2-6
『観てたわよ~、あんた、何おっぱじめる気?』
廊下に出て通話状態にすると、もしもしの挨拶もなく、スマホが話し掛けてくる。桜が答える間もなく、声は続く。
『それにしても、寺田クンだっけ? イイわね、彼♪ もうキスくらいはしたの?』
「ちょっと、椿お姉さま! なんですかいきなり電話かけてきて」
東京の実家か、もしくは大学のキャンパスからだろうか、どちらにしろ、ニヤニヤしている姉の顔が容易に想像できて、桜はゲンナリした。
『なんですかはないでしょう? 可愛い妹を心配してる優しいおねーさまじゃない。パパ、あれ見て寝込んじゃってるわよ?』
あれ、とは、先ほどの記者会見のことだろう。正隆に話を通す前に、こちらで勝手にやってしまったことなので、正隆が寝込むのも無理はないかもしれない。
「仕方がなかったんです。お父様には悪かったと思いますが……これも、身の安全のためですから」
『その言葉そのまま伝えたら、パパ、入院しちゃうかもね。なに? なんかごたごたしてんの?』
「探偵志望の割には、世事に疎いんじゃありませんか?」
椿は、つい先日起きた某代議士殺人の現場にたまたま居合わせており、犯人が苦心して考えたトリックを暴いて、大学では一躍有名人になっているらしい。
『わ、可愛くない妹だこと。ちゃーんと知ってますよーだ。例の変身ヒーローでしょ? だってあんた、さっき結局何にも情報公開しなかったのと同じじゃないの』
「携帯電話って、盗聴される可能性高いですから、言えません!」
『なにー、そんなやばい相手なの? 応援しにいこっか?』
そんなことになったら、もっとややこしい事態になってしまいます! とは、桜は言わなかったが、口に出してはこう言ったので、内心はそのまま姉に伝わったかもしれない。
「けっこーです!」
『うー、面白そうなのにぃ』
この妹にして、この姉あり、である。
『で? 寺田クンと佐伯クン? どっち?』
「な、なにがですか?」
『桜チャンの、初恋の君♪』
「知りませんっ!」
家庭用電話機だったら、受話器を叩きつけて切るところだが、スマホを投げるわけにもいかないので、忌々しげに睨みながらオフをタッチする。まったく、なんでも首突っ込みたがるんだから、と、桜が自分を棚に上げた感想を抱いていると、不意に背後から声をかけられた。
「どうしたの? ずいぶん怒ってるみたいだけど……いたずら電話?」
学だった。
(た、タイミング最悪です!)
「か、顔が赤いのは、お姉さまのせいですから!」
「え?」
言ってしまってから、その言葉が意味不明なものであることに気付く。案の定、学はきょとんとこちらを見つめている。
(あ゛あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁ! 私のバカ!)
最早、ゆでだこ状態になった桜を見て、学が心配そうな表情になる。
「あの……ホントに大丈夫?」
いまにも、桜の額に手を伸ばして来そうな勢いである。鈍感ゆえに、女子に接するときも男子相手とまったく変わりない学らしい。
「なんか、凄い顔赤いよ? 熱でもあるんじゃ……」
「ほ、本当に何でもありませんから!」
猛ダッシュ、だった。きっと、学は後ろであ然としている事だろう。逃げ込むべく部屋のドアを開けると、中で龍威と倉本がドアに耳を当てていた。
「おーまーえーらーはー!」
「いやいや、青春じゃのう」
「お嬢って意外と純情なんだなぁ、SP1号、しっかりと記憶いたしました」
「くぅー! 悔しい~~~~!」
学がそばにいるために二人を殴ることも出来ず、桜はとりあえずその場から脱出するために踵を返して、女子トイレ目指し走りだした。
「明らかにヘンだよなぁ、神楽美さん……」
