Code.8 (13)
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熱を帯びた空気が室内に淀み、カーテン越しの陽光が淡く机を照らしている。
扇風機の羽は低速で回り、微かな風が紙片をわずかにめくる。
…暑い。
夏の熱気を消し飛ばすのに、安物の扇風機では力不足だった。
机の端に放られていたエアコンのリモコンを拾う。
ボタンの押下と共に軽い電子音と気怠げな異音が鳴り響き、比較してやや寒々とした冷風が緩やかに巡り始めた。
作業を中断して扇風機のスイッチを切ると、身を起こした先、なんの前触れもなくそれは立っていた。
「…なに?」
白い女。
それを縁取る淡い光はその身を現世から浮かび上がらせているようだった。
…女神様。
酷く無感情に部屋の中央に立ち尽くし、顔だけをこっちにやっている。
「…ここ、私の部屋なんだけど。」
立ち尽くす女神様の顔の前で手を振る。
彼女はそれに対してなんのリアクションもせず、その顔面は私に固定されたままだった。
マジでなに?
私のSAN値がピンチじゃないってことは、これは本体じゃないってわけで。
コピー人形がなんかバグったりとか、おおかたそんなとこかな?
私がハーピーの時に殺したリトル五号の回収ついでになんか作業してくるって言ってたし。
んな事を考えていると、女神様の姿が変容した。
「…おぇ。」
口に裂けるような線が入ったかと思うと、下顎を残してそれ以降のパーツが180度開かれる。
完全に平坦になった女神様の頭部の真ん中に球のようなものが見えたかと思うと、それは急速に肥大化し、眼球の形を取った。
女神様の首の上に40cm強の眼球が乗っている図。
しかもその眼はさっきと同様私のことをロックオンして離さない。
「……なに」
こえぇ。
意図がわからない。
私も大概この1000年で魔術周りには詳しくなったつもりだったけど、女神様が毎度やってる術式は未だによくわからない。
そも、意識を本体から剥がして分体に移動させるってのがまず色々前提を無視してるし、それでいてSP値とかの主体を本体に残せてるのもよく分かんない。
魂は何処にあるわけ?
女神様の本体がすべての分体を動かしてるんだとしても、本体の情報処理は分体がやってるんでしょ?
主観がゴッチャになったりしないんだろうか。
そこらへん含めて人間業じゃねぇ。
…人間じゃないんだった。
一つ目女神様の周りをグルグル周りながらそんな事を考えていると、唐突に一つ目のロックオンが外れた。
?
{ミスった。}
一つ目女神様は一言呟き、何らエフェクトを残すこともなく電源を落とすように消滅した。
後にはなんの痕跡も残らなかった。
…何をどうミスしたらこんな事になる訳?
突っ込みたくなる心情を一旦抑え、ため息を吐いて机に戻る。
女神様のせいで中断されたままの作業が机の上にまだ残っていた。
…
feat.石田
巨大な白大理石の柱が並ぶ謁見の間に、重々しい空気が流れていた。王座に座すは、アドヴァンダル帝国の主。名をアウルス四世。その老いた顔には、長年この地を治めてきた者の苦悩と冷静が刻まれている。
石田は、彼の前にまっすぐ立っていた。背後には数名の天使と将軍たちが控え、場の緊迫を裏打ちしていた。
「…今のは?」
「女神でしょう。とはいえ意識があったようには見えない。制御を誤ったか、本体の意図とは異なる挙動を見せた可能性があります。」
「女神が誤作動を起こしたと?」
「女神はかつてこの世界を作った時より遥かに弱体化している。完全な存在ではもうなくなっているのです。」
「……あれが、敵か味方かも分からぬということか。」
「人類の思う完全な神が、我々の味方であるとするのならば、そうです。」
「……それでも戦うのか? 魔王と。女神と。神そのものが制御を誤る今、我々が向き合うのはもはや神罰ではないのか?」
アウルス四世の問いは、冷静だったが、どこか人間としての限界を問うようでもあった。
司祭はその重さを受け止めながら、静かに応じた。
「魔王と女神は、現時点で同一の陣営にあります。……それも明確な敵対の意思を以て、我々人類に向かおうとしています。」
謁見の間に、ざわめきが走った。背後の天使たちが互いに目を合わせ、将軍の一人が小さく息を呑んだのが、司祭の耳にも届いた。
「女神は我々を見捨てたのか?」
アウルスの声は、わずかに震えていた。
「……否、見捨てたというより、選ばなかったというべきでしょう。神はこの世界を永遠の循環に導く存在。人類という種がこの先に相応しくないと判断されたなら、そこに躊躇も慈悲もない。」
司祭は、王の目を真っ直ぐに見た。視線の交差が、謁見の間の空気をより張りつめさせている。
「魔王はその意思の代行者として動いている。女神の手が及ばぬ場所で、代わりに刈り取るために。」
「つまり、神と魔、両者が手を取り合い、この世界を清算しようとしていると?」
「あくまで、彼らにとっての正しい世界のために。……人類の存在は、その計画の障害と見なされているのです。」
アウルスはゆっくりと玉座に身を預け、重々しい沈黙が流れた。
「では、我らは……神に抗うというのか?」
「抗います。」
司祭の声は、静かにして揺るがなかった。
「神に抗い、魔に抗い、この世界を人類の手に取り戻す。私はそのためにここにいる。」
「……神を、討てると?」
「討てます。いや…討たねばなりません。」
一瞬、王の眼光が鋭くなった。老いた獅子が、獲物を睨むときのように。
「……そのために、貴様は力を追い求めているのか。神の力を模し、人を進化させるという噂……まことか?」
「ええ。Code.1の力を。我々が神に抗うために必要な鍵です。」
「……。」
アウルスは目を伏せ、静かに呟いた。
「神の加護を捨て、神に牙を剥く。……人類が、かつてここまで驕ったことがあっただろうか。」
「驕りではありません。必然です。もし、我々が何もせず、信仰の名のもとに滅びを受け入れるのなら……それは、ただの自殺です。」
アウルス四世はしばらく沈黙したのち、ようやく小さく頷いた。
「よかろう……我が名において、この国は貴様に協力しよう。だが司祭よ。」
「……」
「この戦いに、もしも人類が敗れたとき――貴様を神と魔に差し出すことをもって、我らの最後の祈りとさせてもらう。それが、帝王としての責任だ。」
耳の奥に反響し続けるかのようなアウルスの声が司祭の芯に染み込んだ。
ほんの一瞬硬直したのち、司祭は一礼し、静かにその場を去った。




