立ったのは、大樹が5歳を超えた後と云う事に成る。


山田は、そこで。


「もしかして・・、坂上クンの対人に於けるコミュニケーション能力の欠陥を、結婚するまでお知らせに為ってなかった・・と?」


母親は、何度も頷いた。


父親に為る男性も、傷害が有ると知って結婚に渋った。 つまり、父親はそうゆう事に理解が薄い人物だという事だ。 父親は、もう一人子供を産む事を条件に結婚。 確かに、大樹には一人弟が居て。 其方は、大学に通っていると云う。


坂上への虐めがエスカレートした経緯の一端は、一人で子育てした母親の周りに協力者が少なく。 安田 由紀の父親が相談相手に成っていた事が有る。 夜に、しかももう子供達が居なくなってから相談をしていた訳だ。 近所の主婦や預けにきていた同年代の母親が、その事を家で悪く変に言っていたのだろう。 子供達が真に受け、バカにする口実にしたのだ。


いじめっ子のグループは、坂上と関わり合う他の生徒全てを標的にした。 坂上が由紀を無視する切欠が、此処に在る。 小学校の生活の中で、先生との会話のやり取りですらよく変わった失敗をしてしまう坂上は、虐めるのにネタの尽かない相手だったと云えよう。


(四面楚歌・・。 逃げ場が無いじゃないか)

 

幼少期から苛めが有ったのだ、心がズタズタに傷付くのも理解が行くと思えた山田である。 幼い頃から、人を見て逃げる様な素振りが多かったと言う坂上の心は、既に傷だらけだったのだ。 


母親が山田へ最初に語った家族環境は、嘘だった。 坂上・・いや、大樹は最初から否定されていたのだ。 後に出来た弟を可愛がる父親は、大樹を頭の可笑しい病気の子としていた。 深酒の後は、寝ている彼を起こし、自分の不満を全て暴言としてぶつけた。 夜中に、大樹が応える話がかみ合わないと、父親は彼を外に追い出した事も在ると。


そして・・、更に母親は重大な事を隠していた。


実は、大樹の父親は・・亡くなっていると言う事だ。 突然の発作と云う事で、マンションの二階から階段を転がり落ちて救急車で運ばれ。 そのまま脳内出血で数日後に息を引き取った。 これが一般的に周りや、大樹の弟を始めとして親戚が知る経過である。


だが、事実は少し違う。


父親は、リストラの対象に入れられ、早期退職を促される。 その為に、その発作が襲ったと云う日は、実は昼間から酒を呑み酔っ払っていた。 不満が鬱積していた父親は、大樹に絡んでその鬱憤を晴らそうとする。 大声を上げて階段を上がった所で大樹を捕まえた父親は、大樹に絡んで掴みあいに成る。


父親が鬱積をしていたなら、大樹は幼い頃から鬱積しっ放しだ。 その怒りが、遂に爆発する様に大樹も反抗した。 大樹の心で何時も歯止めに成っていた母親と、弟の存在が偶々その場に無かったからだ。


大樹を軽んじて、酔い、老いも有るか。 幾つもの要因が重なり、父親の方が力負けし縺れて二人は階段へ。 だが、階段を転げ落ちたのは、父親だけだった。


酒を買いに行かされていた母親は、戻って見ると痙攣しながら怪我をした父親を見つける。


学校に行っていて不在の弟だから、母親は一人で転落したと救急車を呼んだ。 前日にも、遅く帰って廊下で転んだ父親は、一度頭を打っている。 狼狽したままに付き添う母親は、医師にも看護士にもその事を強調した。


山田は、漸く大樹が昏睡に至るまで自分を追い込もうとする理由が見えてきたと思う。


(そうか・・、過去の繰り返しだ。 彼は、松田クンが勘違いしたのを、自分の所為と思い込んだんだ。 しかも彼は、間接的に父親の死。 そして、安田君の父親の死に関与している。 それを知っているだけに、今回の事件で警察沙汰に成ってしまった事に深い自責の念を持ったのではないか? 彼が、自分を追い込む要因が暴力事件に有るとするなら、自分を追い込む要因はそれかも知れない)


山田は、再度に坂上 大樹の心を聞こうと決めた。 彼は生まれつきでマイナスを背負った。 確かに、彼を救おうとする余り、安田 由紀の父親は寿命を縮めたが。 それは、覚悟の裏返しであり、彼に責任が有る訳では無い。 況して、彼の父親の横暴や、周囲からいじめは彼の抱えられる負債でもない。


