第1話 A・L・O・H・A
まるで闇から光が生まれてくるように、日の光が夜を裂き、あたりに生命の気配を取り戻してくれる。そして死の世界へと引きずり込れそうな海も、本来の優しい包容力を取り戻していた。砂浜の奥のヤシの木のそばに錆だらけの車が止まっていた。
車内にはローカル局のトリニーが読み上げる”今日の波情報”が響き渡っている。
携帯メールを確認していた運転席の大柄な褐色の女性が口を開いた。「ロイのやつ、二日酔いですこし家出るの遅れたから先にやっててくれってさ」助手席の小柄な女性が鼻で笑った。「ネットと予報も変わらなそうだし、ぼちぼち行きますか。」車外に出るとあたりはすっかり明けていた。イルカの絵が描かれているサーフボードに褐色の女性が、もう一方には「Eddie would go」と綴られているサーフボードに小柄の女性がそれぞれパドルを始めた。澄み渡った空と、まるで生き物が這うようななまめかしさでうねる海がどこまでも続く青い世界。先端を白く泡立てながら繰り返し押し寄せる波間をその2人はかき分けて行った。先にテイクオフしたのは小柄の女性の方だった。「うまくなったね!マナ!!」イルカのボードに乗る褐色の女性サーファーが微笑みながら言った。一方マナは自分に精一杯でナイアに返事を返すことができない。後ろから来る途切れない波をくぐりながら、視線を進む方向より少し先に移す。二人の視界にライトバンが入った。ロイだった。シュバッ!!!ナイアが勢いよく滑空する。いつ見ても彼女のライディングは美しいと感じさせる魅力を持っているとマナは感じた。水しぶきの中、空をバックにクルクルと回るナイアはその名がハワイ語でイルカを指すとおり、軽々と海を制しているようだった。そして体勢を崩すことなく自然なフォームで波の上に着水し、再び後続してきた波を縫いながらマナをジェスチャーでけしかける。ナイアのジャンプに触発されたマナは以前に一度だけ成功したことのあるジャンプを今日、もう一度決めようと思った。大きいセットを待って幾つか見送っていると、メリメリと地面を引きずり込むような大きな波が迫ってきた。マナは考えるよりも早くボードの先端をその波の方向に向け、ズズズ…とうねる波へ牽引されていった。「マナ!GO!GO!!」ナイアはマナの耳まで届かないだろうと思いながらも声にして彼女の決心を讃えたかった。順調に波を駆け上がっていくマナ。しかし登頂した瞬間、サーフボードだけが上空に舞った。光が板に反射してキラキラと光る。マナは真っ逆さまに落下し海中へと飲まれていった。
目に飛び込む無数の泡と闇、そして白い砂浜にゆらゆらと写る影。ジャンプに失敗したのだとマナはようやく気がついた。しかしこの大自然を全身で体感していることに、今までにない充実感に満たされていた。すると不意に脳裏にハワイに来る以前の記憶が巡った。そう、本当の意味で、ハワイとの出会いはあの時だった。
「このカッコはさぁ、この人だから似合うんであって、普通にやったら結構浮いちゃうって」
「なんか、いかにもっていうか、頑張ってる感バレバレだねぇ。」
「初期のころの、なんか特別なってわけではないんだけどシンプルさが良かったんだけどねえ」
「あれだね。今月は結構ムリに作ったぽいね」
カリスマモデルが紹介する一週間着回し術のページを巡り、放課後まで友達と議論を続けていたマナは、いつものように他愛ない話とお菓子で予備校までの空白時間を調整していた。
そんな何に対しても楽しく前向きに生きようとする彼女にも、最近ちょっとした異変を感じる瞬間があった。底が見えないほどの深い穴に落とされたような、例えようのない「不安な気持ち」を感じるのだ。しかしそれは漠然としたもので、何に対しての不安感なのかよく解らないまま、いつのまにか記憶の角に追いやっていた。
