第八章 8
吹田栞です。8章です。よろしくお願いします。
「え」
栞は、出会ってから六日しか経っていない僕のことを、最愛の恋人のように僕を固く抱きしめた。彼女の美貌、知性、人間性を考えたら、そんな行動は自分なんかには釣り合わないと考えてしまう。
それより、こういう時は抱きしめ返せばいいのだろうか。栞のように、ぎゅっと?それとも、優しく、そっと?
というか、なぜ僕は抱きしめられている......?
背中まで届いていた栞の腕は、気づいたら解かれていた。僕は、先程まで栞の腕を触ることさえ躊躇していたのに、さっきは確かに、抱きしめられていた。本当に抱きしめられていた?いや、本当だ。普段は感じない、女性特有の甘い香りを、複数の鼓動。頭の中は、目の前の美しくも不思議な女性のことで、いっぱいになってしまった。
「大丈夫? すごく顔真っ赤だよ?」
「え、あっ」
僕はわかりやすく動揺する。口が裂けても、あなたのことしか考えられません、などと言えない。
「ふふ、かわいい。 さっきはありがとね?」
栞は、自分のお腹をさすりながらそう言った。
「あ、うん」
「それに......急にぎゅーってしてごめんね?」
僕は何も言えなくて、ただ首を横に振るだけだった。
「なんだか......安心したらおなかすいてきちゃった!」
「......え?」
「せっかく広島来たんだからさ、お好み焼き食べようよ! ちゃんと調べてきた有名店! 行きたくない?」
「あ......行きたい、すごく」
「そうだよね! んじゃれっつごー!」
栞は威勢よく叫んだ割には、すぐに地図を見て経路を確認する几帳面さを見せた。僕はそんな栞を見ながら、考え事をしていた。
この女の子は、いわゆる魔性の女、というたぐいの女性なんだろうか。この女の子とまだ一日、いや半日も過ごしていない。それなのに、普通じゃ考えられないほどの近すぎる距離感、分かりやすい喜怒哀楽の感情と表情、そしてこの美貌。僕はこれから、三日も栞とこの旅行を過ごすことになる。僕は、一つの仮定を立てておきながら、自らの背筋を凍らせた。
僕は、この女のカモにされてしまう。
最初からおかしいと思っていたんだ。でも、その可能性は最初から排除していた。いや、むしろ大胆すぎるという理由で排除して”しまった。” やられた。最初からこの女の掌の上だったのか。
でも、それならこんな入り組んだ計画を立てて実行するんだろうか。いや、だからこそ疑われにくいんだ。でも、彼女は親戚で僕に悪いことはできないはずだ。いや、それさえも......
僕ば相も変わらず栞のことで頭がいっぱいだった。僕の半分が彼女を魔性の女と決定づけて、もう半分がそれを食い止める。文字通りの半信半疑。僕の天秤は、簡単にぐらぐら揺れ動いてしまっていて、むしろ倒れないのが不思議なくらいだった。
「考え事?」
張本人が、僕の頭の中のことなんて関係なしに話しかけてくる。僕は君のことで、今大変なんだ。でも、そんなこと言うほど、僕は子どもじゃない。
「ううん、大丈夫」
「心配ご無用、だよ! すっごく美味しいから楽しみにしててね!」
彼女は今日一番の笑顔を僕に見せる。その無邪気さは、僕の必死な議論を、くだらないものとして一蹴した。
今が楽しければ、それでいいじゃん。
叔父さんの口癖を思い出す。きっと、叔父さんも僕の立場ならそう言う。絶対言う。難しいことを考えるのは、きっと今じゃない。それに、カモにされるのも、いや、それはちょっと良くないけど。
「よし、じゃあ美味しくなかったら全部栞のおごりね」
「じゃあ美味しかったら?」
「なんでも一つ言うこと聞いてあげよう」
「いいの? 私、結構そういうの躊躇ないよ?」
「どうかな? 結構僕の舌は肥えているほうだと思うけど?」
「そうなの? 私結構何でも美味しいと思っちゃうんだよね」
「おこちゃまだな」
「何回食べてもシャトーブリアンとカルビの区別が付かなくてさ」
「悪かった」
このお転婆娘が一流のお嬢様であることを完全に忘れていた僕は、ただただ恥をかいてしまった。一般庶民がでしゃばる場面ではなかったことを反省した。
「というか、タクシー乗ればいいのか、そろそろ歩くか!」
地図の世界で目的地を探すことに飽きた栞は、地図のアプリを閉じて近くにタクシーを探すことに決めたようだ。僕はいろんなことが起きすぎて、まだ原爆ドームの敷地内にいることを忘れていて、今さらながら騒がしくして申し訳なくなった。
すると、栞はいきなり立ち上がり、先程涙を流した場所の方向へ、神妙そうに一礼した。僕も見習って一礼した。僕は、やっぱり最初からこの子を疑ってはいなかった。そして僕らは近くのタクシー乗り場へと移動した。
タクシーに乗っている時間は、ずっと栞と話していたから一瞬のように感じた。二人だけの世界のように笑っていたら、運転手がやっと話しかけてきた。周辺の風土についてでも教えてくれるのかと思っていたら、ただの料金請求で、いきなり現実世界に引き戻されてしまった。さすがにタクシーの料金は僕が払った。
タクシーから降りると、目の前に現れるは、大きな雑居ビル。高所恐怖症の僕はビルを見上げるだけでも頭をくらくらさせてしまう。ビルは赤を主体とした光る看板に包まれて、このビルが世界の中心だと勘違いしてるのかと疑うほど、光り輝いていた。
「ほらほら、行くよ!」
栞は僕の手を引いてビルへと入っていく。ビルのエレベーターに入るまで、栞の手は解かれることはなかった。先程の発言で、栞はまた更に僕との距離を詰めてきた。一体、どこで覚えてきたんだろうか。そんな単純な疑問も、青のりと鰹節を携えた魅惑のお好み焼きの前では無視できるくらい小さくて、目的地の七階までに通過する階数のランプが点灯するのを一、二、三と見守った。
目的地に到着すると、さすが有名店、ごはん時ということもあって満席状態だった。
「申し訳ありません、現在かなり混雑していまして、二時間半ほどお待ちいただけますでしょうか?」
「大丈夫です!」
栞は、僕の意見も聞かずに長丁場の待機を選択した。驚いたのは、そんな栞の無礼さでなく、僕も同じ意見だったからだ。
「いいでしょ? それに二時間半なんてあっという間じゃない?」
「まぁそうかもね」
僕と栞は、まだ会って本当に日も浅い。だけど、こんなに話していて楽しい人はこれまで一人としていない。こう思っていたのは僕だけだと思うけど、今まで会えなかった十七年間を埋め合わせるかのように、僕らは二時間半を過ごした。