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「どうしてそいつなの!」


「ちょっと、ママ!?」


「お、落ち着いて。いったいなにがです?!」


「どうして……どうして幸恵を選ぶのよ! どうしてショコじゃないの!」



 掴みかかった首筋に、するどい爪が食いこんだ。和也が痛みに顔をゆがめる。


 尋常ではない狂乱ぶりだった。



「つきまとうならショコにすればよかったじゃない! 幸恵のほうが価値があるって言うの!?」


「ま、ママ……?」


「あなた、自分がなにを言っているのかわかってるの!?」



 幸恵が悲痛混じりに怒鳴る。


 まるでショコラの身の安全よりも、幸恵に勝つことのほうが重要であるかのような口ぶりだ。


 駆けつけた警官に引きはがされて息を荒げながら、なおも続ける。



「わかってるわよ。ショコちゃんはアンタより優れてるの。愛されていればそれでいいの!」


「その結果、犯罪に巻きこまれたとしても?」


「愛されてる人間が多少のトラブルに遭うのは仕方ないわ。宿命だもの」



 とんでもない理屈だった。およそ母親の言うべきセリフではない。


 ショコラも信じられないのか、愕然とした表情で母親を見つめていた。


 幸恵が首を振る。



「わからない……わからないわ。どうしてそこまで、わたしとショコラを比べたがるの?」


「アンタは幸せになっちゃいけない子だから」


「どうして!」


「だって、そんな地味な名前で、他人から好かれるわけないじゃない」


「え……? なに、どういうこと?」



 耳で聞いたことが信じられなくて、問い返す。


 母親は自信たっぷりに言い返した。



「地味な名前の人間は苦労するのよ。アンタだって自覚してるでしょ?」


「……別に、生まれてこのかた、名前で苦労したことなんてないわよ」



 時折、不幸な自分を皮肉ったようにも聞こえたが、それだけだ。この名前だから苦労した、と言えるほどのものではない。



「嘘よッ!」



 ヒステリックな声が否定する。



「地味な名前は苦労するの。だから可愛い名前のほうが幸せなの。なんでわからないの?」


「わからない。どうしてそんなこと言いきれるの?」


「だって、わたしは苦労したもの!」



 予想外の理由に面食らって、一瞬思考が停止する。


 名前で苦労したと言われても、母親の名前は、たしか――。



珠子(たまこ)だよ、お姉ちゃん」


「え?」


「ママの名前。この名前で呼ぶと怒るから、ふだんは呼ばないけど」


「そうよ。おかげで昔から『キンタマ子』だの下品なあだ名で呼ばれて、最悪だった!」



 そういえば、母親の旧姓は『金井』だった。


 金井(かない)珠子(たまこ)


 たしかに、小学生くらいならからかわれそうな名前だ。


 けれど、それは『名前が地味であること』が直接的な理由ではない気がする。



「だから自分の子供はそうならないようにって、せっかくわたしがふさわしい名前を考えてあげたのに……それをあの女が! しかもアンタは年々その憎らしい姑に似てくるし、可愛くなかった!」


「それでわたしにつらくあたったって言うの? ……そんなことで……?」


「そんなこと……? わたしにとっては重要なことだった!」



 母の叫びは、悲鳴のようでもあった。



「だからせめて、ショコラには今どきの、きれいで、誰とも違う名前をつけた! みんながうらやむような、可愛くてお姫さまみたいな名前に!」


「その名前で、ショコラが苦労していたことは忘れたの?」


「もちろん覚えてるわよ。……けど、それがなんだって言うの?」


「なんですって?」


「アタシだって苦労したんだもの。アタシの娘も、少しは苦労すべきだわ」



 その言葉の意味を理解した時、さあっと血の気が引いた。


 母は「みんなに愛されるために名づけた」と言ったその口で、「自分と同じように苦労すべきだ」と言った。


 おそらく「聖恋蘭」という名前には、愛情と同時に悪意がこめられている。それは母の中で、矛盾なく両立しているのだろう。


 彼女の奥に隠された狂気に触れた気がして、背筋に冷たいものが走った。



「……ママ、嘘だよね? 嘘だって言ってよ、ねえ……」



 母は答えない。ただ虚空を見つめ、ぶつぶつと呪詛の言葉をつぶやいている。


 トラウマを刺激したことで、記憶の扉が開かれてしまったようだった。


 その異様な迫力におののいて後ずさる幸恵を、玲一がかばうように前に立つ。



「花岡さん。たとえどんな名前だったとしても、幸恵さんは僕が幸せにします。不幸になんてさせません」



 後ろ手でぎゅっと手を握られる。その手のひらの温かさが、幸恵に勇気を与えてくれた。


 背中を押されるように、ずっと引っかかっていた言葉が口をついた。



「……そんなに恨んでいるなら、本人に直接ぶつけてやればよかったじゃないの」



 ゆっくりと顔を上げた母の瞳に、幸恵の姿が映る。


 この人の目にとまったのは久しぶりな気がした。



「誰かを代わりにして不満をぶつけたって、それは決して本人じゃない。そのままじゃ、一生不幸から逃れられないわよ。先に向こうが死んで、勝ち逃げされたままになっていいの?」



