1-3
「この画質では良く確認できないな……」
暗い空間に、モニターの明かりだけがぼんやりと広がっている。写っているのは、幼稚園の火災現場での監視カメラのビデオ映像である。その光に照らされて、座っている男性、そして、その後に控える女性の姿が確認できる。
「……物凄い勢いで、煙が発生していましたので。『彼』が現れるのがもう少し早ければ、完全に確認できたと思うのですが」
男性の、残念そうな呟きに女性の声が答える。
男性は、壮年と呼ぶのが相応しいと思われる年齢のようである。ブランド物のスーツを着ているが、ほとんどの日本人男性がそうであるような、「着せられている」という印象を感じさせない。また、その体躯はがっしりとしており、服の上からでも鍛えられている事を確認できる。髪の毛には白いものが混じり始めているが、それを含めても全体的に若々しいと言えるだろう。
女性の方は、二十代半ばであろうか。こちらも上下をスーツで決めている。少女のものでも、熟女のものでもない美貌、とでも言うのだろうか。街を歩けば、男性の視線を一身に集めうるであろうルックスと、ボディラインである。ただ、全体に知性が強過ぎる印象を与える。髪のまとめ方や、メガネの選び方などは、自らをキャリアウーマン然と律しているかのような感じも受ける。喋り方にしても、完全な標準語のイントネーションなのだが、完璧過ぎてどこかおかしい、そんな印象すら覚えさせてしまう。
「……ふむ。まぁいい。その、佐伯という青年が正体である可能性が高いのだな?」
「はい。目撃者のほとんどに写真を見せて確認しておりますので、まず間違い無いと思われます」
「わかった。監視を続行してくれ」
「……かしこまりました」
佐伯龍威は、いつものように、普通に目を覚ました。
あの火事から二日経っている。にも関わらず、彼の身辺は静かな、いつもの日常と変わりない様子を保っていた。
あれだけ大きく新聞の、しかも一面を飾った記事の反応としては、あまりにも無反応すぎる。もちろん、マスコミその他、警察機構に至ってまで、総て神楽美正隆の命令で動きを止められているのだが、その事を彼は知らないはずである。
昨日、寺田学からあの後すぐに電話があり、今日は一緒に街に出て遊ぶことになっている。
「今日が勝負かなぁ……」
謎めいた言葉を呟きながら、ベッドから起きあがる。1Kのアパートに一人住まいである。ベッドを降りると、すぐに部屋全体を見渡す事が出来た。何もない部屋だ。本棚の上の電話も、学校の連絡事項でどうしても自宅に電話が必要な為に、やむなく置いてある、といった印象を受ける。あとは、テレビと、その小さな本棚だけ。本棚の中には、科学雑誌がびっしりと並んでいる。本来、高校一年生が読んでも、何が書いてあるのか全く理解できないような、全世界の学会の最新レポートが載っているような類のものだ。
ベッドの上に立って、ベランダのカーテンを開ける。すっかりと夜は明けて、空にはもう赤い色は見えなくなってきていた。ふむ、と、龍威は自分の姿を眺める。学校の制服のままだ。一昨日の終業式のままである事に、今ごろ気付いた――そんな感じの動作であった。
「さすがにこのカッコじゃマズイか……」
服を見つめたまま、なにやら軽く集中したようだ。と……
「……こんなもんかな?」
一瞬後に、龍威の服装はすっかり変わっていた。上は、胸にワンポイントのYシャツに、下はジーンズのパンツ。ラフな青年の出来あがりである。
「あとは……」
さらに異変は起こる。龍威が見つめた所に、ブレスレット、リング、ソックスなどが次々と現れるのだ。
「相手が寺田だからなぁ。も少し派手目のほうがイイか?」
そう言いながら、両手を少し上げて何かを持っているようなポーズになる。と、その手の上に財布と携帯電話がそれぞれマジックのように突然現れた。
