ヘーノーブンリ!
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ねえねえ、こーちゃん。僕さあ、生きているのがなんだか嫌になってきちゃったよ。
何があったかって? ちょっと人前で、でっかいおならをこいちゃって、恥ずかしいのなんのって。僕、こういうの隠すの苦手なんだよね。すぐ顔が真っ赤になって、犯人だってばれちゃうのさ。
この手のおならとかげっぷは、大勢の前ですることをよしとされない。
生きている限りこれを避けることができる人なんて、いやしないのに。どうしてこんなに、蔑む空気が固まっちゃったんだろう?
――え? 不可避だったり、ありふれたりすると、文字通り「陳腐」になって触れたくなくなるから?
あー、はいはい。毎朝、鏡で見る自分の顔とかと同じね。自分のボディって一朝一夕に変えられないしねえ。たいてい、生まれた時からずっと付き合っていくしかない。
その自分の身体に、どれだけの意味があるのか。それについての話を、ちょっと前に親から聞いたんだ。よかったら、こーちゃんも聞いてみない?
僕の父親も、昔からおならの類がよく出る体質だったらしいんだ。当時がそうなのか、環境がそうなのか、父親のクラスではおならは蔑みの対象とならなかった。むしろ、ユーモアの一種として受け入れられる風潮があったみたい。
父親のおならの特徴は音が大きいこと。そして嫌な臭いが全然しないことがあげられる。
それが父親を、ちょっとしたエンターテイナーに仕立てていたんだ。けれどある日、ちょっとしたきっかけから妙なことに巻き込まれたんだ。
父親が登校して教室に入る直前、後ろから肩を指でつつかれた。なんだ? と振り返ると、友達のひとりが握りこぶしを目の前に突き出しながら、ぱっと開く。すぐにかぐわしい臭いが鼻をくすぐってきた。
握りっぺ攻撃。このところクラスでブームになっているお遊びのひとつだ。にらめっこと同じような判定で、相手が身を引いたり、はっきりと顔に不快の色を浮かべたりしたら負け。
父親はめためたにやられた。相手の不意打ちによって8割方は陥落し、そのくせ父親からの反撃は、相手の眉にしわのひとつも寄せられないと来ている。
どうにかおならを凶器にして、連中をぎゃふんと言わせたい。そう思う父親はどうにかリベンジを試みる。
確かに自分のおならは臭いのない時がほとんどだけど、厳密には5回に1回ほど、なかなかの威力を発揮することを知る。この一回を、いつでも出せるようにするんだ。
父親はますます、自分のおならを我慢することに気を凝らす。半月が経つ頃には、ある程度の発射時期の調整ができるようになっていたらしい。
そして朝の登校中。父親はたまたま、いつも苦汁をなめさせられている一人が、前を歩いているのを発見する。
しめしめと、父親は間合いを詰めながら右手を自分の背中側へ回した。朝食を食べる前から、少し張り気味に調整していた腸内。その力を存分に発揮しようと、「弁」を調整してやる。
音の課題も、このところは改善傾向にあった。父親なりのポイントは、限界の7分目までの腹式呼吸で息を取り入れた後、5秒間「いきむ」こと。すると音を抑えながらも、臭いと勢いを増すことができる。水鉄砲に似た原理だ。
ほどなく尻がじんわりと熱くなり、かすかな開放感が続く。荷が下りかける安堵感と共に、手に握り込むのは力強い温もり。生地の壁を越えた精鋭たちを掌中に収めたんだ。
こいつでもって、今日こそあいつの牙城を崩すのだ。門を破る槌となれ!
父親の空いた片手が奴に触れそうになるが、その直前のこと。
いまだ噴出を続ける、父親の尻の近くを別の手が横切った。ほんのわずかに爪の先らしきものがズボンをこすり上げ、思わずぞぞぞっと背中に寒気が走ってのけぞってしまう。
声を出すのはかろうじて防げたが、奇襲は大失敗だ。動きを止めたこの数瞬で、相手は手の届かない位置へ逃げてしまうし、召集した精鋭たちはすでに現地解散の兆しときている。
いったい誰が、と殺気を包み隠さず振り返ったところで、父親は目を丸くする。
そこに立っていたのは、クラスの副委員長である女の子。授業、運動共にそつなくこなすも、自分から誰かと積極的にかかわろうとしない。
空いている時間は自分の机で本を読んだり、物思いにふけったり。何となく暗い女だというのが父の印象だった。
そいつが今、自分の前で握りこぶしを作っている。あろうことか自分の顔の前でぱっと開き、鼻をひくつかせているんだ。手で隠されて顔全体はよく見えないけど、指の間からのぞく目が細まり、心なしか潤んでいる。
――なんだこいつは。どうなっているんだ?