呆然と桜を見送り、学は呟いた。夏休みに入ってから、桜にしろ龍威にしろ、学校では見せなかった色々な面を学に見せてくれる。おかげで、ことの重大さを忘れそうになるくらいである。
「おーい、マナブぅ、神楽美追っかけなくていいのかぁ?」
桜が開けたドアの影から、ひょこっと龍威が顔を出していってくる。その横には、倉本の姿も見える。
「やっぱり、熱がありそうだよね? あんなに走っちゃ悪化しちゃうかも知んないし……」
「王道なやつだなぁ」
龍威が呆れたように言うのだが、学にはやっぱり意味が分からない。
「おうどう? なにそれ?」
「いや、いい」
今にも吹き出さんばかりのニヤケ顔である。憮然としていると、廊下の反対側から青山と佐々木が帰ってきた。
「あれ? お嬢様は?」
「学に泣かされて出てったよ。たぶんトイレ」
「えぇ? 僕が悪いの?」
「あぁ……なるほど」
「って青山さん、何で納得するの!?」
「いーんだよ、寺田先生! 先生は待っていればいーの!」
どうやら倉本は学をからかう時には先生と呼ぶようである。からかわれている当人が、理由を思い当たらないので気付いていないが。
「ってな訳で佐々木、お嬢を呼んできて」
「また俺ぇ? なんか損な役回りばっかな気がするぞ」
「俺と佐伯はお嬢に嫌われちゃったもん、なぁ?」
「そーそー、青山さんは会議の準備、マナブが行ったら神楽美また逃げちゃうし」
「ったく、チームワーク良いのか悪いのか……」
仕方なしに、佐々木が桜を呼びに行く。
「そいえば、倉本さんは何で残ってたの?」
学が素朴な疑問を口にした。青山と佐々木は神楽美警備保障の支社に赴き、特殊科学班の拠点作りと、オリンピアのデータ収集をしてきたのだ。桜のマンションよりもこちらの方が近いということで、まだ全員ホテルに残っている。もちろん、最上階のスウィートであることは説明するまでもない。各フロアに部屋内以外にもトイレが設置してあるので、桜は恐らくそこにいることだろう。龍威と倉本は、面白そうだからと報道スタッフの見物をしていたらしい。
「まだ、倉本と組んで短いんだが……」
と、青山が説明した。
「ひとつ、分かったことがある。倉本はパソコンが苦手だ。」
「ははは、悪ぃね」
まったく悪びれた様子もなく、軽い口調で倉本が答える。
「会見前にも三人で行っただろう? その時、こいつ、危うく全部のデータ消しかけやがった」
「ずっと傭兵暮らしやってたもんで、文明機器には疎いんだよ」
『傭兵?』
いきなり出てきた衝撃の過去に、思わず倉本以外の全員の声がハモった。
「お、そんなに珍しいか? 中東に行きゃ、まだまだいるぞ。そりゃ日本人は滅多にいないけどな」
「宇宙人に傭兵か、なんでもありだな」
「佐伯君が言うと、冗談に聞こえないから」
「なんでまた傭兵に?」
「いやぁ……なんか戦場で闘う男ってのに憧れて」
「しかも安直だし」
「うぅ、悪かったなぁ」
「それがまた、どうして神楽美さんのところに?」
「先生、矢継ぎ早ですなぁ。いやさぁ、傭兵ってやってみたは良いんだけど、思った以上に面白くなくって。自分たちがドンパチやってることに理由を求めないからさ。」
「そりゃあ、傭兵だからなぁ」
青山が当然だというように頷く。傭兵というのは、もちろん雇われ兵隊である。お金をもらって戦うのだから、その戦争の意味などは彼らには関係ない。
「んで、つまんないし、それなりに金も貯まったから、いっぺん日本に帰ろうってんで帰ってきて。しばらく遊んでたら金がなくなって。神楽美がSP募集してたから試しに受けたら、受かったんだなぁこれが、世も末だ」
「自分で言うな」
「そりゃ、傭兵経験者は他にはいないからなぁ。受かるはずだよ」
青山が突っ込み、龍威が頷く。
