250 vs怪生物
若干の酸素と血の入り混じった空気を内包した白い粒々が煙幕の如く私の周囲を取り囲む。
視界は拉致された深度に応じて暗澹とし、水圧が圧迫感を伴う焦燥を駆り立てた。
手足をバタつかせなんとか水龍の口からは脱したものの、それは私の抵抗が功を奏したわけではなく、只水龍が気まぐれに一瞬だけ私を解放しただけにすぎないことを知っていた。
クソが。
私は心の中で悪態をついた。
準備は完璧だった筈だ。
できる限り階層内の敵は狩り尽くしたし、最善の努力と万端の能力を揃えてきた筈だった。
それが今やボロボロの状態で水中に沈んでいる。
揃えたスキルは大したダメージを与えられず、魔法でさえ水の前にはほとんど無力だった。
このままじゃとっておきの切り札の準備が完了するまで生きながらえられるかも怪しい。
洗脳した魔物達を全面的に投入すれば楽になるにしても、それはもはや敗北と差して変わらない。
そもそもの目標が達成できなければ今後もっとピンチに陥った時にどう対処すればいいのか。
命あっての物種ってのは私の座右の銘だけれど、己の無力さを噛み締めながら生きる生に実感なんてありゃしない。
爆音。
鼓膜付近まで入り込んだ水によってくぐもり不明瞭になってもなお、凄まじい音圧が私を否応なしにびくつかせる。
瞬間、私の右腕が飛んだ。
より激しい泡を立て、赤い不定形な血が水に混じる。
激痛と共に脳の一部が一気に冷め切った。
脳を振る。
悲壮感と不快感が心の奥底に静かに沈んでいった。
沸々と苛立ちが込み上げてくる。
とりあえず反省も後悔も後回しだ。
腹立たしいあの魚もどきを制してから先のことは考えよう。
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
腕が泡立って瞬間的に復活する。
HPはさっきの一瞬でほとんど回復していた。
再度爆音が鳴る。
今度はしっかりと音の発生源を知覚できていた。
湖の外周。
高速で移動する水龍が湖の中心で取り残された私に向けて水の刃の様なものを飛ばしていた。
横腹がざっくりと切り付けられた。
周囲の水のピンク色がより深まる。
爆音爆音爆音爆音爆音爆音
水龍は自らのテリトリーに入ったことでその力を十全に発揮していた。
それはまさに文字通り縦横無尽に駆け回り、無邪気に即死攻撃を振り撒いていた。
肌は一瞬で切り裂かれ、防御もほとんど間に合わぬまま体のあちらこちらが欠損する。
切れた隙から治してもなおそれを上回る速度で体は達磨と化す。
不味い。
上を見やる。
赤く染まっていることもあり水中は極めて不明瞭ではあったが、それでも周りの暗さと揺れる水面の遠さから即座に浮上できるほどの距離に私が存在しないことは即座に察せられた。
このままじゃジリ貧だ。
HPは継続的に減っていく。
酸素ももうすぐなくなり、死ぬ以前に魔女っ子の脳が停止する。
…そうなる前に、足掻く。
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
{固有スキル「変異Lv.6」が発動しました。}
{固有スキル「変異Lv.6」が発動…
全身が爆裂する。
それは正に肉の洪水だった。
魔女っ子の体を中心として、紅い肉塊が湖面を覆う。
大質量の赤が水を押し出し、湖の水位を上昇させた。
数多の目が、腕が、足が、口が、頭が、胴体が、肉の中に雑多に放り込まれ、それぞれが意味のない電気信号に応じて不規則に、高速で動き回っている。
指は水をつかんでは握り、足は水を蹴り、口は水を噛み砕こうとした。
あまりににくにくしいそれはあらゆる不快な音を奏でながら変容した。
血管に覆われた幾つもの目が水龍を凝視する。
死をもたらすその眼差しは、水龍の防御を幾らか貫通し、その口内に血の味を与えた。
水龍は再度咆哮し、威圧と威厳を持って目の前に現れた魔なる物を排除せんと最強たるブレスを充填し始めた。
{固有スキル「猛毒刃Lv.15」を発動しました。}