父親は困惑する。自分の背後を取る不可解さもさることながら、彼女のこんな表情は見たことがない。
あの爪の感触は、おそらく彼女のもの。ああやって嗅いでいるところを見ると、まさかただ自分の手の香りを嗅ぎたいだけとは思えない。ということは……。
「うん、気に入ったわ!」
今度は爛々に目を光らせて、父親の肩を両手でがしりと掴んでくる副委員長。今度は満面の笑みを浮かべていて、百面相についていけない。
「今日の放課後、3階の空き教室に来て! 君だったらすごい力になれるかも!」
一方的に話を伝えて、一方的に去っていく。いかにもコミュニケーションに慣れていない人の典型だ。父親は掴まれた部分をぽんぽんと叩きながら、先ほど攻めようとした城さえ追い越し、軽やかなステップを踏む副委員長を見送る。
「あんな嬉しそうな顔ができるんだな」と「あいつとてつもなくやばい奴なんじゃないか」が胸の中で慌ただしくせめぎ合う。その日は無性にドキドキしっぱなしだったらしい。
3階の空き教室には、普段はクラスに置ききれない備品置き場となっている。たとえば運動会が近づくと、輪飾りやボンボンを詰め込んだ段ボール箱が、クラスごとに姿を現した。
それがこの学期の終わりには、さっぱりきれいになる。新年と共に気持ちも新たに、という意向なのかもしれない。隅に寄せられた数脚の椅子と机、生徒関連の荷物がないことをのぞけば、他の教室と大差ない空間だ。その中心に、父親と彼女が座り込んでいる。
二人の間に広げられるのはビニールシートと、アルミホイルに乗せたスイートポテトたち。今日の調理実習で作ったものではあるけど、まだこれほど残っていたとは驚きだ。てっきり家庭科の時間か給食の時間に、みんな食べ尽くしたものだと思っていたのに。
「ささ、遠慮せずに食べて」
父にすすめつつ、彼女はさっそく一つをとって、アルミホイルをはがすやパクリと口の中へ放り込む。
父親が誘いに乗ってここに来たのは、今朝の彼女の不審の根っこを引っ張り出すためだった。だが、こうしている今も彼女は美味そうに口をむぐむぐ動かし、わずかだけど甘い匂いをここまで届かせているんだ。食べ盛りに対し、目の前の食べ物を前にして、「待て」というほど残酷なものはあるだろうか?
父も一番手近なものへ手を伸ばす。上体を伸ばしてかがみかけたところで、目前にさっと彼女の握りこぶしがつき出され、ぱっと開かれた。スイートポテトのものとは明らかに違う、硫黄じみた臭いが、瞬く間に父親の鼻を潰す。
同時に、父親の腹が内側から強烈に張ってくる気配が生まれ出す。間違いなくおならの出る前兆だ。その勢いたるや「あっ、止めきれねえ」って自覚できるほどで、せめて被害を小さくできないかと、下っ腹に力を入れる。
およそ半月ぶりに長く、そして大きい放屁の音が、正座した父の尻から漏れた。畳まれた足の踵を温ませる風圧を前にしても、父はなお平静を保とうとする。彼女の突然の握りっぺにも反応せず、ただスイートポテトをひとつ口へ運ぼうとしたんだ。
その足の裏がまた、朝の時と同じような感覚で、靴下ごしになぞられる。
さすがに振り返った。その視界の先で、一瞬だけ見えて引っ込んでいったものは、やはり握り込んだ拳。しかも座っている自分の足を回り込むような形で、消えていったんだ。自分の背後には、空のロッカーが並ぶだけで誰もいない。
彼女の方へ向き直る。すでに彼女は今朝見たように、自らの拳を鼻へ近寄せて、開いていた。少なくとも父親との距離はシートを挟んで2メートルほどあり、腕を回せるような長さじゃない。ぐっと大きく吸い込むと共に、空いている片手で新しいスイートポテトをつまみ、隠した口元へ運んでいく。
彼女の目が潤み始めた。悲しいがための色じゃなく、明らかにうっとりしている色だった。その間にも、隠した手の影からは空になったアルミホイルが落ち、もう片方の手はよどみなく、彼女の尻の方へ伸びていく。
だが父はそれよりも、彼女の長い後ろ髪が浮き上がっていることが気になった。彼女が臭いを嗅ぎ出すと同時に、おのずから持ち上がったそれを分けて、彼女の背中側へ出てきたものがある。
何なのかは、彼女の頭自身がよく邪魔して見えなかった。だがくるくると縦に回転を続けるそれは、ピンクがかったクリーム色がのぞいている。
「ああ、とってもいい……ねえねえ、もっとお願い」
彼女がしばし自分の尻にあてがった手を、またも父親の前へ持ってこようとしたんだ。
気がつくと、父はランドセルを片手に昇降口へ向けて走っているところだった。逃げ出したんだと悟ったけど、戻る気にはなれなかったらしい。そのまま家へ直帰した。
翌朝。彼女は平然と父親の前へ姿を現わす。特に昨日のことについて誰にも話した様子はなく、父親と目が合うとニコリと静かに微笑むばかりだった。
以降も何度か父親は空き教室へのお誘いを受けるも、徹底して拒否。やがて声を掛けられなくなった。
あの時、彼女の髪の向こうに見えたもの。父親が後年に読んだ理科の資料集によると、ちょうど生きている人の脳みそと、よく似た色合いを帯びていたらしいんだ。
きっと父親の屁は彼女にとって、かなり心地よいものだったんだろう。それこそ脳みそが飛び出しちゃうくらいにさ。