第六章 6
バスが目的地に到着すると、まだ僕らが降車していないのに、異国の地に着いたような不思議な感覚があった。ここだけ空気の密度が少し大きくて、どんよりとしていた。別に郊外に来たわけでもないし、むしろすぐ近くにさっきまでいた街が広がっている。
でも、その街とは何十キロ、何百キロの距離が隔てられていて、この場所がほかの場所とは一線を画していると瞬時に分かった。街全体がこの場所に敬意を払っている。
「行こうか」
麦わら帽子をカバンにしまいながら栞がそう言った。僕は無言でうなづき、栞と資料館の中へ入った。
資料館の中はその周辺よりも異質なものだった。先程よりもずっとどんよりしている。空気は地球上のものとは思えないほど重苦しく、夏なのに、いやに涼しい。それは外気やクーラーなどによるものではなく、体の外側でなく芯がじわじわ冷えていくような感覚。夏の夜に怪談を聞いた時と同じ、でもそんなのよりずっと冷えていく。
僕の目の前に広がるのは、かつて見たことのないほどの地獄。今現在に起きてなくても、それは三世代ほど前に実際にあった地獄。
突然空から降ってきた奇妙な爆弾によって、文字通り跡形も消えて無くなった人のいた痕跡。
地獄の開始時刻を永遠に伝え続ける時計。
両腕をなくした人間。
全身に大やけどを負った人間。
人間。
溶けた人間。
レンズの奥の僕たちを見つめるような子ども。
死んだ弟を焼くために、弟を担いで火葬場に並ぶ、僕より一回り小さいであろう男の子。
四方八方に現れる地獄を前にして、僕はこの場所から逃げ出してしまいたいとさえ思った。直視することさえままならず、周りに書いてある説明などをただ読んでいた。今まで知っていた気でいた惨劇。自分はまだ何も知らなかった。そして、いざこのような場では知ろうとすることもままならなかった。
だが隣にいた栞は、そんなそぶりを一切見せなかった。栞はただじっと、地獄を見つめていた。話しかけるのをためらってしまうほど、彼女は目の前に広がる地獄に寄り添っていた。僕は僕が情けなく恥ずかしくなって、また直視した。
今、もしこの場に原爆が投下されたら。僕と栞は跡形もなく消え去るだろう。僕らだけでない。この資料館も、見学客も、すぐ近くの町の人も。たぶん一秒で、大きく世界の形が変わってしまう。
それなのに、一生かけても償えないくせに世界は見せかけの反省をして、一礼するだけですべて許されたと思い込む。そして僕らのために全世界の人々が手を合わせ祈りをささげるんだろう。
僕だったら絶対そんなの嫌だ。僕がどうこうできないものに殺されて、それが運命だなんて言われるのは本当に不本意で腹が立つ。普段考えないような非現実のようで、否定できない空想を頭の中に描いた。
じゃあ、もし今自分で死を選んだら?
