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(私は……生きているのですか?)
桜は、まず始めにそう思った。どうやら、自分のマンションの寝室に当てていた部屋のベッドに横になっているようだった。首だけを起こして、周囲を見回す。変わったところは何もないようだった。
(あれは……夢?)
そう思った途端、口から漏れたのは「残念です」という小さな呟きだった。と。
「起きたかい?」
すぐ横から声をかけられ、桜は文字通り飛び起きた。
「誰ですっ!?」
どうやら、声の主はベッドのすぐ横で、床に座っていたらしい。ベッドの上で半身を起こした桜の目に、学校でよく目で追っている男の子の顔が映った。
「寺田君……?」
どくん、と、心臓が高鳴るのを桜は感じた。と、同時に、昨日の記憶が怒涛の奔流となって甦り始めた。夢じゃ……ない?
「あ……き、昨日は、ありがとう……」
頬が熱い。今まで味わったことのない感情が、桜の胸の中いっぱいに広がっていた。
まさに、そこは灼熱地獄と化していた。道路に面している手摺りから、紅蓮の炎が立ち上っている。その面以外の三方からは、黒煙が、屋上にいる人々を巻き込むように流れ込んできていた。煙を吸い込んで一酸化炭素中毒に陥り、倒れこむホステスも数人いた。
「冗談じゃ、ごほっ、ありません! こんなところで死んでたまるものですか!」
「桜お嬢様! あぶないっ!」
桜は、半ばやけくそ気味に隣の建物へのダイブを決行しようとしていた。青山は必死でそれを止めようと後ろから抱き付いて止める。
「ほかにどうしろというんです!?」
ほぼ正方形の七階建てビルの屋上から見える景色の、一面は炎。そして、そこから飛び出しても、地面に叩きつけられる事になる。論外だ。一面は、12階建ての雑居ビル。こちらに向いた壁には窓もなく、また、飛び移るにはビル間の隙間が広すぎる。せめて窓があれば、青山か佐々木が窓を突き破って飛び移り、そこから梯子等で全員を運び出すこともできただろうが。もう一面は、二階建ての建物である。落差が大きすぎる。残った一面は……六階立てであった。上からになるので、ビル間の隙間は飛び越えられそうではある。が、ワンフロアの階高の違いがあるのだろう、着地までには4メートルほどの高さがあった。桜はそこから飛ぼうとしていたのだが、その華奢な体では落下のダメージに耐えられそうにない。
消防隊が来ていれば、その六階建てから梯子で隊員たちが救出に来てくれたのだろう。だが、野次馬しかできない一般人たちに、そこまで機転を利かせろというのが土台無理な話だ。おそらく、隣のビルにいた人間たちも、みんな我先に脱出して、下の道路からこちらを見上げて、明日の会話の種を育てていることだろう。
(倉本……間に合わないのか?)
もう、待てる時間は殆ど残されていなかった。足元には、屋上なので雨水を染み込ませない為の防水シートが張ってあるのだが、それもコンクリートが伝えてくる熱に耐え切れずにドロドロと溶け始めている。これ以上倉本を待って、飛び降りる際の足元がおぼつかなくなるのも避けたかった。
(仕方がない、飛ぶか!)
