37
「どうしてそいつなの!」
「ちょっと、ママ!?」
「お、落ち着いて。いったいなにがです?!」
「どうして……どうして幸恵を選ぶのよ! どうしてショコじゃないの!」
掴みかかった首筋に、するどい爪が食いこんだ。和也が痛みに顔をゆがめる。
尋常ではない狂乱ぶりだった。
「つきまとうならショコにすればよかったじゃない! 幸恵のほうが価値があるって言うの!?」
「ま、ママ……?」
「あなた、自分がなにを言っているのかわかってるの!?」
幸恵が悲痛混じりに怒鳴る。
まるでショコラの身の安全よりも、幸恵に勝つことのほうが重要であるかのような口ぶりだ。
駆けつけた警官に引きはがされて息を荒げながら、なおも続ける。
「わかってるわよ。ショコちゃんはアンタより優れてるの。愛されていればそれでいいの!」
「その結果、犯罪に巻きこまれたとしても?」
「愛されてる人間が多少のトラブルに遭うのは仕方ないわ。宿命だもの」
とんでもない理屈だった。およそ母親の言うべきセリフではない。
ショコラも信じられないのか、愕然とした表情で母親を見つめていた。
幸恵が首を振る。
「わからない……わからないわ。どうしてそこまで、わたしとショコラを比べたがるの?」
「アンタは幸せになっちゃいけない子だから」
「どうして!」
「だって、そんな地味な名前で、他人から好かれるわけないじゃない」
「え……? なに、どういうこと?」
耳で聞いたことが信じられなくて、問い返す。
母親は自信たっぷりに言い返した。
「地味な名前の人間は苦労するのよ。アンタだって自覚してるでしょ?」
「……別に、生まれてこのかた、名前で苦労したことなんてないわよ」
時折、不幸な自分を皮肉ったようにも聞こえたが、それだけだ。この名前だから苦労した、と言えるほどのものではない。
「嘘よッ!」
ヒステリックな声が否定する。
「地味な名前は苦労するの。だから可愛い名前のほうが幸せなの。なんでわからないの?」
「わからない。どうしてそんなこと言いきれるの?」
「だって、わたしは苦労したもの!」
予想外の理由に面食らって、一瞬思考が停止する。
名前で苦労したと言われても、母親の名前は、たしか――。
「珠子だよ、お姉ちゃん」
「え?」
「ママの名前。この名前で呼ぶと怒るから、ふだんは呼ばないけど」
「そうよ。おかげで昔から『キンタマ子』だの下品なあだ名で呼ばれて、最悪だった!」
そういえば、母親の旧姓は『金井』だった。
金井珠子。
たしかに、小学生くらいならからかわれそうな名前だ。
けれど、それは『名前が地味であること』が直接的な理由ではない気がする。
「だから自分の子供はそうならないようにって、せっかくわたしがふさわしい名前を考えてあげたのに……それをあの女が! しかもアンタは年々その憎らしい姑に似てくるし、可愛くなかった!」
「それでわたしにつらくあたったって言うの? ……そんなことで……?」
「そんなこと……? わたしにとっては重要なことだった!」
母の叫びは、悲鳴のようでもあった。
「だからせめて、ショコラには今どきの、きれいで、誰とも違う名前をつけた! みんながうらやむような、可愛くてお姫さまみたいな名前に!」
「その名前で、ショコラが苦労していたことは忘れたの?」
「もちろん覚えてるわよ。……けど、それがなんだって言うの?」
「なんですって?」
「アタシだって苦労したんだもの。アタシの娘も、少しは苦労すべきだわ」
その言葉の意味を理解した時、さあっと血の気が引いた。
母は「みんなに愛されるために名づけた」と言ったその口で、「自分と同じように苦労すべきだ」と言った。
おそらく「聖恋蘭」という名前には、愛情と同時に悪意がこめられている。それは母の中で、矛盾なく両立しているのだろう。
彼女の奥に隠された狂気に触れた気がして、背筋に冷たいものが走った。
「……ママ、嘘だよね? 嘘だって言ってよ、ねえ……」
母は答えない。ただ虚空を見つめ、ぶつぶつと呪詛の言葉をつぶやいている。
トラウマを刺激したことで、記憶の扉が開かれてしまったようだった。
その異様な迫力におののいて後ずさる幸恵を、玲一がかばうように前に立つ。
「花岡さん。たとえどんな名前だったとしても、幸恵さんは僕が幸せにします。不幸になんてさせません」
後ろ手でぎゅっと手を握られる。その手のひらの温かさが、幸恵に勇気を与えてくれた。
背中を押されるように、ずっと引っかかっていた言葉が口をついた。
「……そんなに恨んでいるなら、本人に直接ぶつけてやればよかったじゃないの」
ゆっくりと顔を上げた母の瞳に、幸恵の姿が映る。
この人の目にとまったのは久しぶりな気がした。
