第三章 3
次の日。いつもと何も変わらない朝。少しくらいいつもと変わったっていい朝を迎える。昨日の大きな出来事のことは案外心に影を落とさなくて、自分が実は薄情な人間なんじゃないかと少し不安になる。僕と違って、元気がなさそうな母親と一緒に朝ご飯を食べ、いつも通り学校へ向かう。もちろん学校へ向かう道も何も変わらない。交通量の多い交差点を抜け、長い住宅街の一本道。
その一本道の途中でゴミを漁る猫とカラスを見た。人間から愛される対象である猫と、忌み嫌われる対象であるカラスが同じ汚らしい場所で同じ汚らしいことをしている。カラスは、猫を仲間だと思っているんだろうけど、猫はカラスのこと心の中で見下しているんだろう。そう考えると、なんとも言えない気持ちになる。きっと二匹の汚さは同じくらいなんだろうけど、皆に好かれるのは猫の方なんだろう。
叔父さんが亡くなってからまだ呼吸を整えるくらいの期間しか経ってないけど、なんとか僕はやっていけそうだ。好きな時に音楽を聴いて、本を読んで、たまに勉強して。小さい頃に父親を亡くした時も、当時はとてもショックだったけど、実感できなさすぎて、あまり悲しくならなかった。時間が経って思い出した時の方が、かえって時の不可逆性を嘆いていた。きっと、今にそうなる。
そういや、朝起きてすぐ栞からの連絡に気づいた。あんな場で知り合った人間だから、連絡先を交換したって交わすのは挨拶の一つ二つくらいで、関係はそう続かない。挨拶をもらった時もきっとこれが別れの挨拶になるだろうと高をくくっていた。だが、栞はそうでは無さそうだ。栞が連絡をくれたら、当然返信はする。会話の内容こそ、他愛もないものが多かったが、退屈で億劫な月曜日の朝はそれだけで色を持った。
そんな事を考えていたら、栞からまた連絡が来た。
「康平くん、最近おすすめの音楽とかある?」
僕は即座に、栞に試されていることを悟った。ここで何を勧めるべきだろうか。流行の音楽を勧めるのはありきたりだし、玄人向けのものを勧めるのは少々不親切だ。いや、逆にここは昔からの名曲を勧めるべきか......。悩んでいてもしょうがないから、昨日話していたバンドの新曲を紹介した。そしたら、案の定の答えが返ってきた。
「私もこれすごく好き! アルバム出るのほんと楽しみだよね!」
案の定とは言ったが、負けた気がした。いや、最初から土俵を下りたから仕方ないのだけども。栞の言う通り、このバンドの新しいアルバムがもうすぐ出る。およそ一ヶ月後に控えるその日を、すでに待ち構えていたのは、僕だけではないようだ。
栞とは読書の話でもすごく盛り上がった。僕はどちらかというと現代の小説を好むが、栞はいわゆる文豪の作品を好んだ。太宰、夏目、芥川、三島、谷崎、川端くらいなら僕もその名前と作品を知っているが、栞は名前すら聞いたことのない日本文学、さらには海外文学についての知識も大いに持ち合わせていた。昔から本を読んで、その作品に浸るのが好きと言っていた。ただそのかわいらしい理由から思えぬほどの教養が、栞と話しているだけでその顔をひょいと覗かせた。
栞はきっと、将来有望と言われているような人物なんだろう。知性もあって、愛嬌もあって、美貌もあって、何一つ不自由ない。羨ましい限りだ。そんなこと言ってはいるけど僕だって、勉強だって苦手ではないし、コミュニケーションも分け隔てなく取ることができる。
でも、心の底から信頼できるような友達はそう多くない。それが原因で時々困ることがある。彼女のような恵まれた存在ならそんな小さな悩みなんてないんだろう。通学バスの中でそんなことを考えながら、憂鬱なまま学校へ向かった。学校こそ、いつもと変わらなかった。
放課後の帰り道、朝荒らされていたゴミ置き場をちらっと見る。朝見かけたゴミ袋は収集されていて、猫もカラスも近くにはいなかった。彼らの晩ご飯はなんだろう。朝ごはんはあっても晩ご飯にはありつけるのだろうか。自分のことより害悪扱いされた動物のことを考えながら、家へと足を進めた。
家でも特に変わらずで、お母さんの作ったご飯は美味しかった。お母さんは今朝よりは元気があったが、それもきっとはりぼてだろう。何か言葉をかけてあげたかったけど、僕には最適解を出せる自信なんてなくて、足早に自分の部屋に向かった。
部屋に入って、楽な格好に着替えて、ベッドの上に寝転がる。今日一日、いつもと変わらなかったな。叔父さんがいなくても、やっぱり世界はいつもと同じようにまわりまわっている。きっと、無理してそうしている人もいるんだろうけど。そんな答えの出ないことを考えていたら、一件のラインがきた。栞からだ。
「やっほー! 康平くん今空いてる? もしよかったら通話しない?」
なんだ、この子は。この子は恐れを知らない。さっきの僕みたいに、こう、物思いに更けるとかはないんだろう。実は僕に気があるのか? いいや、ないだろう、そんな夢物語、想像するだけでむなしくなる。もしそうだったとしても何か裏があるはずだ。また答えの出ないことを延々と考えてしまう。
でも、困ったな。異性と通話だなんて、したこともない、それに話のネタもない。だいたい女の子と話すことなんてそうそうないんだ。栞と会った時は暇では無かったけど、誰かと話していないと、悲しみにまた呑まれそうな、そんな状況だったからしょうがない。そんな言い訳を考えながらふと現状を思い出し、また悩む。確かにつまらない話になるなら断っておきたいが、話はしてみたい。僕の頭の中は静寂と狂騒、綺麗に二つに分かれ争っていた。
そして二分ほど考えて結論を出した。正しいかどうかはわからない。だが好奇心の行くままにいこうじゃないか。受け入れよう。ダメならダメでそれでいい。これも経験だと自分に言い聞かせ承諾した。すぐに電話の着信音が鳴り、二回鳴ってから出た。
「やっほー!康平くん元気?」
「元気だけど」
「康平くんって夏休みいつから?」
「えっと、今週の土曜日からかな」
「え、本当?私も! あのさ、康平くん、お願いがあるんだけど」
「う、うん」
心の中で何か無理なお願いとか怪しいものでも売られると思ったが、予想はそれを裏切るものだった。
「あのさ、私と二人で旅行に行かない?」
「は?」
「だから! 旅行! 二人で!」
「は? 旅行ってあの旅の?」
「あ、もしかして康平くんって旅行のこと旅っていうタイプ?」
栞の天然なのか故意なのか分からないジョークを拾うことはできなかった。