ベロニカの願い
乳母の狂気を確信したのは、私と乳姉妹のアグネスの、記念すべき王立学園初等科の入学式の日だった。
夏が終わったばかりで、暖房が必要な寒さじゃなかった。だけど、入学式を終えてくつろいでいたリビングでは、暖炉の炎が赤々と燃えていた。
「マリー、聞いて。アグネスったら、入学試験で1問も間違えなかったんですって! 作文なんて6年生より上手ですって! すごいわ!」
父兄から離れて生徒だけで教室に入ったとき、担任教師がそう褒めてくれたのだ。
乳姉妹のアグネスは、私の侍女になることが決まっている。母親が準貴族の出だから、宰相令嬢の侍女としては、若干身分が低いかもしれない。でも、そんなことをいったら、私の父だって侯爵家の5男で、家督と無縁だ。宰相の地位にあるとはいえ、身分自体はたいていの大臣より低い。つまり父や父の派閥は実力主義。血筋の高貴さより、現実的な能力を求める傾向が強い。アグネスが優秀であることは、主人である私の評価にもつながる。私は有頂天だった。
「素敵だわ!」
乳母のマリーは目を輝かせてほほ笑むと、アグネスの通学かばんをぐいっと持ち上げた。
1年分の教科書と、6年間使うであろう辞書や参考書でずっしりと重い。
極上の笑顔をたたえながら、彼女はそれを暖炉に放り投げた。炎が大きく揺れ、布製のカバンと紙の教科書が燃えた。
「え…!」
私はあっけにとられて目を見開いた。はっとしてアグネスを見ると、彼女は顔色ひとつ変えずに炎を眺めていた。ボンクラのアーチャーは、きょとんとしている。
「一緒にお勉強をする子が僻んで、意地悪されたら嫌だわ。アグネスは賢いから、学校なんて必要ないわね。おうちでハウスメイドのお勉強をしましょうね」
アーチャーが弓術や算術の大会で優勝した時と同じ笑顔のマリーに、私は戦慄した。
もっともっと小さい頃から「マリーはアグネスのことを好きじゃないのかなぁ」と、なんとなく思っていた。大好き、愛してるって毎日言うし、ぎゅって抱きしめてるし、扱いにくい巻き毛をきれいなお下げに編みこんでいる。母親のいない私にはわからないことかもしれないけれど、なお違和感があった。
アグネスはおとなしくて優秀だ。おてんばな私と違って、叱られる要素がない。
表情豊かではないけれど、勉強は好きみたい。長い公式を解き終えると、ほっとしたように目じりが下がるのだ。
そんなアグネスの教科書を、なんの躊躇もなく笑顔で燃やすなんて!
上級生の意地悪なお姉さんだって、そこまではしない。したとしても、多少は躊躇や自己弁護をするだろう。
さらに、ハウスメイド? 準貴族の娘がなんで? 職業に貴賎はないけど、平民のお仕事よ? 貴族があえて自分の娘にさせるか?
「いいわね、アグネス? ああ、これから毎日、あなたが入れてくれるお茶を飲めるのよね。幸せだわ!」
屈託のない声と笑顔。1ミリもぶれない。童話の世界の継母みたいに娘が大嫌いだとしたら、まだわかる。笑みが悦楽にゆがむはず。でも、それもない。まるで聖母のように清らかで、まなざしはどこまでも慈悲深い。
こんな狂気がこの世に、それもこんな身近にあるなんて。私はぞっとした。
アグネスは表情ひとつ変えずに「はい、お母様」とハウスメイド風に頭をさげた。プレスクールでいちばん美しいと褒められたカーテーシーは、その日から封印されてしまった。
子育てのことは乳母と教育係にまかっきりのお父様をつかまえたのは、それから1週間後のことだった。
マリーはおかしい。娘に対する態度じゃないというより、まるで仇だ。ついでに、それに慣れきってるアーチャーもおかしい。ぼんやりした性質ならともかく、むしろ繊細なのに妹への仕打ちにだけ鈍感なんて。
6歳児なりにがんばって伝えた結果、お父様は額を抑えてため息をついた。
「はぁ。そこまできてたか。治療しなくちゃなんだけど、この世界の現代医学では疾病として認識されてないんだよねえ。マリーくんの症例は。外科技術はめっちゃ進んでるのに、精神医学はからきしなんだよねぇ…」
どうしよう、お父様もわけわかんない。私は制服のスカートをぎゅっとにぎりしめた。
「ところでベロニカ。君は政治家になるんだっけ? 医者になるんだっけ?」
「はい…? ええと、あの。女医さんに、なりたいです…」
産後の肥立ちが悪くて死んだお母様は、具合がすぐれなくてもお医者さまに頼ろうとしなかったという。
男性に肌を見せたくないと言い張ったとか。お母さんが潔癖なのではなく、貴族の女性っておおむねそんな感じだ。その話を召使から立ち聞きした私は、女医になろうと心に決めた。お父様も、もろ手をあげて賛成してくれた。
