過去編 第三章 増井吾郎、小崎梓の場合 ③
薄寒い夜風とその中に混じる煙気に増井は微睡の中気づいた。
眠い目を擦る。
重めの布団が体にかぶさっている。
未だはっきりとしない意識の中、増井は普段の慣習に従ってメガネとコップ一杯の水を探しに手を彷徨わせた。
しばらく周囲を弄ったところで人差し指がいつもの丸メガネのフレームに触れる。
メガネをかけた。
視力0.02のボヤけた世界が縁取られた空間だけ鮮明に映る。
補正された視界が増井の意識を覚醒に向かわせた。
あたりを見回す。
そこは勝手知ったる自室ではなく、どこかのホテルの一室のような空間だった。
白いシーツに包まれた自分の体が視界の下に映る。
ウォールライトがオレンジの暖光を放っていた。
「あ、起きました?」
状況が把握できず、周りをキョロキョロ見る増井にかけられる女の声。
その方向に目線をやると、そこにはベランダに身をもたれ掛けさせた小崎がタバコを咥えながら立っていた。
…。
まだ太陽よりも月の方の主張が激しい明朝。
若干白み出した空をバックに小崎が極めてラフな格好でタバコの煙を燻らせていた。
増井は体にかかったシーツを剥がし、ベッドから降りると窓際に置かれたソファに座って言った。
「お前…タバコキャラだっけ…?」
「寝ぼけてるんですかー?」
小崎が半眼になり、増井の頭を軽く小突く。
「いて…なにすんだよ。」
「タバコくらい許してくださいよ。…あんなことされちゃったあとなんですし。」
「…誤解を生む話し方だな…まぁ、わからんくも無いが…。」
増井は頭をガシガシ掻きながら小崎に返す。
二人して…主には小崎だったが、石田に詰め寄り、これまで起こったことと、そしてそれからどうするのかを石田に聞いたのが昨夜。
半信半疑だった二人だが、石田はすぐにその疑念を払拭した。
石田は、二人の前で魔術を使ったのだ。
それも二人のほぼ全てを根本的に変える魔術を。
「なんてったって、“天使”だもんなぁ…。」
頭で望めば、いつでもその情報が脳内に映し出される。
水色のステータスウィンドウには、『天使』と『Code.10』の二つの単語が記されていた。
が、今は両方とも灰色になっている。
「望んだのは私たちですけどね。」
全てを話し終えた石田は、おもむろに指を振り、増井と小崎に魔術をかけた。
そう言った才覚は全くもってなかった増井であったが、何か得体の知れないことをされたと言う事実だけは理解できた。
「君たちに“天使”の称号を付与した…。これでシステム稼働時の地獄を見ることは無いだろう。」
石田が言うには、この称号はシステムによる制約や魂への縛りを緩める効果があるとのことだった。
天使の称号はゆっくりと増井の体に馴染んでいき、それらは血となり肉となり、細胞一つ一つに至るまで染み込んでいくのを感じた。
なるほど確かに、明らかに人間の理解の範疇を超えた現象が起こっているのだろうことが増井には理解できた。
「今日はもう遅いから泊まっていくといい。システムの稼働は4年後だから、それまでに崩壊後の備えをしておくべきだ。まあ、今日はゆっくりと休みたまえ。」
石田が、奥の部屋を指差しながら言った。
その言葉は、言外に二人にこの事案から手を引けと言っていた。
「「…所長。」」
しばらく魔術の掛けられた手を見ていた小崎と、事実を飲み込み、決意を固めた増井の声が重なった。
思わず小崎と目が合う。
増井はその瞬間彼女の考えと自身の考えが一致していることを悟った。
「なんだい?」
石田が不思議そうに見つめてくる。
「私達を、もう一度研究室に入れてもらえないでしょうか。」
「私たちに所長のサポートをさせてください。」
増井と小崎は石田に訴えかける。
二人は話を聞き、魔術の存在を察したその時点でこの事柄から手を引くつもりはなかった。
研究者としての好奇心だけでなく、ただ純粋に石田一人にこの責任を負わせるべきでは無いと思っていた。
石田はしばらく目を瞬かせ、何かを言おうとしていたが、その言葉が思いつかなかったのか、二人の助手ができることの利点が算出されたのか、それが石田の口から発せられることはなかった。
「わかった…君たちを喜んで歓迎しよう。かなり長い戦いになると思うが、それでもついてきてくれるか?」
「はい。」
「もちろん。」
「そうか…それでは、君たちにはもう一つの力を与えなければならないな…。」
「え?」
「へ?」
増井と小崎の返事に少し安心したような笑顔になった石田は、突然二人の手を取った。
状況が全く理解できていない二人に向かい、石田は再度魔術を行使した。
…。
どうやら、Code.10には天使と違い、システムそのものにある程度干渉できる権能が付与されているらしい。
が、しかしそれは仮にも神の権能の一部。
許容値を大幅に超えた権能に魂が適応するには相応の代償が伴う。
石田に魔術をかけられた瞬間、増井は体の内側が爆発するような感覚と脳が締め付けられるような激痛の中失神したのだった。
「タバコ、すいます?」
小崎が箱を増井に向ける。
増井はそれを丁重に押し戻した。
「吸わない主義なんだ。」
「…そですか。」
小崎は押し戻されたそれを懐にしまい、口に咥えてたものを灰皿に押し付けた。
「…暇だし、テレビでもみるか。」
「今の時間帯テレビショッピング以外やってるんですか?」
「しらね。」
増井はテレビの電源ボタンを押した。
…。
しばらくして、ノックの音が部屋に響いた。
「調子はどうかな。」
部屋に入ってきたのは石田だった。
「まあまあです。」
「同じく…。」
「そうか、それは良かった。」
石田はにこりと笑うと、次いで二人に話した。
「増井君と小崎君にはやってもらいたい仕事がある。」
「はい。」
ソファに座っていた二人は石田に向き直る。
石田は指を立てて言った。
「君たちには、今から渡す名簿の人間をここに連れてきて欲しい。」




