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本日、二度目の更新です。
店に入ったとたん、ヴェールが肌を撫でていくように、すっと空気が変わったのを感じた。
雑踏のざわめきが消え去り、代わりにゆったりとしたクラシックと、そこに混じって小さくコーヒーカップとソーサーのぶつかる音が聞こえてくる。
コーヒーの香ばしい匂いと、バターたっぷりの甘いスポンジ生地の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
目の前のショーケースには、見事なチョコレート細工や、ベリーやフルーツで鮮やかに彩られたケーキたちが、お行儀よく鎮座ましましている。
音羽は職業柄、これまでにいくつもの飲食店を研究してきたつわものだ。そんな彼女に紹介されただけあって、なかなかに雰囲気のあるカフェだった。
「……あれ?」
ドアベルの音を聞きつけてやってきた店員に案内されている途中、つい最近目にしたばかりの顔を見つけて、幸恵は思わず声をかけていた。
「――和泉くん?」
「……あれ、花岡さん? 偶然だね」
背中越しに言うと、彼は一呼吸置いてから、肩ごと大きく振り返った。
相変わらず整った顔立ちが、今はわずかに驚きで崩れている。
突然立ち止まった客に、店員がとまどった顔を向けた。
「お知り合いの方ですか? お席、ご一緒にいたしましょうか?」
「――はい、お願いします」
気を利かせた店員の申し出を幸恵が断る間もなく、玲一がそう返事をした。
「え……」
「では、ただいまお冷をお持ちいたします」
一礼し、店員が奥へと消えていく。
後には優雅に紅茶をいただく玲一と、呆然とたたずむ幸恵だけが残された。
「どうぞ、座って」
「あ、どうも……」
――いや、違う。そうじゃない。なぜわたしは今、彼と相席しているのか?
あまりにも当たり前のように言うものだから、反論を忘れかけた。
「いやいや。ちょっとこれ、まずいんじゃ……いちおう、わたしって婚約者の不貞を訴えている立場なわけだし。男の人と二人きりというのは、どうなのかと……」
「二人きりじゃないよ。飲食店だし、第三者の目がある場所だからね」
「そうだけど……」
「それに、不貞行為というのは、肉体関係がないと成立しないものだからね。異性と二人でお茶しようが、花岡さんの不利になるようなことはないよ」
「そう……なの?」
「誰かに突っ込まれたら、弁護士と話し合ってた、って言えばいいんじゃないかな。別に、嘘はついてないわけだし」
「うーん。そう、なのかな?」
なんとなく納得がいかないが、彼が言うならばそうなのかもしれない。
だんだんわけがわからなくなってきて、幸恵は考えることを放棄した。
仕事で男性と食事をすることだって、ないわけじゃない。
「一度、ゆっくり話してみたかったんだ、花岡さんと」
「わたしと?」
「うん。この間は仕事として会ったから、プライベートな話はできなかったしね」
あの状況でそんな話をする人間がいたら、空気を読んでないどころの話ではない。
だがたしかに、約十二年ぶりに再会したクラスメイトとの会話としては、いささか味気なかったかもしれない。
「まあ、デザートでも食べながら、昔話でもしようよ。……はい、メニュー」
「あ、ありがとう……」
手渡されたメニュー表を受け取りつつ、幸恵はとまどった。
昔話と言っても、当時の幸恵に玲一との付き合いはほとんどなかった。せいぜい、席が隣になったくらいだ。そうなると班が一緒になったり、給食を食べる時に机をくっつけたりするのだが、そのくらいのことで“昔話”と称していいのだろうか。
正直なところ、かつてやつあたりした記憶が鮮明なので、後ろめたさのほうが強い。
「迷ってるなら、選べるケーキセットにしたらどうかな。ミニデザートが一度に六種類も選べるから、少しずつ食べ比べできるよ」
「えっ!? うん、そうだね……!」
当惑して黙りこむ幸恵をどう勘違いしたのか、玲一が身を乗り出してメニューを覗きこんだ。
(ち、近い……!)
