prologue
月は魔力を持っている
それは満月に近くなるほど満ち溢れ
月に魅入られたものは
超常の力を発現すると言われている
オフィス街から電車で三十分ほど
何の変哲もない住宅街の中の一軒
そこに両親と二人の子供、それに私が住んでいた。
既に夕食も済ませ
リビングには子供たちが見ているテレビの音声が響き
隣接するキッチンからは食事の後片付けをする音がする
耳に入ってくるそれらを聞きながら
私はリビングに面した自分の部屋から
なんのけなしに窓から外を覗いていた。
普段通りの日常の風景
そうして夜も少しずつ更けて行こうと言う時に
玄関の方から大きな音が響き渡った。
普通の人間より耳のいい私は急な音に驚き飛び起きる
そして反射的に警戒の姿勢を取る
「な、何だお前たっ・・・」
様子を見に行っていた父の声が玄関からし
そして不意に途切れ、何かがどさりと倒れる音が聞こえた
明らかに異常事態だ。
何が起きているのかを確認しようと耳をそばだてていると
リビングに血のような赤い色をした人影がのそりと入り込んで来る。
その数は三体
急に現れた人のようで人でない何かに驚き
子供たちが悲鳴を上げる
人影は迷うことなく悲鳴を上げている二人に近付き
その腕を振り下ろした
ぐしゃぁ! と、何かが潰れる様な音と共に倒れ伏す二人
そして何事もなかったかのように奥のキッチンへと向かう人影たち
ここからでは状況は見えないが
ドタドタと鳴り響く足音に母の怒鳴る声
それもわずかな時間で不意に途切れて静寂が訪れる。
人影たちは再びリビングへ戻って来て
何かを探すかのように全身を左へ右へと動かし
一瞬だけ私と目が合う
しかし、他の家族とは違い私には一切反応せず
そのまま何事もなかったかのように立ち去って行った。
それからしばらく
テレビの音だけが響く室内で私は立ち尽くし
鼻に届く血の臭いで我を取り戻す。
今のが一体何だったのかは分からない
ただ、家族が襲われたと言う一点だけは理解が出来た。
目の前にはリビングと自分の部屋を仕切る柵
家族の様子を見に行くことも、あの人影を追うことも何も出来ない
せめて何か出来る事はないかと辺りを見回す。
そしてふと目に留まったのは
人影が来るまで見つめていた窓の外の景色と
そこに浮かぶ真円の月だった。
見上げた月は何故かいつもより輝いて見え
見ているだけで心がざわつくような気がした
ドクンッ
心臓が鼓動する
月が輝きを増す
ドクンッ
再び心臓が脈打つ
視界が金色に染まる
ドクンッ
そして視覚も、聴覚も、その他の感覚も
一瞬だけ全てを失い
ドクンッ
もう一度心臓が脈打つ頃には
何事もなかったかのように世界が戻って来た。
(今のは一体・・・?)
疑問とともに辺りを見回す
そこではたと気がつく
さっきまで見上げるほどに高かった窓は目線ぐらいの位置に
自分の部屋を仕切っていた大きな柵は
今は見下ろす程度の高さになっていることに
何故? と、一瞬戸惑うがすぐに答えは見つかる。
今まで四本足で立っていた自分の体は
他の家族のように二本の足で直立している
それに随分体全体も大きくなっており
薄茶色の毛皮に覆われていたはずが肌が露出している
元の毛皮だっただろう名残は同じ色の胸元まで届く髪の毛だけだ。
どうしてこのようになったのかは分からない
しかし、これならあの人影も追えるはず
二足歩行での移動は最初は途惑ったものの
柵を跨ぎ自分の部屋から出て
襲われた二人が既に息もしていないことを確認する頃には
すっかりと馴染んでいた。
そのまま廊下へと向かい、玄関から外へ出ようとしたときにはたと気がつく
自分が、その身に何も纏っていないことを
家族は皆服と呼ばれるものを着ていた
あれなしで外へ出ては人影を追うどころではなく騒ぎになるだろう
そう考えると自然と足は今まで一度たりとも登ったことのなかった
家の二階への階段へと向けられた。
初めて歩く二回の廊下
どこに何があるかは分からなかったけど
幸いなことに一番手前の部屋がどうやら長女のものだったらしい
中に入ると部屋の隅っこに掛けられた赤いコートを急いで羽織る
これだけでは足りないだろうと少しだけ棚を探ってみると
グレーに黒のストライプが斜めに入ったスカートを見つける
慣れない体で慣れない衣服を身につけるのは少々苦労したけれども
とりあえず体裁だけは整えた。
これ以上無駄に時間を掛けるとあの人影を見失う
窓に向かい大きくそれを開け放つ
そして迷うことなく窓枠に手を掛け
夜の空へと跳び出した。
人気のない裏通り
既に離れてしまったのか
例の人影の気配は全くしない
頭の上の大きな耳を立て、耳をすませてみるが
それらしい足音は確認できない。
(このまま逃がすわけにはいけない)
そう思うと直感のままに足を動かす
常人を遥かに超えた速度で夜の路地を駆け巡る
しかし奴らは見つからない
焦燥だけが胸の内に広がって行く
「きゃーっ!」
遠くから悲鳴が響く
もしかしたら誰かが奴らと出会ったのかもしれない
すぐ先の角を曲がると声のした方向へ一気に駆け抜ける
さらに二度、三度と角を曲がると見えてきた駐車場の一角
あの三体の赤い人影と、倒れ伏す一人の女性
(見つけた、奴らだ!)