「ああ、そういえばさ、今日神保先輩きてるでしょ?」
「えぇ、マジィ?行かなきゃだね。引継もあるしねぇ...メンドクサイなあ」
「え、え?なになになに、引継って?」
「ああ、テニスだよ。あたしとメグのどちらかが来年、部長やらなきゃだならないからさ。」
「まあ、そう言いながらも新部長は美里でほとんど決まりなんだけどね。」
「オイオイ、きたよ、コイツ。マナ、聞いてくれる?この間の部会でもそうやって人に押し付けようとしてさぁ〜、ムカつくんだよな。つか、だいたい部長になんなくても、結局引継ぎは部員全員でやんなきゃなんないんだし、大会前の準備ももう始まるから、あたしが部長に成って理不尽に恵美に全部押し付けるよ?」
「ちょっと、それだけはやめて。ホンっト、人前に立つのとか苦手なんで。」
「慣れる、慣れる」
担任のムチマロがいつまでも終わらない掃除にしびれをきらして教室に入ってきた。
「おーい、今日のゴミ当番誰だ?」
「お?おおお!やっべ、あたしだ、行かなきゃ」
「いいよ、美里、あたし行ってくるから」
そう言いながらサッとゴミ箱からビニール袋を取り出し袋の口を手早く結ぶとマナは裏庭のゴミ置き場に近いドアから出て行った。
「なんか...、マナ怒ってなかった?なんだろ?!」
「さぁ?あんなもんじゃん?つか部長どうしよ?!」
廊下を戯れ合いながら走る男子を尻目にマナはなんとも居心地の悪い気分だった。さっきまで親しく話していた友達2人が、まるで電車にたまたま隣合せた乗客の会話を聞いているような距離を感じたからだ。マナが知らない2人の世界は、あの「説明できない不安な気持ち」を思い起こさせていた。今までにも幾度となく美里と恵美のテニス部の話は横で聞いてきたマナだったが、今回は違った。それは2人の中に入っていけない疎外感からではなく、もっと別の理由からなのは良くわかっていた。マナは自分が知らぬ間に時間の流れに置いていかれている気がしていたのだった。
しかしどうして置いて行かれるような感覚に捕われるのかの理由を見つけられないことがさらに彼女を焦らせていた。
つまり子供の頃からクラシックギターを弾かされてきた人のような、次の自分に繋がるべき体験を積んで行きたいと考えていた。しかしそれはなかなか難しい問題で、まず何を始めたとしてもどこでどう繋がるのかは分かるはずもないし、どのように繋がりたいのかも自分自身よく分からないからだ。
ゴミ捨て場は校舎の裏門付近にあり、常に日陰になっている鬱蒼とした場所だった。さっさとゴミ袋を捨てて、今日は早めに予備校に行き自習部屋にでも行っておこうと考えていると、見慣れない女性が校舎の裏手から出てくるのが見えた。この時期にストレートの黒髪でスーツときたら、ほぼ間違いなく3学年の生徒だった。就職かな?進学かな?そんなことを考えたが、どうでもよくなり、その女性とすれ違うとき、軽く会釈したかしないかくらいの対応で済ませようと思ったそのときだった。
「マナさん?だよね。そうだよね?」
マナは相手からの思いもよらない対応に驚くと同時に、なぜ名前を知っているのかという疑問に思いつく限りの理由を見つけようとしていた。
「お久しぶり、元気?」
そう笑いかけてくる彼女の顔に、マナは見覚えがあった。
「...あぁ!美香さんだ?!」
マナがこの学校に入学したばかりの頃、上級生が主催するオリエンテーリングが行われ、そのときマナに付き添って校内やクラブの説明をしてくれたのが美香だった。しかしその後は学年もクラブも違ったことから、いつの間にか疎遠になり、校舎内でばったり会っても挨拶をお互いするくらいの間柄になってしまっていた。
「ごめんなさい、美香先輩だと気づかなくて。髪型もぜんぜん変わってて
、それにすごく大人っぽいですね?」