「いっか。アイツあんなでも、おとなしい服着てくるんだろうし」
ニッと、少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。そして、財布と電話をポケットに入れると、龍威は部屋を出ていった。
主人のいなくなった部屋は、先ほどまで起こっていた異常な光景に驚くでもなく、ただ静寂をその中に漂わせ始めた。
「お、ようやく動いてくれなすったぞ」
倉本が、双眼鏡を下ろしながら嬉しそうに言った。桜の命令で、龍威の監視をしていたのである。青山も一緒だ。佐々木は、心底情けない顔をしながらも桜の護衛に残った。今頃は我侭に振り回されて、泣いているかもしれないが、倉本にとってはどうでも良い事であった。
「青山、プッツンお嬢に連絡入れといてくれ」
「……俺が?」
顔をしかめながら、青山。彼も、いきなり発砲された相手に対して、良い印象は抱いていない。懐には既に辞表を隠しているが、膨大な報酬の魅力の前に出す事をためらっている最中である。
「辞めるのは構わんが、まだ辞めちゃいないんだ。仕事はちゃんとしろよ。俺はマトを追うから、お前は『連中』の動きを見といてくれ。お嬢にも伝えておいた方が良いかもしれんな」
「……わかった」
渋々うなずく。
「じゃあ行って来る。頼んだぜ」
一言そう残すと、倉本は龍威の後を追い始めた。
「倉本と佐々木と俺と……誰が貧乏クジだったのか……いや、全員なんだろうな、きっと」
嘆息すると、青山は携帯を取り出して、桜に連絡を入れ始めた。その視線の先には、彼と同じようにどこかに連絡を入れているのであろう、携帯を持って龍威へと視線を走らせている、不審な二人組の男が居た。
「どこかに、神楽美に喧嘩を売ってる連中が居るという訳ですわね?」
桜の声音が、不穏な低さで発せられた。佐々木はもう、気が気ではない。泣きそうである。
「その者たちの構成は? ……そう、では、私達も動いた方が良さそうですわね」
そう言うと、携帯を持ったまま、桜がこちらを振り向いた。佐々木はビクリと体を震わせる。少し漏らしたかもしれない。
「SP3号、出かける準備をしてください。2号は、そのまま彼等を見張っていて下さい。後で合流いたします。くら……1号はしっかり追っているのですね?」
(うぅっ、やっぱり俺が一番ランクが低いぃぃ)
あの時、気絶したままだった青山よりも低い番号で呼ばれる事に、どこか釈然としないものを感じつつ、あたふたと部屋を出て行こうとする佐々木に、そこで桜から声が掛かった。
「3号! 2分以内に準備して下さい! 分かってますね!?」
「は、はいぃぃ!」
今度は確実に股間に濡れた感触を覚えながら、佐々木は逃げるように部屋を飛び出した。
「あ、あのぉ……」
恐る恐る、といった面持ちで――いや、実際にそうなのだろうが――中年の女性、俗に言うおばちゃんが、二人に話しかけてきた。
またか……と、学は思った。相手の目が、ちらちらと自分を伺う所まで、既視感を通り越して、預言者の様に分かる。自分の容貌を理解しているので、解らなくも無いのだが、普段は経験する事の無い状況なだけに、こう何度も続くと、やはりストレスを感じてしまう。
「あー、待って。別人っスよ。ほら、火事のアレでしょ?」
おばちゃんに先んじて、龍威が答えた。もう何度も間違えられて、いい加減うんざりしている……そんなニュアンスも口調に絡ませている。学校ではいままで見た事の無い、やけにフレンドリーな雰囲気の龍威に、先ほどから学は唖然とさせられっぱなしなのである。
「俺もねぇ、ニュースで見てビックリしたんスよぉ。自分がヒーロー呼ばわりされてるんスもん。」
(これだけ何回も呼び止められてるのに、なんであんなにニコニコ出来るんだろう?)