ついに見つけた興奮のままに加速をすると
足に力を込めて大きく跳躍する
空中で前方に一回転し
そのままの勢いで人影の顔にあたる部位に向けて蹴りを放つ
ズザザザザザザッ!
頭を蹴り倒し
それでも止まらない勢いは人影を蹴り倒したまま
数メートルの距離を引き摺って行く。
突如とした乱入者に途惑ったのか
残りの人影はこちらを見たまま停止している
が、我に返ったのかすぐに腕を振り上げこちらに迫って来る。
私は蹴り倒した一体から足をどけると
大きく跳躍してひとまず人影との距離を取る。
少し息を整える
それと同時に興奮してた頭も冷静さを取り戻してくる
すると、この体に備わっている機能が、そしてその使い方が
本能的に頭の中に思い浮かぶ。
くるりと人影に向き直り
両手を交差するように胸の前に構え一呼吸
そこから両手を左右に突き出し
大きく円を描くように動かす
その過程で交差した腕を再び左右へと突き出し
大きく声を上げる
「ヴォーパルナイフ!」
体の奥から力の奔流が競り上がって来る
月の影響によって得た魔力と呼ばれる力を感じながら
意識を突き出した腕に集中すると
それらは掌から外へと放出され
一つの形を形成し始める
柄の先に兎の顔をかたどった飾りを付けた二振りのナイフ。
生み出されたナイフを両手に取ると
私は一気に人影へと向かって駆け出す
人影が慌てたかのように腕を振り上げ
向かってくる私に向けて振り下ろす。
左手に持ったナイフを突き出すと
ゼリーを切るような生温かい感触と共に
振り下ろした腕が千切れて勢いのままに私の後方へと飛んで行く。
すぐさま私はくるりと一回転し
右手に持った方のナイフに回転の勢いに乗せて
人影の首へと抜き放つ
腕のように何とも言いがたい感触と共に首が裂け
血は吹き出ないもののその場に倒れ伏す人影
そしてそれは、そのまま溶ける様に地面へと染み込み消えてしまった。
(やった、皆の仇が討てた)
一体とは言え、自分から家族を奪った憎い敵を自分の手で倒せたことに喜びが湧き上がる
しかしその余韻に浸っている暇はない
頭の上の大きな耳が空気を切る音を捉える
もう一体の人影が殴りかかって来ている
反射的に上半身を大きく後ろへと反らす
翻ったコートの裾を人影の腕が掠める。
(まだ終わってない。油断しちゃダメだ)
再び意識を戦いに向けると
上体を大きく反らした体勢からさらに体を捻り
振り抜いた腕に向けてナイフを振り下ろす
傷を負おうが痛みを感じるそぶりすら見せない相手に
追撃を諦め一度距離を取る。
ここまでの攻防で気付いたことだが
力は強いものの奴らの動きはかなり単純
力任せに腕を振るう以外の攻撃パターンは見せてこない
ならばこちらから取れる手段は・・・・・・。
私はスカートの裾を両手でつまむと
くるりと一回りして、優雅に膝を曲げつつ一礼する
「さぁ、かかっていらっしゃいな。」
相手が言葉を理解したのかは分からないが
人影は大きく腕を振り上げこちらへと突撃して来る
相手の行動が予測出来ているなら何も怖くはない
振り下ろされた腕を余裕の表情を崩さずに
体を半歩横にずらすだけで避ける
そのまま相手が振り下ろした腕を戻している間に懐へ潜り込む
片手のナイフを強く握り直し、一気に下から上へと斬り上げる
体を両断するかの様に深く刻まれた傷は致命傷だったのか
これも人の姿が崩れてそのまま溶けていく。
最後の一体の方を振り向くと
最初に蹴り飛ばされて倒れたままだったのが
今になって起き上がろうとしているのが確認できる
すかさず私は大きく飛び上がり
立ち上がろうとしている最中の背中に向けて急降下
再び地面へと崩れ落ちる人影
私はナイフを構えると
二本を揃えて後頭部へと一気に突き刺す
こうして最後の一体も溶けて消えていった。
全ての人影を倒し、戦いの舞台に静寂が訪れる
仇を前にした興奮も過ぎ去り、手にしたナイフもそれに合わせて消滅する
「や、やった。うぅ・・・・・・ぐすっ。」
何故だか涙が溢れてきた
ただただ私は泣いていた
家族を失った寂寥感
魔力を使っての戦闘による高揚感
仇を討ったという達成感
様々な感情が胸の中で渦巻いて、涙は止まらなかった。
それからどれぐらいの時間が過ぎたのか
空が白み始めて月が落ちる
それに合わせるかのように
人間と同じ形になっていた私の姿が元に戻っていく
上りきった太陽に照らされていたのは
その薄茶色の毛並みからカフェモカと名付けられた
一匹の兎の姿だった。
(これからどうしよう)
飼い主を失い
行く当てもない野良兎にとって
この広い都会での生活は厳しいものだろう
それでも一匹だけ生き残ったからには
飼い主達の分まで行き続けようと
そう決意すると
兎は路地の向こう側へと消えて行った。
 