お父様はもともと厚生省の役人をしていて、厚生大臣を経て宰相になった人だ。学生時代は医学を志していたのだけど、身分が高すぎて許されなかったらしい。
アグネスと一緒に学校に通うことにしたのも、「私お医者さん、アグネスは侍女兼助手」って未来予想図を、アグネスの許可なく描いていたからだ。アグネスのほうが頭がよくて器用だから、アグネスがお医者さまになるのもありだけど。うん、そっちの方が身分的に面倒がないかな。
「じゃあ、君が子供だからと隠さず、本当のことを言うよ。マリーは間違いなく病気だよ。心に重い障害を抱えているんだ。でも、体の病気やけがと違って、目で見て確認することができない。マリーは自分が病気だってことに気がついてないと思うよ」
「病気…!」
それは、全く腑に落ちる表現だった。
だって、マリーは間違いなく、アグネスを愛しているつもりだ。
行動は、憎んでいるとか思えないのに。
でも、そういう病気だっていわれたら納得できる。
「……治るの?」
「うーん。どうだろうね」
お父様は書斎の奥に行って、何やらごそごそと資料を出し始めた。
お父様の書斎には、政治と関係ない医学系の資料がなんだかいっぱいある。
「いいかい。僕は滅多にこの屋敷に戻ってこられないから、アグネスを守れるのは、君しかいない。マリーが生きている以上、15歳までアグネスの親権はマリーにある。現行の法では、病んだ母から娘を引きはなすことができないんだよ。この論文は僕が前世……いや、若いころに書いた精神疾患とその考察だ。何かの参考になると思う」
いとけない6歳児に、お父様はどっさりごっそり手書きの論文をよこした。
「ま、いざとなったらお父さんがマリーと再婚するから。多少は失敗しても問題ないさ。君は君のやり方で患者に向き合いなさい」
つまりお父様は、人道主義とか恋愛感情とかでマリーを助けたわけじゃ、なかった。
やりたかった研究の、ちょうどいいモルモットがいたぶられている現場に居合わせた。だから命を預かった。そういうことなのだろう。この人も、たいがいどうかしている。娘である私も、だけど。
私とアーチャーが学校に行っている時間は、マリーがアグネスをいたぶる時間になった。
この人は、責めたらダメだ。ますますアグネスの生傷が増える。
考えに考えぬいて、「マリーに本当のお母さんになってほしい」と、子どもらしく上目遣いで訴えてみた。
「お母様も、マリーなら応援してくださると思うの」と、外堀を埋めにかかった。
私と、お父様と、マリーお母様と、アーチャーお兄様の4人家族。
故意に、アグネスが聞こえるところで言った。「あんただけは、この魑魅魍魎の魔窟から逃げなさい」って意味だけど、まあ、本人には伝わらないよね。
この仲間はずれは、予想以上にマリーを喜ばせた。
お父様は若干げんなりしていたけれど、人を利用するってことは、何らかの責任をかぶるってことでしょ。
未来の婚約者ってことで、貴族教育が開始され、マリーの外出が増えた。3年後には正式に婚約が内定し、私たちが学校に行っている時間に彼女が家にいることはなくなった。
ただ、この作戦には、ひとつ誤算があった。
お嬢様育ちの私は、世間の人が感じる「嫉妬」とか「羨望」とか「やっかみ」に疎すぎたのだ。
強姦された過去を持つ準貴族階級の未亡人が、侯爵家出身の宰相の後妻候補にあがった。
貴族制度はゆるやかに崩壊しつつあるけれど、旧態依然とした社交界で、この再婚は歓迎されていない。
それまでマリーに同情的だった人たちの何割かが敵に回ったらしい。
まあ、最初から同情してたんじゃなくて「美人は苦労するのね。平凡で穢れていない私にはわからないんだけど」っていう謙虚の皮をかぶったマウンティングだったんだろうけど。
ヒソヒソと噂をされたり、使用人を引き抜かれたり、ひどいときは毒を盛られたりした。
気が弱い人なら候補を下りるだろうし、気が強い人なら権力や財力を利用してやりかえすだろう。
でも、マリーはどちらもしない。どこか頼りなげで、清らかに見える佇まいを崩さない。少女のように信頼しきった瞳でお父様を見つめて…やがて、違うグループに応援されたり、崇められたりしはじめた。
応援の手紙を読むときのマリーの顔は、恋をしている乙女のように輝いて、お父様といるときよりはるかに恍惚としていた。そして、アグネスに意地悪をするときは、もっともっと幸福な女に見えた。