実は、学は待ち合わせの場所で龍威に会った時に、「歩いてる時に誰かから呼び止められても、マナブは黙ってて良いからな。俺が全部軽くあしらうから」と、言われていた。そうでなかったら、こうやって黙ってみてはいなかったかもしれない。特に、ちらちらと脅えるように(同世代の女の子の場合は、もう少し違った感情が含まれているような気もするが、それが何なのかは学には分からなかった)自分を盗み見る行為には、段々イライラさせられ始めている。
「そんでね、へへ、こうやって街を歩いてたら、可愛い女の子とかから声掛けられないかなぁ、なんて甘い期待を胸に秘めてるんスよぉ。でもダメっスねぇ、コイツが居ると怖がって、女の子、近寄って来やしないんスもん」
(またその台詞使う~。このおばちゃん本気にしてるじゃないか)
龍威は、年配の人間には今日ずっと、同じようなことを言って煙に巻いて来ている。逆に、その「可愛い女の子」がきた場合には、学でさえ眉をしかめるような下品な口説き文句を使って追い払っていた。先程などは、激怒した女の子に平手をくらい、黙って横に立っていただけの学も、ついでにはたかれてしまったのだ。右の頬にはまだクッキリと紅葉型の赤い模様が残っている。
「あらあら、私は可愛くないのかしら?」
龍威の軽さにほだされたのか、おばちゃんはそう言って楽しそうに笑っている。年配の女性の場合、このパターンか、あるいは自分の思い違いを認めてすぐに立ち去って行くかのどちらかであった。
「いえいえ、とんでもない! でもなぁ、そーだなぁ、あと十年、出会うのが早かったらなぁ。あ、そん時は俺がまだガキだったんだ、あはははは!」
(でも、確かに……)
相変わらずの口調でおばちゃんの相手をしている龍威を見ながら、学は思った。――確かに、この姿を見せられたら、誰もが人違いだと思うだろうな。でも……それならなぜ、佐伯くんはわざわざそういう姿を人前に晒そうとするんだ?
普段の学校での龍威の姿を知っている学には、そこが引っ掛かる。今日だって、学に話し掛ける時にはいつもの龍威なのだ。しかも、学の口出しをさえぎってまで、軽いナンパ男を演じている……
(もしかすると……本当に佐伯くんが?)
「おぅ、待たせたな。あのおばちゃん今までで一番しつこいんだもんなぁ」
思案に耽っていたため、龍威の声が自分に向けられてる事に気付くまでに少し間があいてしまった。いつのまにか、おばちゃんの姿は見えない。
「え? ……あ、うん、そうだね」
「なんだ? ボーっとして。暑いから日射病にでもなったか?」
「いや……」
(今、ココで聞くべきかな?)
元々、学が今日、龍威と遊ぶ約束をしたのも、真相が聞きたかったからである。そう言った理由でも無ければ、人ごみも、他人の視線も苦手な学が、誰かを誘う事などありえない。
(でも……)
もし仮に、龍威が噂のヒーローその人だったとして、正直に答えてくれるだろうか? これで答えてくれるくらいなら、さっきのおばちゃんのような質問者に対しても、正直に答えるのではないだろうか?
「……あのな、マナブ」
「……え?」
不意に呼ばれて、学が龍威のほうを向くと、そこには、妙に真面目な龍威の顔があった。
「な……なに?」
シチュエーションがあまりにもそれらしかったために、学は自分の鼓動がかなりのスピードに高まっている事を自覚した。やはり、そうなのだろうか? 佐伯龍威は、人知れず悪と戦ってきた正義のヒーローなのだろうか?
「実はな……」
「う、うん……」
ごくり、と、唾を飲む音が聞こえた。聞こえた事で、学は自分がみっともないほど緊張している事を、また自覚させられてしまった。龍威はまだ、真面目な顔で学を見据えている。
(これで、『俺はおまえの事が好きなんだ』とか言われたらどーしよ)
しょうもない考えがふと頭をよぎったりする。追い詰められた人間が良く陥る現象だと、テレビで心理学の権威とかいう大学教授が、偉そうに講釈していた事を思い出したりもする。
(要するに……僕は今、精神的に追い込まれてるってことだな)
そう思いながら、学は龍威の次の言葉を待った。