きっと同じようにはならないだろう。僕の周りの人々が余計な詮索をする程度で、一生悲しんでくれるのはきっと母親くらいだ。原爆で死ぬのは嫌だが、自殺はもっといやだ。きっと僕のことは誰も気にしていない。なんだが、死にランクがついているようで嫌になったし、そう考えた自分が本当に嫌いになりそうだった。
死。命が生まれた以上、未来永劫避けられない運命。
死を避けることは、物を作ってそれ以上に壊してぐちゃぐちゃにするのが大好きな人間にも、きっと叶わない夢。きっと叶えてはいけない夢。でもきっとかなえようとしている人間は大勢いて、倫理観とかを踏みにじみながら進んでいく。人間は自身が大したことない、と口では言っていても、心の奥底では人間は自然さえコントロールしようと、神様たちに反逆する。本当に情けない。
でも、僕も死ぬ間際には死なないことを望むんだろう。汚いエゴが、きれいごとで固められた僕を丸々飲み込む感覚に襲われた。
資料館では、ただひたすらに死を意識した。普段身近に感じないけど、今なら確かに隣に感じられる死。ここにいる人みんなも感じているだろう。誰かの都合だけで、死の運命を無理やり受け止めさせられた人々が、確かにいる。それを微弱ながら感じ取るだけでも、命を大切に、惨劇を繰り返しまいと心に誓うことができる。本当に来てよかった。栞が言わなかったら、もしかしたら一生来ることのなかった場所かもしれない。いや、修学旅行では来るかもしれないけど、こんな気持ちには絶対ならなかった。感謝の気持ちを伝えるべきだと、改めて思った。
ふと隣を見る。栞は先程と同じように、じっと資料を見つめていた。
涙を流していた。
その涙はこれまで見たことないくらいにきれいで、表情は泣いてると思えないほど澄んでいた。涙が目からあふれ、頬を伝って触覚を刺激しても、僕がその様子を心配そうに見つめていたとしても、栞は涙を拭こうともしなかった。まるで、泣いていることに気づいていないのは、世界で栞だけじゃないかとさえ思うほどであった。そしてその姿は不謹慎ながら本当に美しかった。人の泣き顔を見てそんなこと思ったのはそれが初めてだった。それからすぐに栞は僕に気づいて、自分の状況を理解した。
「ごめん」
栞はそう言って、あふれた涙を拭おうとした。美しかった泣き顔を見れなくなって惜しいとさえ思ったが、そんなことを伝えるほど僕はエゴイストでなかった。僕のハンカチを貸そうと思ってバッグを探ったが、彼女が自分のバッグから取り出そうとしていたので、あっ、と言いながら中途半端な動きをしてしまった。恥ずかしいが、きっと誰にも伝わらないから黙った。バッグから取り出されたハンカチは、つやを保ったシルク製で、渡そうとしていた百均のハンカチと脳内で比べて、また恥ずかしくなった。
「いつからそこにいたの」
栞は、悪趣味な僕に問うた。
「や、ずっといたわけではないけど」
「あっ......そう......」
栞は、少し動揺していた。自ら気づかないまま、隣人に泣き顔を見られていたのだから。涙をハンカチで拭いて、深呼吸して落ち着いてから、栞は僕に話しかけた。
「本当に来てよかったね」
「うん、いい経験になったよ。ありがとう」
僕は先程から伝えたかった感謝を伝えた。
「でも」
栞は何か伝えようとしている予備動作を見せながらそう言った。
「でも?」
黙り込んだ栞に聞き返すと、彼女はまた声を震わせて言った。
「本当にこの人たちは、もう世界にいないんだよね。
死ぬこと自体、悲しいことなのに、家族に見守られながらとか、そんなじゃなくて。
幸せじゃないのに、こんな笑顔ができた人なのに、私たちは生きているのに」
栞は、ブレーキが利かなくなったように涙を流し始めた。僕は思わず心配する。
「大丈夫? しっかり深呼吸して?」
栞が小さく頷く。徐々に呼吸のリズムが安定していくのを感じて少しずつ安心した。でも、本当に肩で呼吸しているのを間近で見たのは初めてだなとか、そんな余計なことを考えてしまった。呼吸が荒くなっている栞の背中を撫でて、でも普段気づかない突起に少し怯えながら、そこに触れないようにした。
徐々に栞はいつもの調子に戻った。少し湿っていたハンカチをまた取り出して、ぐちゃぐちゃになった表情をもとに戻していく。ほんの少し目立ってしまったような気がするが、意図したわけでも騒いだわけでもないから、周りはそっとしておいてくれた。きっと感受性が高い人間ならこうなってしまうのは、不思議なことでないだろう。
暫くして、その場を離れた。栞は自然に僕の腕を掴んでいて、かなりどきどきした。だけど、今はそんなこと言ってる場合ではない。どこか休める場所はないかと探していると、近くにソフトクリームを食べる場所があった。
「ソフトクリーム食べる?」
「......」
「食べないの? 買ってきてあげるよ」
「......バニラ」
栞は小さな声で答えた。
「わかったよ、待ってて」
「......あとチョコレート」
栞が元気そうになったのもそうだけど、あんな張り詰めた空間から抜け出して、三つソフトクリーム頼んでいるときに、ちゃんと現世に戻ってこれたような感覚がして、何となく心が落ち着いた。