「誰かを代わりにして不満をぶつけたって、それは決して本人じゃない。そのままじゃ、一生不幸から逃れられないわよ。先に向こうが死んで、勝ち逃げされたままになっていいの?」
母方の祖父母には会ったことがない。今思えば、この母が実家を避けていたのだろう。
顔も知らない祖父母に対して、ひどいことを言っている自覚はある。
だが、母をこんなふうにした責任は、本人たちにとってもらわねば。
「……そうか。……そうね。もうわたしは子供じゃない。向こうだって、体力のない老人になってるだろうし。今なら、好きなだけ言い返してもいいのね……」
そのことに、ようやく気がついたようだった。
まるで糸の切れた操り人形のように、母の身体から力が抜けた。
ふらついた母の肩を、父が支える。いつの間にかそばにいたらしい。寄り添う二人は、そうして見るとごく普通の夫婦のようだった。
この両親のやってきたことを、今さら許そうとは思わない。それだけのことをされてきた。
けれど、立ち直って反省してくれるなら、それに越したことはないのだ。
「……行きましょう。もうここに用はないわ」
踵を返した幸恵の背中に、弱々しく声がかかった。
「……幸恵」
「…………? 今、誰か……」
「幸恵」
背後にいた意外な人物にぎょっとする。
父だった。
この父親が意味のある言葉を口にするところを、幸恵は久々に聞いた気がした。
「え、っと……なにか?」
「……これを」
差し出されたのは、ぶ厚い茶封筒だった。
思わず怪訝な顔をしてしまう。
「これは?」
「少ないが、持って行ってくれ」
「は?」
「母さんがすまなかった」
その瞬間の感情を、どう説明すればいいだろうか。
目の前が真っ赤になったような気がして、気がつけばグーで父親を殴っていた。
どうっと鈍い音とともに、大の男が吹き飛ぶ。
「――ふッざけんな!」
冗談ではなかった。
「なに他人事みたいに言ってるの? まるで自分は当事者じゃないみたいな顔して! アンタがずっと見て見ぬふりをしてきたおかげで、うちの家庭はめちゃくちゃだった! 人の親なら、妻をいさめるのも仕事のうちでしょう!? それを……自分だけは理解ある父親みたいな顔をして!」
「幸恵さん、落ち着いて! まだ向こうに警察がいるから!」
背後から羽交い締めで静止させられて、なんとか血ののぼった頭を冷まそうとする。
こぶしが痺れて、ズキズキと痛む。衝撃で手のひらに爪が食いこみ、血がにじんでいた。
他人を殴ると自分も傷つく。けれど痛みをこらえてでも、この男を殴り飛ばしたかった。
怒りで興奮が抑えられない幸恵を、父がぼうぜんと見上げた。
「なんでなにも言い返さないの?」
「…………」
「まただんまりなの? あなたには自分の意見というものがないの? ――なんとか言ってよ!!」
感情が高ぶって、怒声が涙まじりになる。
まるで人形を相手にしているかのようだ。反応を返さない相手に話しかけることほど、むなしいものはない。
それでも、今ここで言葉をつくさなければ、一生伝わらないままだ。後悔を残すのは嫌だった。
その気持ちが届いたのかどうか。
石のように黙りこんでいた父が、小さく口を開いた。
「……ずっと、言われるがままに生きてきた」
「え……?」
戸惑う幸恵に構わず、父はぽつぽつと話し始めた。
「うちは厳しい家庭だったから、親の敷いたレールの上を歩いてきた。けれど、成長するにつれ自分で考えなければいけない場面が増えた。それが苦痛だった。――母さんは、はっきりと物を言うし、わたしのことを引っ張ってくれた。あの人といると、なにも考えなくてすむ。それがとても楽だった……」
「……だから、言われるがままだったって言うの?」
「母さんは、わたしの人生そのものだったんだ……」
「ふざけないでッ!!」
言いようのない怒りで身体が震える。抑えきれないものがあふれてとまらない。それは目じりを熱く焼いた。
「そのお金は、あなたの妻を病院につれていくなり、カウンセリングを受けさせるなりに使ってください。今までずっと逃げてきたんだから、それくらいして」
それだけ言い残すと、幸恵はその場を走り去った。これ以上、あの場に一秒でもいたくなかった。
「――幸恵さんっ!」
引き留める者がいた。小刻みに震える幸恵を、抱き寄せて撫でてくれる人が。
ポンポンと優しく背中を叩かれたら、もうむりだった。
ひと粒、ふた粒、あふれ出してとまらない。堰を切ったように頬を流れる筋と、それでも声はあげるまいと噛みしめる唇を、彼女は恋人の胸に飛びこむことで隠した。
弱りきった彼女を世界から伏せるように、玲一はしばらくその場を動かなかった。




