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ざむっ、という音が聞こえた。下にいる女性(ヴィーナスとか名乗っていた。オリンピアの支部長だとも)と、なにやら話をして、龍威は突然変身を解いた。その後、また一言二言会話した後に、奇妙な沈黙が訪れて――ざむっ、である。
学はまず目を凝らし、そしてその目を疑った。
最初は、変身を解いて露になった龍威の首に、細い線のようなものが見えたのだ。何かと思い目を凝らし、そして学は見た。その線を挟んで、龍威の首から上と下が、ずれていくのを。
「りゅういぃぃぃっ!」
学が叫んだ時、佐伯龍威の首が、ごとんと床に落ちた。
奇妙な沈黙が訪れた。ヴィーナスの表情は、龍威の方を見上げているので桜からは分からない。なぜ、いきなり龍威が変身を自ら解いて見せたのかは分からないが、彼なりの作戦があるのだろう。こちらの意思も伝わっているみたいなので、今まで通りヴィーナスの動きに注意を向けておく。もう少し近づいてくれれば、転がって行ってヴィーナスの足を引っ掛けても足枷に邪魔されない範囲になる。成功すれば、龍威のことだ、一気に片付けてくれるに違いない。
……もう少し、もう少し……
――ざむっ
(……え?)
とてつもなく不吉な音が聞こえ、桜は思わず視線をヴィーナスから外し、音のした――龍威の方を見上げた。奇妙な風景だった。遠近感覚が狂ったように、龍威の首から上だけが、少しづつ近づいてきた。だが、突然その進行方向が変化し――佐伯龍威の首は、桜にとって天井であり、彼にとっては床である、厚めのコンクリートの影に、消えた。
「りゅういぃぃぃっ!」
学が叫ぶ声が聞こえたが、桜は何も声が出なかった。否、出せなかった。
――やった、やってしまった!
由香里は自分に恐怖していた。
彼女は空気を操れた。自分の視界に届く範囲であれば、その空間の空気を圧縮させ、目に見えないほどに薄い板を作り出すことが出来た。圧縮された空気は硬度が金属並に高く、使い勝手の良い能力であった。
オリンピアに入信し、自分も奇跡を使えるようになるかもしれないと、高価な「聖水」を毎日購入し、飲み干した。言われるがままにヨガのような「修行」に打ち込み、そして、この能力に目覚めたときには気分が高揚し、世界は自分中心に回っているのだと思った。
ゼウスに面通しされ、ヴィーナスという幹部名を与えられた。その名に恥じぬようにと、何度も美容整形を重ねたりもした。今までの日陰者としての半生がやっと報われる日が来たのだと喜んだ。
ゼウスの元で、様々な「仕事」をこなす日々。なんでもやった。なんでもやりたかった。顔も知らぬ誰かの私邸への侵入はお手の物だった。鍵穴を覗き込み、力を使い、ノブを回せば扉は当たり前のように開いた。赤外線防犯装置は、光を屈折させる角度さえ間違えなければ、由香里の足を止めさせるほどの装置ではなかった。角度を完璧に曲げ合わせる感覚も、数回の訓練で手に入れることが出来た。要人の誘拐も、恐喝も簡単だった。巧みな洗脳と、犯行の回数が重なることで、由香里の心にはついに一度も、罪を犯したことへの罪悪感が芽生えることが無かった。
由香里の地位は、オリンピアでも稀に見るほどのスピードで上がっていった。報酬も嘘の様に大きくなり、生活苦に悩んでいた昔のことなど忘れてしまうほどの額に成長した。そして、由香里にも欲が出た。オリンピアを自分のものにしたい。それを足がかりに、全人類に自分の凄さを知ってもらいたい。そう思うようになった。
だが、駄目だった。いつだったか、自分の心を隠したまま平静を装いゼウスの部屋へ赴き、彼に対して能力を使っても、あの男は平然としていた。「ん? 何か用かね?」そう聞いてくる男に、落胆しながら「いえ、何でもありません」と応えたときのあの虚しさは、筆舌に尽くしがたい。
その後、由香里はこの支部へと派遣され、支部長の地位を得た。オリンピアの規模拡大のために、自分の地位を守るために、以前の熱心さはまったく消え失せてはいたが、黙々と実務をこなしてきた。
だが、今、由香里は知ったことがある。
(私は、いま、自分の意思で、自分の能力を使って、初めて人を殺した!)
それは、由香里にとって初めての殺人であった。殺人の命令を下したことはあった。自分が死ぬことに対する恐怖感も持っていた。だが、今まで一度も自分の手で誰かの命を奪ったことは、無かった。それどころか、人の命が消える瞬間を見たことも無かったのだ。
「あぁ、あぁぁ……」
口から意味の無い声が漏れる。佐伯龍威の首が、自分に向かって迫ってきたときの映像が、スローモーションで何度も脳裏にリフレインした。
(だって、他に勝てる方法が浮かばなかったんだもの! 負けたくない! 怖い! 死にたくない! 怖い! 殺したくない!)