自分を追い込む坂上 大樹を見て、山田は自分の弟と姿を重ねた。 山田の弟は、実の父親に詰られ自殺に追い込まれた。 腹違いの弟は、坂上 大樹と似た傷害を持っていたのに。 父親に兄の自分と比べられて折檻や横暴を受けたのだ。 


(和彦・・、見てろ。 お前の二の舞は出さない)


山田は、全てを語って泣く母親を残し、一人立ち上がってICUへと向かったのであった。 












しかも、追い討ちとして。 母親がもう一人を作ると、父親は弟の方に愛情を注ぐ傾向が強くなった。 プレゼントなどの差別は当たり前で、兄の虐めで弟が傷付かない様にと、その入る幼稚園から学校も離れた場所と云う配慮がなされた。 そして、強引に兄を養護学校に入れて。


“大樹の事を言われたら、病気だからしょうがないと云え。 お前とは、大樹は関係ない”


と、・・。


山田の脳裏に、似たような事が思い出される。 成り上がりの長男として教育に厳格な山田の父親もまた、精神的な要因から口が利けない弟を差別した。 実の父親が、自分の子供に“口なし”と云うのだから、子供の居場所など極狭い範囲に押し込められる。


(和彦・・、お前を見ている様だ)


山田の弟もまた、生きる事に絶望して自殺した。 山田本人は、父親に反発しながら不良に近い素行であったが。 弟を護る為にも自分がしっかりしないと思いと、弟を特に見下す父親や親戚への反発から勉強はした。 一度も和彦を馬鹿にした事の無い山田だったし。 弟を外に出そうと夜遊びの場や、仲間とサッカーをやる場に連れて行った。 家から出る弟の和彦は、開放された様に笑顔だった。


だが、それも虚しく。


とある時、山田の家に父親の仕事仲間が集まった。 偶々トイレに部屋を出た和彦に、同じくトイレに向かった客の一人が話しかける。 酔っていた事もあるが、その客から掛けられた会話のニュアンスが読み取れなかった。 和彦が返した言葉に、客は怪訝な顔を残して去る。


その後、客から言われた話から、恥を掻かされたと思った父親。 和彦が暴言を言ったと、そう捉えて言葉の折檻をし始めた。 理屈っぽく知的に弱い者を理攻めにするなど、言葉で殴り倒しているのも同然である。


父親は、酒を飲むと意地悪さが剥き出しに為る傾向が有った。 前にも、客前に和彦を引きずり出し、何か面白い事を言えと見世物にしたり。 自分が解いたクイズを遣らせ、間違うと罵倒するなどした。 父親からしたら、和彦の様な子供が生まれる事事態に嫌悪を感じ。 また、自分の遺伝子が劣等と感じる様な、所謂ところの自分で自分の卑下の証明を見せられる様なを感覚を持たされると思い込んでいる。 和彦に対する不満は、次第に憎悪に変わり。 和彦の事を引け目に感じるのが嫌で、存在すら拒絶したくなるのだろう。


“死んでしまえっ!!!! 私の子供は、直勝だけで十分だっ!! お前を見ているだけで、いや。 居ると感じるだけで憎悪が湧くっ。 何で生まれた、何で私の子なのだっ!!!!!”


直勝がその日に居たら、父親を殴ってでも止めさせただろう。 林間学校など、直勝には必要の無い合宿だった。


戻った直勝は、首を括って自殺した弟の第一発見者と為る。


“和彦ぉぉぉぉぉぉぉーーーーーーっ!!!!!! どうしてっ、どうして俺を待てなかったっ!!!!!!”


床に寝かせた弟の遺体にしがみ付いて泣く山田に、弟・和彦の最後の声が送られた。


“ごめんなさい”


泣きじゃくり、怒り狂った山田は父親を警察に突き出した。 暴言の証拠など、酔った時に大声を上げるし、都度都度に他人にも見せているから揃うのが当然だった。


直勝の父親は、逃げの一手で精神鑑定を受ける。 だが、直勝はそれならばと、父親を気狂いとして成年被後見人に追い込んだ。 元より、母親が強い実権を持たない山田家で、父親が倒れた後は直勝が財産を引き継ぐのは当然だ。 母親を一時的な後見人にして、父親を施設へと送り込んだのである。 母方の一族には、彼を助けた弁護士が居て。 その見返りは、山田の持つ資産管理・運営会社の顧問として安住の地を得ているのだ。













どうも、騎龍です^^


友人に頼まれて書いた物語の原案ですが、最後まで書くかどうか迷ったままになってます。 もしかしたら、書くかも知れません。


ご愛読、有難うございます^人^

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