すぐ横にある顔に動揺して、ろくにメニューがわからない。
けっきょく言われたとおり、ケーキセットを頼むことにした。六種類も食べ比べできるのは、たしかに魅力的だった。
「花岡さんは、今はどんな仕事をしてるの?」
「製菓会社の企画開発室で働いてるよ。新しく発売するスイーツを考案する仕事」
「スイーツかぁ、いいね。ひょっとして、今日はライバル店の調査にきたとか?」
「そんなおおげさなものじゃないんだけどね。ただ、ちょっと新作のアイディアに行きづまっちゃったから、気分転換というか」
「気分転換で、やっぱりスイーツなんだ。花岡さんて、昔からそういうところ真面目だよね」
玲一がおかしそうに笑う。
だが、今の幸恵にとっては笑いごとではなかった。
「……やっぱり、和泉くんもそう思う? 真面目で堅苦しいって」
「え? いや、堅苦しいとは思わないけど……」
はあ、と幸恵は重い息をついた。
「和也さんに――あ、婚約者ね。……婚約者にね、言われたのよ。『おまえは堅苦しくて融通がきかないから、一緒にいて疲れる』って。たしかにそうだったかもしれない。わたしって昔から頑固だったから。あれから少し時間が経って、ひとりで考える時間が増えたから、自分のことを省みたのよ。彼が浮気したのは許せないけど、浮気された自分にも悪いところがあったんだろうな、って」
「花岡さん……」
「わたし、結婚に向いてないのかもしれないわ。……って、なんだか愚痴っぽくなっちゃったね。ごめんなさい。あ、もちろん、やったことの責任は取ってもらうつもりよ。だから、あなたに依頼した内容は変わらない。そこは心配しないで」
――これではまるで、慰めの言葉を期待しているかのようだ。
情けない自分が急に恥ずかしくなって、幸恵は早口にまくし立てた。
けれど、和泉玲一という男は、どこまでも誠実な人物だった。
「……たしかに、男女の恋愛というのは、一方だけの問題じゃないかもしれない。でも、不満があったなら、もっと早く言葉で直接伝えるべきだったんだ。それを怠って、後から責め立てるのは卑怯だと、僕は思う。それで浮気して、その理由をすべて相手に押しつけるなんて、不誠実だよ。少なくとも花岡さんには、相手に対する誠意がある。……彼とは違う」
「……そうかな。わたしも、ちゃんと彼と向き合ってこなかった気がする。表面的な付き合いしかしてこなかったから、今回みたいな結果になったんだわ」
「他人を真に理解できる人なんかいないよ。長年連れそった夫婦だって、すべてを理解してるわけじゃない。花岡さんなんてまだまだ若いんだから、とうぜんだよ」
「ちょっと、あなた、わたしと同い年でしょうが。なに老いさらばえたようなこと言ってんのよ」
「はは、せめて老成してるって言ってもらえないかな」
玲一の優しい言葉は、心の一番奥にある、傷だらけの柔らかい部分を慰めた。
(……やっぱりわたし、慰めてもらえることを期待してたのかもしれない)
愚かな自分が恥ずかしくて、また玲一に対する借りが増えてしまったと感じた。
しばらく二人の間に沈黙が流れる。
静寂を切り開いたのは、玲一のティーカップが置かれた時の、硬質な音だった。
「……あのさ、花岡さん」
――きた、と思った。
玲一と会話している間、なぜ彼がこのような危険な手段を取ったのか、幸恵は考えを巡らせていた。
たとえ法律で許されても、誰かに見られたらどんな噂が立つか、考え及ばない彼ではない。そうなった場合、幸恵だけではなく、彼自身の弁護士としての評判にも影響するかもしれない。
そんな彼が理由もなしに軽はずみな行動をするとは思えない。
つまり、リスクを犯してでも確認しなければならないことがあったのだ。
弁護士事務所という堅苦しい場所ではなく、飲食店という、思わず気が緩むこの場所で。――幸恵の本音を探るために。
「――妹さんのこと、どう思ってる?」
さり気ないようでいて、まっすぐな視線が、こちらを射抜く。
(やはり、聞きたいことは、それか)
ならばこちらも明かすことにしよう。――花岡姉妹の過去を。
「あの子は……両親の被害者だと思ってる。可能なら、助けたい。もし、その時がきたら――力を貸してください、和泉先生」
生半可な態度では信じてもらえないかもしれない、と居住まいを正す。
「そのために――わたしたち姉妹の事情を、お話しします」