自分と、佐々木なら飛び降りても大丈夫だろう。青山は思った。桜と、飛び降りる勇気があるホステスは受け止めて助けられる。だが――気絶しているホステスと、飛び降りる勇気が出せないホステスは見殺しにすることになる。いや、4メートルの高さから飛び降りることのできる女性など、殆どいない。たとえそれが火災現場からの脱出であっても、だ。だからこそ、倉本を待っていたのだが。彼女らを先に下ろすわけにも行かない。そして、青山と佐々木、二人が下で受け止めねば、一人では支えきれる衝撃でもない。
「すまない、みなさん……」
青山は決断した。口からぼそりと漏れた言葉は、彼自身にも言い訳だとしか思えなかった。
「佐々木! 飛び移るぞ!」
「分かった。全員来てくれる事を祈るしかないな」
どうやら、佐々木も同じことを考えていたようだ。なるほど、やはりこいつは優秀だな、と、こんな事態なのに、青山は感心してしまった。
「お嬢様。私たちが受け止めますから、合図したら飛んでください」
「わかりました……でも、他の皆さんは?」
「来てくれるなら……しっかり受け止めます。それ以上は望めません」
「そんな……」
SP二人が冷静だったからだろう、桜も今は落ち着いている。だが、落ち着いたがゆえに、青山の言葉が重く心にのしかかったのかもしれない。
――その時だ。
「ひーろーさんじょーっ!!」
その声は、燃え盛る炎の轟音を押しのけてよく聞こえた。あまりにも場違いな明るい声。殆ど半狂乱していたホステスたちも、思わず騒ぐのを止めて声のほうを振り向いたくらいだ。そして、その声の主を視認した瞳は、一様にそこで固定されることになった。そこにいる全員が思ったことだろう、あぁ、とうとう自分は幻覚を見てしまっている……
「注目ありがとうっ! さっ、とっとと脱出しようぜぃ♪」
あくまで軽い口調を崩さず、その人物は『降りてきた』。ゆっくりと。空中を。
「ウィンドレンジャー、ゴー、ミッション! いやぁ、ラッキー♪ こんなにおねぇさまたちと仲良くなれそうな火災現場ってのも珍しいよなぁ、あっはっは。」
ゆっくりと。彼は屋上に降り立った。そして、
「シルフウィングッ!」
左腕を口元に持ってきて、叫ぶ。その手首には、なにやら腕時計型の通信機のようなものが巻かれていた。いや、それよりも彼の格好である。全身にグリーンのタイツのようなものを着込み、その胸の部分にはトルネードのような金色のマークが縫いこまれている。太めでメタリックなベルトが腰を一周しており、無意味なほど機械的な印象を受けるピストルみたいな形の物体が、これまた無意味なほどゴツいホルスターに納まっていた。もちろん、ひざ下近くまである、白いロングブーツもしっかり履いている。これぞ、特撮ヒーローの原点、といった出で立ちだった。頭部全体を隠しているマスクだかヘルメットだか分からないような被り物もばっちりである。
「お、きたきた、みんな、あれが見えるか? 今からここに降ろすから、乗り込んでくれ。いーかぁ、気絶してる人が先だぞ? えーと、神楽美はいるか?」
その人物の指差す先を見上げると、いかにも特撮チックな飛行機がいつのまにかビルの上空に待機しているのが見えた。
「は、はい、ここにいます……」
いきなり自分の名前を呼ばれ、さすがの「プッツンお嬢」も困惑しながら応える。
「あ、あんたらがあのおっちゃんが言ってた佐々木さんと青山さんかな? ……ほいほい、そこ危ないからねぇ、ちょっと避けてて……よし、着陸成功♪ んじゃ、二人でまずおねーさん達を運んでもらえないか?」
飛行機が屋上に着陸する。どういう原理で動いているのか、まったくの無音であるために現実感が皆無である。
「なにぼっとしてんだよ、早くっ!」
「わ、わかった!」
あまりの事に呆けてしまっていた青山と佐々木が我にかえる。飛行機の扉が、ガルウィング状に開き、まずは気絶したホステスたちを二人が運び込み始めた。
「中は結構広いから、操縦席以外だったら、どこに寝かせてもかまわないぞ。」
二人にそう声をかけると、その人物は残っている女性たちを振り向いた。
「はい、んじゃ、パニック起こさないようにね? みぃんな助かりますから、いーですか? 気絶しちゃった人がみんな運ばれたら、ゆっくりと乗り始めてください。あせる必要はありません。もちろん、これは夢じゃないからね。ほんとにみんな助かります!」
小学校の低学年の先生のような口調で、言う。その、自信たっぷりの言葉に、ようやくホステスたちの表情に安堵の色が見え始めた。
「あと、神楽美」
「は、はい」
「お前がいてくれて助かった。じゃなきゃ、俺は火事のことも知らなかったからな。でも、あんまり無茶はするな。それと、あとで話があるから」
