今様々な人が訴える性差別について考えてみた
時代というのは、酷く合理的な仕組みによって動いている。
男の出生率が低ければ、産まれてくる男を大切にし、体格的に優れた男が働きに出された。そうして金稼ぎ家族を食べさせる者つまり一家の大黒柱として家庭内のカーストで頂点に立っている。
では、男の対となる女のあり方を上の表現と反対にしてみよう。女の出生率は男に比べれば高く、産まれてくる女は男よりは大切にされない。体格的に優れない女は働くところが少なく、男よりも常に低い立場を強いられていた。
これが今までの時代の流れだ。
そこから1872年の人身売買禁止令等を通して、福沢諭吉の男女同権や婦人解放運動といった男女問わず性差別を無くそうとする人が時代を変えてきた。
平塚明もしくは平塚らいてうという女性活動家を知っているだろうか。女性解放運動や反戦・平和運動に尽力していた方である。男尊女卑、性差別の社会に抑圧され子を産む存在、家を守る存在と化していた女性のあり方に反発し女性の自我の解放を目指していた。
「元始 女性は太陽であつた」という文章や「私は新しい女である」という文章も生み出した作家でもある。
私はこの「新しい女である」という言葉を考えてみたのだ。
"新しい"があれば"古い"もあるということ、では何に対して新しく何に対して古いのか。
ビールを一番飲むのは矢張平塚らいてうだったという光景から生まれたのが「新しい女」という言葉なのを考えれば、ビールをあまり飲まないのが「古い女」だったのだ。
詳しく言うとビールをあまり飲まないという奥ゆかしく遠慮深い男性から一歩下がっている女性が「古い女」なのである。
今までの時代の中に居ないのが平塚らいてうであり、この女性こそが新たな時代の女性なのだ。
男はこうあるべきだ。女はこうあるべきだ。
そう決めていたのは、男でもなければ女でもない。
時代こそがそう決めていたのだ。
では、ここまでの私の考えという前提を置いて、今回の本題である再度燃え始めた女性の社会進出についての話だ。
その火種となったのは、私が考えるに医療界で女性差別である。
女性は医療界では必要とされていない。突き詰めればこういうことだろう。
では、何故必要とされていないのか。それはいついかなる時代にも女性の在り方は母という生き方が求められているからだ。子供を産め、人を増やせ。ただでさえ、少子化の進む我が国では存続のための必要事項ともいえる。
しかし、そんな生き方を強制されるのは前時代の「古い女」に戻るということだ。だからこそ今まさに女性の社会進出が活発化しているのだろう。
では何故、医療界に母を必要としていないのか。
それは子という重りがあるからだ。医療界で扱うのは食べ物でも土地でもなく人の命である。人の命と関わる以上、ことは一刻を争うという事態は必ず起こる。その時に十月十日という母体の不安定な期間やその後の体力低下の現場復帰の遅れ何よりも小さな子供に何かあった場合、助けを求めに来た患者を見捨てて自分の子供を取るのかという二者択一の選択を永遠に迫られるというのがネックなのだ。
その他にも女性は月に一度、精神的にも身体的にも辛い時期が訪れ、その状況で難しい手術が出来るのかどうかも不安な場面があるだろう。
それを支えるのに他の医師が疲労すれば救える命を落としてしまうかもしれないという危険がある。
つまり、人の命を扱うにおいて男に無い苦痛を背負ってくれた女性は医師になるには向いていないのだ。
他の仕事であれば、人の生き死にが関係しない以上、ここまでの重要性はないだろう。だからこそ、ツムツム等のゲームアプリ制作に尽力した女性が評価され、テレビにも取り上げられている。
そう、男女が関係ない仕事場では医療界ほど女性差別という問題は起きていないのだ。
私が思うにこれは差別ではなく区別だ。
女が男湯を掃除しに来るのに、男が女湯を掃除しない。
他にも男のトイレに女は入ってくるのに男は入ってこない。
これは性差別ではないのだろうか?
いや、違う。男に身体的に負ける女が力づくで犯されたりするという問題があるかもしれない。この問題があるからこそ、女は男が掃除しに来ることを拒否しているのだ。
このように女は男に比べて身体的に劣るという点は暗黙の了解として受け入れているのにも関わらず、医療界で身体的に向いていないということに関しては差別となるのだろうか。
身体的特徴を理由に男は仕事を奪われて、身体的特徴を理由に女が採用されにくくなるのを差別という。
実に不思議である。性差別を問題視するのであれば、女はこの男の差別も問題する必要があるのではないだろうか。
だが、そんな声は一つも上がらない。なぜなら女はこの男への差別を当たり前と思っているからである。
この矛盾を性差別を訴える女性や男性は考えるべきだろう。
時代というのは合理的な仕組みで動いている。
今この現状は果たして合理的と言えるのだろうか。
私も女性の社会進出を反対しているのではない。
私にとって女性の社会進出しようがしまいが、どうでもいい。何故なら、私の根底に男女平等という言葉が根付いているからだ。
昔とは違い、男の出生率は低くもなく主夫という生き方を選択する男もいる。女も社会で活躍してる人は五万といる。
女性の社会進出は既に私は成し遂げていると考える。
現に女性差別している方がおかしいという人の方が圧倒的多数を占めているのだ。
このように時代は変わったが、向き不向きは確かにあり女性に出来ないこと男性に出来ないことは確実に存在する。
職業選択の自由は女性にも男性にもある。
だが、差別ではなく事実の元での区別で雇用もされるのだ。
私は医療界の問題を決して差別だとは思えない。
何故なら、それを差別だとすると我々男性が日頃当たり前のように受け入れていることも差別となるからだ。
私は例として挙げた女性清掃員の男性のトイレや銭湯等の清掃は良しとされるのに逆はされないということは女性の恐怖を考えれば至極当然のように思える。
だからこそ、我々男性がされているのは区別であり差別ではないのだ。
同じように生理や妊娠に悩まされて、体調的に優れず100%のコンディションではない医師に命を預けたくない私は思う。
死ぬ恐怖というのもまた恐ろしいものなのだ。
この問題は難しい問題で私のような者ではこんな安直で最低な解決法しか出ませんでした。
私は決して女性に医師はできないと言っているのではありません。世の中には活躍する女性の医師も居ると思います。ベテランの女性の医師と新米の男性の医師であれば勿論女性の医師を選びますが、私が言いたいのはそういうことではないんです。
医療界の問題が差別かどうかの話し合いがしたいんです。
そして誰か頭のいい人が女性医師が妊娠して幸せな家庭を作りながらも仕事復帰が出来て周りにも負担がかからないようなシステムを考えてくれることを私は祈っています。