自分が自分じゃなくなる感覚が襲ってくる。平衡感覚も、言語思考も、感情も、全てが喪失しそうになる。だが、このままでは……
(私も死ぬ! 殺されてしまう!)
恐怖に潰されそうな意識を、更なる恐怖が縛る。
(死にたくない、死にたくない、死にたくないっ!)
――そこにいるのは、もはや「ヴィーナス」ではなかった。洗脳によって作られていた心のバリケードは無残にも破られ、繊細で地味で内気だった頃の――しかも、その繊細な心に致命傷を受け半狂乱に陥ってしまった――田中由香里が、そこにいた。
桜は龍威の作戦を了解した。すぐさま行動に移す。ヴィーナスは龍威の死に動揺しているようだった。今しかない!
「寺田君、風を!」
風貌に似合わず優しくて繊細な学が、ちゃんと反応してくれるか分からなかったが、桜は叫んだ。
学は桜が叫ぶよりも先に行動を起こしていた。龍威の作戦とか、敵の動揺とか、そんなことは学の頭には無かった。目の前で人が殺されたのだ――目の前で友達が殺されたのだ!
桜の声が耳に入ってくる頃には龍威の首なし死体の横に――地下への入り口のふちに立つ。そして、桜の言葉が終わらぬうちに叫び始めていた。
「ジンブリザード!」
ごうっ、と風の音がエントランスに響き、密封された空間である地下へ放たれた風が行き場を失い跳ね返ってくる。その「返り風」に自らが吹き飛ばされる格好になりながら、しかし倒れ際にしっかりと目の端に見えた光景は、突然の突風でよろめき倒れる女性の姿だった。
佐々木を我に返らせたのは、桜の叫び声であった。学はすでに走り出しており、5歩ほど遅れて佐々木も続いた。さらに遅れて、青山が付いてくる足音も確認する。エントランスが広いとはいえ、目的の場所までは十数歩。先にたどり着いた学が、突風を起こし倒れるその間隙をついて、入れ替わりに佐々木が入り口の淵に立った。
「ドライアードウィップ!」
叫びながら、目標を探す。60センチ四方の入り口から見えたのは、倒れている女性と立っている女性。佐々木が狙いを定めたのは――
ごうっ!
一瞬だけ、轟音が地下にいる二人の耳を襲う。長い間停滞して淀んでいた空気が、強制的に入れ替わりを余儀なくされ、地下室全体の空気が競うように暴れまわる。
「きゃあっ!」
ヴィーナスが初めて発した感情込みの悲鳴が聞こえ、桜の目の前でヴィーナスの体が倒れ掛かってくる。勝負は一瞬だった。賭ける。
――じゃらっ!
足枷から伸びる鎖が、桜の脚の動きにあわせて蛇のように脈打った。仰向けになっていた桜が、腹筋の力だけで足を上げ、その反動を使って飛び起きる!
倒れるヴィーナスと正比例の美を醸し出しながら、ヴィーナスの背が床に叩きつけられるのとまったく同時に、桜の足がしっかりと床を踏みしめた。そのまま桜の足がもう一度、鎖の尾を連れて飛び上がる。
――ビン!
床に打ち付けられた楔と、桜の足に食い込んでいる枷を繋いでいる鎖が、斜めに伸びきり悲鳴を上げる。
「とどけぇぇぇ!」
桜の口から猛る意思の叫びが轟いた。
由香里の混乱はピークに達していた。
突風に倒され、目を開けた瞬間に由香里の視界に飛び込んできたのは、不気味な植物の蔓と、鬼神の如き表情の神楽美桜だった。
「くぅ!」
動いている標的に対して、彼女の得意とする「空気の檻」は使えない。あれは、一枚の空気の板を静止している相手の体に合わせて巻きつけるような感覚で使う技なのだ。神楽美桜には足枷がある。彼女の体当たりが自分に届くまでは、もう数センチ鎖が長くなくてはいけないはずだ。一瞬でそう判断し、由香里は自分めがけて伸びてくる蔓を防ぐべく、空気の板をそちらに発現させた!
キン!
甲高い音が室内に響いた。佐々木は自分の狙いがしっかりと的を射た事に満足し、青山に場を譲るためにそこから飛び退いた。着地したときに、気絶していた人相の悪い警備員を踏んづけてしまったのは、この際ご愛嬌というものである。
由香里は、自分の作った空気の防壁が不気味な蔓を防ぐ所を想像したが、蔓は壁に衝突する寸前に、急激に角度を変えた。
「!!」
完全に虚を突かれ、なすすべも無くただその蔓が伸びる先を目で追う。
「しまっ……!」
キン!
金属音が室内に響き、神楽美桜の跳躍をギリギリの所で邪魔していた鎖が切断される!
神楽美桜と由香里の距離は、すでに能力を使う時間を由香里に与えないほど肉薄していた。
ごん。
地下室に代わる代わる響いた一連の効果音のラストを飾ったのは、その鈍い衝突音だった。