{固有スキル「猛毒Lv.15」を発動しました。}
肉塊が変容する。
不規則に無制限に膨張していくかに見えたそれは突如として圧縮を開始した。
いくつかの腕や骨が肉の圧力により砕け、目が潰れる嫌な音が振動となって水中に広がった。
やがてそれは一つの巨大な腕と化した。
手のひらはなく、代わりに巨大な一本の刃が先端に生えていた。
肉肉しい、有機的な毒の刃は水を紫で汚染しながら、水龍にその矛先を向けた。
{希少スキル「触手超推進Lv.10」を発動しました。}
刃は、急激な加速を持って水龍に突撃した。
と同時に水龍はブレスの充填を完了した。
{固有スキル「水龍Lv.10」の発動を完了しました。}
滅裂な衝撃が起こった。
…。
少女の体は殆ど完全に打ちのめされていた。
龍の全てを尽くした攻撃を凝集した触手群は受け止め切れなかった。
水龍は脳内を駆け巡る暴力的な衝動がなりを顰めるのを待った。
この身に溢れる衝動に身を任せ目の前の生物を引き裂いてしまうのはあまりに勿体無い。
この忌々しい怪生物をただの一撃で殺してしまっては水龍の中に燻る埃を傷つけられた事への怒りは発散し切れなくなるだろう。
先程まで多量の傷を負ってはすぐに回復をして見せていたさすがの怪生物も水龍のブレスを食らったあとでは身動きも取れないらしいい。
妙な方向に体を捻らせたまま動かない怪生物を見て、水龍はこの生物の処遇を考えた。
最も、常に妙な形をしているこの生物の正しい在り方など水龍は知らなかったのだが。
若干の小休憩ののち、水龍の体は再度攻撃ができるほどにまで回復した。
まずは水で拘束し、苦しめてから散々痛ぶってやろう。
野生的な残虐性を持って目の前の怪生物に近づく水龍。
先程決着がついてから数分の時間が過ぎていたが、怪生物には特に変化はなかった。…様に見えた。
正確には、変化はあった。
水龍がそれに近づいた瞬間、怪生物の身体が激しく痙攣し出した。
背中から突き出た触手は激しく蠢き、口はない空気を吸おうと水を吸い込み、腕は宙を掻きむしった。
そして、それが鳴りを潜めると、今度は魔力が怪生物の体から大量に吸い出され始めた。
それは最強種の水龍をしても膨大な量であり、瀕死の怪生物にはそれ自体が致命傷になる様な量であった。
しかし、否応なく怪生物の元からは魔力が吸い上げられ、それは痙攣の停止と共に終了した。
一瞬事切れたかの様に見えた怪生物は未だ震えの残る指を振るい、何かを呟いた。
「地獄に堕ちろ」
瞬間、怪生物の姿はかき消えた。
まるでそこには元から何もなかったかの様に。
消えた空間を埋めるように水が周囲から寄り集まったことだけが怪生物がそこにいた証拠だった。
人の言葉がわからない水龍は怪生物が最後に何を呟いたのか理解できなかったが、それはもはやどうでも良かった。
怪生物の消滅は明らかな異常であったが、それすらも水龍にとってはもはやどうでもいい事象であった。
体の芯が冷え切る感覚を水龍は生まれて初めて抱いた。
それは熱く、冷たく、鋭い。
これは恐怖だった。
水龍は水中から天井を見やった。
赤く赤熱し、融解し出した岩の天井は、ずっとそれを隠し続けていた岩の防御壁は、今その役目を終え、この世に顕現しようとしている悪魔の子を、産み落とさんとしている邪神の姿を露わにし始めていた。
そこから感じる熱風は、未だ前段階であり、水を乾かすその烈風はこれから始まる獄閻の予兆でしかなかった。
逃げ場は無い。
湖はそれを受け止め切れない。
死は突然にして絶対だった。
心臓が止まる以前に圧倒的な熱が全てを焼き尽くす様を幻視した。
そしてそれは、これから訪れるであろう確かな未来だった。
{超希少スキル「獄炎魔法Lv.5」ガ発動シマシタ…
天井から降り注ぐその声は地獄の門の先から聞こえているかの様だった。
数瞬。
一瞬の狭間。
天井が赤く光をたたえ、今正に生まれんとする悪魔の化身を照らし出すその瞬間。
水龍は何かを察し、そして
獄炎が全てを焼き尽くした。