 母方の祖父母には会ったことがない。今思えば、この母が実家を避けていたのだろう。


 顔も知らない祖父母に対して、ひどいことを言っている自覚はある。


 だが、母をこんなふうにした責任は、本人たちにとってもらわねば。



「……そうか。……そうね。もうわたしは子供じゃない。向こうだって、体力のない老人になってるだろうし。今なら、好きなだけ言い返してもいいのね……」



 そのことに、ようやく気がついたようだった。


 まるで糸の切れた操り人形のように、母の身体から力が抜けた。


 ふらついた母の肩を、父が支える。いつの間にかそばにいたらしい。寄り添う二人は、そうして見るとごく普通の夫婦のようだった。


 この両親のやってきたことを、今さら許そうとは思わない。それだけのことをされてきた。


 けれど、立ち直って反省してくれるなら、それに越したことはないのだ。



「……行きましょう。もうここに用はないわ」



 踵を返した幸恵の背中に、弱々しく声がかかった。



「……幸恵」


「…………? 今、誰か……」


「幸恵」



 背後にいた意外な人物にぎょっとする。


 父だった。


 この父親が意味のある言葉を口にするところを、幸恵は久々に聞いた気がした。



「え、っと……なにか?」


「……これを」



 差し出されたのは、ぶ厚い茶封筒だった。


 思わず怪訝な顔をしてしまう。



「これは?」


「少ないが、持って行ってくれ」


「は?」


「母さんがすまなかった」



 その瞬間の感情を、どう説明すればいいだろうか。


 目の前が真っ赤になったような気がして、気がつけばグーで父親を殴っていた。


 どうっと鈍い音とともに、大の男が吹き飛ぶ。



「――ふッざけんな!」



 冗談ではなかった。



「なに他人事みたいに言ってるの? まるで自分は当事者じゃないみたいな顔して! アンタがずっと見て見ぬふりをしてきたおかげで、うちの家庭はめちゃくちゃだった! 人の親なら、妻をいさめるのも仕事のうちでしょう!? それを……自分だけは理解ある父親みたいな顔をして!」


「幸恵さん、落ち着いて! まだ向こうに警察がいるから!」



 背後から羽交い締めで静止させられて、なんとか血ののぼった頭を冷まそうとする。


 こぶしが痺れて、ズキズキと痛む。衝撃で手のひらに爪が食いこみ、血がにじんでいた。


 他人を殴ると自分も傷つく。けれど痛みをこらえてでも、この男を殴り飛ばしたかった。


 怒りで興奮が抑えられない幸恵を、父がぼうぜんと見上げた。



「なんでなにも言い返さないの?」


「…………」


「まただんまりなの? あなたには自分の意見というものがないの? ――なんとか言ってよ!!」



 感情が高ぶって、怒声が涙まじりになる。


 まるで人形を相手にしているかのようだ。反応を返さない相手に話しかけることほど、むなしいものはない。


 それでも、今ここで言葉をつくさなければ、一生伝わらないままだ。後悔を残すのは嫌だった。


 その気持ちが届いたのかどうか。


 石のように黙りこんでいた父が、小さく口を開いた。



「……ずっと、言われるがままに生きてきた」


「え……?」



 戸惑う幸恵に構わず、父はぽつぽつと話し始めた。



「うちは厳しい家庭だったから、親の敷いたレールの上を歩いてきた。けれど、成長するにつれ自分で考えなければいけない場面が増えた。それが苦痛だった。――母さんは、はっきりと物を言うし、わたしのことを引っ張ってくれた。あの人といると、なにも考えなくてすむ。それがとても楽だった……」


「……だから、言われるがままだったって言うの?」


「母さんは、わたしの人生そのものだったんだ……」


「ふざけないでッ!!」



 言いようのない怒りで身体が震える。抑えきれないものがあふれてとまらない。それは目じりを熱く焼いた。



「そのお金は、あなたの妻を病院につれていくなり、カウンセリングを受けさせるなりに使ってください。今までずっと逃げてきたんだから、それくらいして」



 それだけ言い残すと、幸恵はその場を走り去った。これ以上、あの場に一秒でもいたくなかった。



「――幸恵さんっ!」



 引き留める者がいた。小刻みに震える幸恵を、抱き寄せて撫でてくれる人が。


 ポンポンと優しく背中を叩かれたら、もうむりだった。


 ひと粒、ふた粒、あふれ出してとまらない。堰を切ったように頬を流れる筋と、それでも声はあげるまいと噛みしめる唇を、彼女は恋人の胸に飛びこむことで隠した。


 弱りきった彼女を世界から伏せるように、玲一はしばらくその場を動かなかった。


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