「んで、ちょうど空きがあるからって、お嬢の護衛が回ってきたんだな。最初はとんでもない仕事だと思ったんだが……もっととんでもなくなったな」
「最初? だって、巻き込まれるまでは、言っちゃ何だけど楽な仕事だったんじゃないんですか?」
「先生、まだ知らないからなぁ……お嬢や青山たちが何で火災現場にいたと思う?」
「え……偶然じゃないんですか?」
学が青山に向き直る。
「偶然、我々があんな場所にいる理由は何か思い当たるかい?」
逆に、青山は学に問い掛けた。学は絶句する。青山が続ける、苦笑しながら。
「お嬢は、ああ見えて結構イイ性格をしておられる。オリンピアがどういうつもりで佐伯君を狙っているのか分からないが、お嬢は単純に興味から、佐伯君に接触を図ろうとされたみたいだな。結果、オリンピアのあの二人……近藤と田口か? あの二人が、佐伯君を尾行していることを知った。で、倉本に佐伯君を追ってもらいながら、我々は二人の後をつけていた訳だ」
「そうか……僕と一緒だ。僕も、さえ……リュウイの正体を知りたかった」
「マナブ、お前が落ち込むことはないぞ? ここまで騒ぎを大きくしたのは、結果的に俺なんだから。長く生きてるからって、俺も完璧じゃない。が、やっぱ、最初に姿を見られちまったのは失敗だったな。俺は、パンドラの箱を開ける人間が、開けない人間よりも好きだ。まぁ、開け方にもよるが。オリンピアのやり方は、ちっと気にくわねぇな」
「本当に巻き込まれたのは、要するに俺と青山と佐々木だけってことだな。俺は楽しいから良いけどよ」
倉本が笑いながら言い、ふと、気がついたようにドアを見つめる。
「そういや、佐々木のやつ遅いなぁ」
ちょうど、タイミングを計ったかのように、ドアが開いた。
「桜お嬢様がいない……どこにもいないぞ?」
息を切らしながら、佐々木が苦しそうに伝えた。
「まさか……オリンピアか?」
「ああぁ! しまった!」
青山が呟いたとき、龍威が叫んだ。
「どうした?」
「やべぇ……そういえばまだ、こいつの使い方教えてなかった……」
そういって、龍威は腕に嵌めた機械を触った。
「まずったな……もし、お嬢がやつらの手に落ちたのなら、かなり分が悪い勝負になってきたぞ」
倉本が珍しく真剣な面持ちで呟いた。
「そんな悠長な……」
学が、非難がましく倉本を睨む。
「早く助けに行かないと」
「待つんだ、にーちゃん。いま闇雲にお嬢を探しても、どうしようもない」
腰を浮かしかけた学を、倉本が制する。
「でも!」
「いーから、待つんだ。お嬢は神楽美の娘だ、やつらも迂闊に傷つけるわけにはいかない筈だ」
落ち着いた低い声で、倉本は諭した。
「戦うには、まず敵を知ることだ。怪しい宗教団体ってだけの情報じゃ、どうにもならん。青山、オリンピアの概要を頼む」
「わかった」
青山がすばやく全員分の資料を配りはじめる。佐々木も席につき、桜の分だけテーブルに資料が残った状態で、青山が説明を始めた。
「オリンピアの教義は、ゼウスを最高神とした楽園を地上に作り上げることだそうだ。新興宗教の教義としては良くあるものだが、一度入信した信者が退会したことは、今まで一度もないらしい。ウチの警備員に頼んで、何人か信者の話を聞いてもらったのだが、彼らは口を揃えてこう言うそうだ。……『本当に、彼は神なんだ』、と」
時はほんの数分だけ遡る。
桜は、忌々しげに鏡を睨んでいた。ホテルの最上階の共同トイレである。掃除が行き届いているというよりも、殆ど、使われることなどないのだろう。鏡も含めて、トイレ全体が新築の状態のまま時間が止まっていたかのように真新しく感じられる。
「椿お姉さまも、佐伯君も、倉本も!」
腹が立った。だが決して、不快なものではないように思う。
(いやいやいや、ぶっ飛ばしてやりたいのは変わりませんから!)