「あ、あの……」
学校で自分を抑えているとき以外、桜がここまで会話のペースを取られることはない。この特異な現状では仕方がないことなのだが、彼女はこの違和感をなんだか心地よく感じてしまっていた。そして……
「その声……寺田君なの?」
「あっ!!」
その声は、桜の少しだけ気になっている人の声によく似ていた。だが、桜の知っている寺田学という人物と、その特撮ヒーロー風な人物とは、背格好こそ似ていたが、まったくの別人だ。彼がこんな言動をするとは思えない。それに、ヒーローの正体と目されていたのは佐伯龍威だったのではないだろうか? どちらにしろ、彼は桜の事を知っている人物であることは確からしいが……
思わず桜が言葉にしてしまった問いかけに、しかし彼はものすごく驚いたようだった。そして、桜には意味のわからない呟きをもらした。
「……やべ、戻ってなかったな」
「え?」
「あぁいや、そこんとこも後で話すから。おっと、ほら、後は俺達だけみたいだぞ、乗った乗った」
そう言うと、彼は桜を軽々と抱きかかえた。通称「お姫様抱っこ」と呼ばれる体勢である。
「ちょっ、ちょっと、困ります! 自分で歩けますから!」
「いやいや、このくらいの役得はもらっとかないと♪」
「やく……とく?」
「そらぁ、こんな可愛い子を抱っこできるなんて幸せだぁね♪」
「……」
とうとう桜は何も言えなくなってしまった。彼の声が、混乱に拍車をかける。彼女の顔が真っ赤なのは、燃え盛る炎の照り返しだけではないだろう。その証拠に、彼女の心臓は壊れんばかりに脈打っていた。
ヒーローに連れられ、飛行機の中に入ると、そこは先ほど彼が言ったとおり、思ったよりも広かった。20人ほどが乗り込んでいるこの状態でも、かなりのスペースが空いている。まるで、飛行機の形の内側がスッポリと空洞になっているような、そんな印象すら受ける。
(これではエンジンも納まらないんじゃないかしら……? 一体どんな原理で動いているの?)
そんな疑問を桜が覚えていると、彼は優しく桜を降ろしてくれた。そんな仕草一つ一つにどぎまぎしてしまう。
「みんな、そこら辺に適当に座っててくれよ。」
その言葉に、桜は青山と佐々木が座っている所へと移動した。二人とも相当疲労が溜まっている様だ。さすがにあの緊迫した状況で、女性とはいえ人間を何人も抱えて歩くのは疲れるようだ。
「何を言われたんです? 彼は佐伯君なんですか?」
「……分かりません。後で話があるとだけ」
青山が心配そうに尋ねてくるのに、答える。
ヒーローは、操縦席らしいところに立っている。本当にテレビの特撮戦隊モノの忠実なパロディのように、そこには椅子がなかった。それどころか、操縦桿のようなものも見当たらない。半円形のテーブルのようなものがあり、その上に水晶玉のようなものが乗っているだけだ。彼がそれに手を乗せると、音もなくふわりと機体が浮かぶ。
「なんだってんだよなぁ、これって……」
佐々木がぼやく。気持ちは分からないでもない、と、桜は思った。いや、まったく彼女も同じ気分だった。これは、明らかに科学の常識を無視した幻想だ。
と……
急激な眠気が、桜を襲った。緊張していた気分が緩んだからだろうか? いや、いくらなんでも突然にこんな急激な眠気に襲われたりするだろうか?
しかも、異変が起こったのは桜だけではないようだった。気付くと、ホステスたちの殆どがすでに寝息を立てている。わずかに意識を保っているのは、桜たちと数人のホステスだけのようだ。
ヒーローの方に、何とか視線を向けると、彼はこちらに首だけ向けてその様子を確認しているようだった。
(これも……彼の力なの?)
桜が意識を保っていられたのはそこまでだった。眠りにつく瞬間、そういえば昔読んだバトルロワイヤルの始まりかたってこんな感じでしたね、と、桜はぼんやり思った。
「さてさて、後はマナブを拾ってかなくちゃな」
そんな声が聞こえた気もしたが、よく分からなかった。
「まず、その誤解を解かなくちゃな」
学はそう言った。今はベットの横に立ち上がっているので、桜が起き上がる必要はないのだが、また横になるのも失礼な気がするし、何より気恥ずかしいのでそのままの姿勢を保っていた。
「誤解……なにがです?」
いま、桜の目の前にいるのは寺田学だ。そして昨日、桜たちを助けてくれたのも、学のはずだった。だが、彼は奇妙なことを言い出し始めた。
「神楽美、悪いが俺は寺田じゃない。佐伯龍威だ」
「……え?」
意味が分からない。確かに、昨日まで桜自身もそう考えていたのだが。
「ちょっと驚くかもしれないが、良く見とけよ?」
そして、彼はその形を変え始めた。