過去編 第二章 根室妃奈の場合
注意。
この話には家庭内暴力描写、胸糞描写が含まれます。
苦手な方は閲覧を御控えください。
「この愚図!」
左頬に衝撃が走る。
勢いそのままに私の体は吹き飛ばされ、壁に当たってズルズル倒れ込んだ。
鼻から生暖かい血液が垂れる。
左頬に残るひりつくような痛みと、壁と私の体に挟まれた右肩が鈍く悲鳴を上げる。
放り出され、床に散らばった白米が視界の端に映る。
肉体のピークは17、8歳とはいうけど、成人済みの男に張り飛ばされれば女子高生なんてこんなもんだ。
「ッチ…なぁ!起きろよなぁ!グズグズぶっ倒れてんじゃねぇぞ!」
「オゴッ」
父親の蹴りが容赦なく私の腹に突き刺さる。
内臓が抉られるような感覚と、腹の奥に残る気持ち悪さで私の体は嘔吐反応を示した。
「ウグ…ゥエエ」
「汚ねぇ!」
えずく私にさらにイラついた様子の父親が私の背中を踏みつける。
痛みに悲鳴をあげるも、それは父親にとってカンフル剤にしかならなかったようだった。
「オラッ!テメェのせいで!テメェのせいで!」
「ごめんなさい…ごめんなさい…許してください…」
「コレ食えよお前ホラ!」
「う…う」
「残すな!」
地面に落ちた残飯と吐瀉物のところに蹴り飛ばされる。
頭を踏みつけられ、それを啜った。
苦くて、酸っぱくて、生暖かい舌触りだった。
「クソッ汚ねえんだよ!」
「ごめんなさい…ぅ…ごめんなさい…」
私の謝罪に父親は気にした様子もなくその後数分間暴行は続いた。
「チッ…片付けとけよコレ!」
「はい…すみません…でした。」
土下座する私をひと蹴りし、父親はリビングから出ていった。
後には私の吐瀉物と残飯で汚れた床と酸っぱい匂いだけが残されていた。
口と手と髪についた汚れをダイニングで落とす。
冷たい水の不快感は、ここ最近お湯の使用を禁じられた私にとっては慣れっこだった。
雑巾で濡れた髪を拭き、ついでにそれも濡らして水を切る。
床の汚れを拭くためだった。
…母親がどこぞの男と出ていったのがつい先月。
元々父親は昔から暴力的な人間だった。
基本躾はビンタか蹴りを伴っていたし、それは母親に対しても同様だった。
今の時代にそぐわない亭主関白的な主義の父親の暴力性は、酒が入るとさらに加速した。
投げられる者は多種多様だった。
フォーク、茶碗、コップ、炊飯器に椅子。
父親は酒が入り、気に入らないことがあればそのストレスを遺憾なく私たちに発揮した。
共通の敵がいればそれらは互いに助け合えるとかいう法則があるようだが、それは私たち母娘には適用されなかった。
母親は私を庇うどころか積極的に父親に売り渡した。
が、結局母も私もあの暴力から逃げることはできなかった。
結果母はホストにハマり出し、つい先月そのうちの一人と出ていった。
結果として、私への暴力の密度は倍となった。
床を拭こうと俯くと、鼻血がさらに垂れてきた。
慌てて上を向く。
喉の奥を伝って食道に垂れていくのを感じた。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
ティッシュを丸め、鼻に詰めた。
気持ち悪い。
…
朝が来た。
ベッドから起き上がり、支度をする。
頬には湿布を貼った。
制服に着替えて階段を降りると、リビングで父親が酒に囲まれて寝ていた。
汚らしいイビキが響いている。
どうやら昨晩も深酒をしていたようだった。
起こさないようリビングを回り込み、父親用の朝食を作っておく。
あまり音を立てたくはないが、目玉焼きを作っておかないと帰った後の暴力がひどくなる。
私は父親は起きないよう祈りながら朝食を作った。
私の分はない。
コンビニで済ませる予定だ。
一刻も早くこの家から立ち去りたかった。
玄関を出、鍵を閉めようとして、躊躇する。
いつもの葛藤だった。
もしこのまま鍵を閉めずに学校に行って、その間に強盗でも空き巣でも入ってくれたらあれを殺してくれるんじゃないか。
でも、もし何もなかったら?
昼頃に目を覚ました父親が玄関の鍵が閉まってないことに気づいたら?
手が震える。
いつもの事だ。
私は鍵を差し込み右に回した。
ロックの音が聞こえた。
家が、憎らしく思えた。
…
学校に着く。
私のクラスは3階の階段から数えて2つ目のクラスだった。
教室はガヤガヤと騒がしい。
いろんな人がそれぞれのグループを作って会話している。
何の不安も心配もない様な気楽な様子。
羨ましい。
前髪を垂れさせて、俯いて息を潜める。
私はここにはいないから。
誰も関わってほしくなかった。
私の席は運の悪いことに教室のど真ん中の場所だった。
カバンを下ろし、椅子に座る。
同時に、隣から声が発せられた。
「あ、おはよう。」
!
目だけを動かして声の主を見ると、そこにいたのはクラスの男子だった。
名前は…西原…だった気がする。
どういう風の吹きまわしだろうか。
今まで私に挨拶してきたことあったっけ?
しばらく沈黙して、私の頭はパンクした。
結果としていつも通りの動きを体はトレースし、最終的に西原を無視する形で席に座ることになってしまった。
西原は挨拶をした状態でしばらく固まり、やがて気恥ずかしそうに座り直し、数学のテキストを開いた。
ごめんなさい。
私は心の中で謝った。
その言葉に一瞬昨日がフラッシュバックした。
…
帰路につく。
私は部活に入っていない。
中学生までは吹奏楽部をやってたけど、それももう昔の話だった。
トロンボーンは父親の武器にしかならなかった。
午後3時36分。
いつも通りの時間。
昨日との時間差は5分もない。
問題ない。
問題ない。
玄関の前に辿り着く。
鍵を差し込む。
左に回す。
手応えがある。
ドアはロックされてる。
大丈夫。
私は大丈夫。
ドアを開けた。
寝てる?
起きてる?
父親を刺激しないように。
そっとドアを閉める。
と。
リビングのドアが開いた。
「帰ったらただいまと言え!」
拳が腹に突き刺さった。
…
今日も学校に行く。
行かなかったら逃げられないから。
右手の包帯をさする
玄関のドアの前に立つ。
目玉焼きは作った。
ガスは…大丈夫。
ガス…
鍵が右に回った。
…
玄関の前に立つ。
午前7時30分
手が震える。
爪が剥がれた足の小指が痛い。
明日やろう。
大丈夫。
鍵が右に回った。
…
今日は目玉焼きを作らない。
コンロのつまみを少しだけ開ける。
元栓は開いてる。
空気の抜ける様な音がして、嫌な匂いが漏れ出した。
リビングで父親はイビキをかいて寝ている。
大丈夫。
起きないから。
帰ったらきっと。
玄関を出た。
鍵を右に回した。
今日は家が憎たらしく感じなかった。
…
帰路についた。
足が震える。
心臓が激しく暴れる。
大丈夫。
父親は昼まで起きない。
もうきっと大丈夫。
玄関の前に辿り着く。
鍵を左に回した。
手応えがなかった。
途端、息が苦しくなる。
次の瞬間、勝手に扉が開いた。
半裸の父親が、満面の笑みでドアを開けていた。
「おかえり、妃奈。」
「た…ただいま帰りました。」
肩を掴まれ、家に連れ込まれた。