特に倉本。部下のくせに上司をからかうとは。今度泣かす。
そんなことを考えながら、心を落ち着ける。
(それにしても……)思い返すと不思議な気分になる。(さっきの椿お姉さま、なんだか凄く嬉しそうな声でしたね……)
彼女のあんな声を、桜は久しく聞いていなかったように思う。そういえば、姉と男性の好み云々の話をしたことなど、これまでなかった。単純に桜をからかう嬉しさもあるにはあっただろうが、それだけに収まらない姉としての嬉しさも、もしかしたら感じていたのだろうか。
そこそこ頻繁に連絡を取り合っているとはいえ、幼い頃から一人暮らしを続けている身だ。一般的な兄弟姉妹の会話数と比べるなら、どうしても少なくなる。自分自身はそれで満足しているが、他の家族はやはり寂しかったりするのだろうか? 姉や父は構わないとしても、妹のすみれが寂しがっているのなら、たまには実家に帰ってもいいかな、と桜は思った。
(……あの子はあの子で、何考えてるかわかんないところあるんですけどね)
と、自分の事を遥か高みにある棚に放り投げつつ、おっとりというかぼんやりというか、よく言えばおとなしく物静かな妹の事を考える。あの子は私が帰ったら嬉しいのかしら? 盆暮れに会っても反応がいまいち薄いので、よくわからない。ま、騒動が落ち着いたら考えますか。
「ふう……よし、落ち着いた!」
「そう、それは良かったわ」
「!!!?」
突然聞こえた声に、体が強張る。
桜はトイレの洗面所にいた。目の前には大きな鏡がある。
その声が例えば個室から聴こえたなら、ここまでの驚きはなかっただろう。
だが、耳元で聴こえたのだ。
誰もいるはずのない、桜の耳元から。
そして――
(っ!? 体が動かない!?)
何か硬いものが、桜の体をぴったりと包み込んでいるような感覚。まるで、今の桜の格好を精巧に作り出すための鋳型に、桜自身が押し込められてしまったようだった。
(息は……出来る)
しかし、ぴっちりと型に収まった状態では、瞬きすらままならない。瞳はなぜか乾くことがないようだが、瞬きできずに涙がたまり、視界がぼやける。
こんなことが出来るのは……
(佐伯君?)
心の中に、先日からは驚くほど近しい存在になってしまった宇宙人の顔が浮かぶ。意地悪で、いま、桜がこんなところに逃げ出す原因を作ってくれた宇宙人が。
だが。
桜の視界に、鏡の中に、唐突に「現れた」人物は、女性だった。視界がぼやけたままなので、はっきりとは見えない。それでも何もない場所からこの女性がいきなり現れたことだけは、はっきりと分かった。
(だれ?)
「オリンピア……って、知ってるわよね?」
桜が心の中で問い掛けたのが分かったかのように、その女性は言った。イントネーションに、違和感を覚える。どこがおかしいのかは分からないのだが、完璧すぎてどこかおかしい、そんな気がした。それに……
(怖い!)
その女性の言葉には、感情というものがまったく感じられなかった。機械の声、という感じのものではない。最近のATMや、キャッシュカードの自動契約機に使われている声は、人間の声を録音しているから、やけに感情豊かで逆に変な気持ちになるときがある。その逆だ。明らかな肉声なのに、一切の感情が入っていない声。桜の背筋に寒気が走った。冷や汗は流れない。「空気の鋳型」が、その隙間を作ってくれない。
「初めまして、神楽美桜さん。オリンピア支部長の『鉄の』ヴィーナスよ。しばらくお付き合いさせてもらうことにしたわ。よろしくね」
桜のぼやけた、動かせない視界の中で、鏡の中の女性が、鏡の中の自分に近づいてくる。
(佐伯君! 倉本! 青山! 佐々木! 寺田君!! 誰か……助けてっ!)
これまで、正隆の巨大な庇護の下で過ごしてきた桜の、それが、初めての悲痛な叫びだったかもしれない。しかし、どんなに悲痛で、どんなに大きな叫びであっても、音を発することのないその叫びが、彼らに届くことはなかった。