「そお?そおかな?スーツかな?どお、マナさんは元気?」
「ええ、元気だけが取り柄なもんで、はは。あの今日はもしかして進路報告に来たんですか?」
「そう、昨日通知が来てね、海外の大学に行くことになったんだ」
「おめでとうございます。もうこの時期に決まってるなんて。あ、あの、どちらに行かれるんですか?」
「ハワイ大学だよ」
美香先輩の顔は笑顔が溢れんばかりになった。
「ハ、ハワイですか?またどうして?」
「ハワイはね〜面白いよ。いろんな神話はあるし、昔から話されてるハワイ語も、自然の豊富な場所だけあって自然を表現する言葉が数多くあって、なんか日本語にも通じるものがあるんだよね。それでなんかハワイ語を研究してみたくなって、思い切ってハワイに乗り込むことにしたってわけ」
「そんなにしっかりとした動機のもとに進学するなんて羨ましいです。いいなあ、私は何をやって行きたいのかもまだ全然。」
「..ん〜、そうね〜、まあ、何気なく書店で手に取った本が、ハワイの古代航海術だけで航海をする人々の話でさ、いまでもその活動は行われてるんだけど、そういう古代の文明の一つとしてハワイ語をもっと知りたくなってね。以前からTVや雑誌とかでハワイのことはなんとなく知ってたけど、古代文明を今に蘇らせたいという現代のハワイ人の情熱に打たれたというか、なにか降りてきたというかぁ。」
「お、降りてきた?」
「ははは、直感、直感、こんなの、勢いみたいなもんだから。でも一時的な感情だけだと取り返しつかなくなるから、図書館やネットでハワイのことを詳しく調べてホントに自分がやっていけそうなのか、いきたいところか、よく考えたよ。そういうの調べることを楽しむって大切かもね。出会いっていうのかな、なんにしても試してみるって感じかしら?多少面倒なことでも。それに今日マナさんとここで会えたのだって出会いの一つじゃない?あなたがゴミを捨てにくるのが少しでも遅かったり、私がもう少し早く帰っていたら出会わなかったかもしれないし」
マナはもう少し美香先輩に質問したかったが、頭の中で整理がつくまえに彼女は歩きだしてしまった。
「マナさん、がんばてね。今はひとつひとつの出会いに目を凝らして、何かを探し出してみて。きっと見つかるはずだから。これからのあなたに良い出会いがありますようように..."Alo-ha"」
「遅かったじゃん」
「東 美香ってヒト知ってる?」
「知ってるも何も、ねえ、東先輩は超有名でしょう。」
「なんだ、それで遅かったか。なんか話した?」
「アロハ〜とか言われた。」
「ハハハ、なにそれ?」
これから先、自分が何をしていきたいのか、何をして生きていくのか、マナは考えたことはあっても決断したことがなかった。そういう意味で美香先輩からは重要なヒントをもらった気がしていた。
友達の美里や恵美がテニスを中高通してやっていたことは、彼女らの今後の人生のあらゆる場面で価値を発揮するだろう。そういったことをマナは少なからず羨ましいと感じていたのかもしれない。
予備校から帰宅途中に自転車を漕いでいるときもマナは、ずっと美香先輩から投げかけられた"Alo-ha"が頭から離れなかった。というより正確な意味を知らなかったことに気がつき、講習中も気になってしかたがなかったのだ。美香先輩はあのときホントは私に何を言いたかったのか?この出会いを失ったら自分は永遠に何かを見つけられない気がした。自分の部屋に入るや鞄をベッドに投げ捨て、パソコンの前に座り検索をかける。次々とAlohaに関連する名詞や言葉を探す。その中に意外な表現を見つけた。
A :akahai やさしさと思いやり
L :lokahi 調和と融合
O :olu'olu 喜びをもって柔和に
H :ha'a ha'a ひたすら謙虚で
A :ahonui 忍耐と我慢