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アパートへの帰り道、聞き覚えのある声がかかった。
「――花岡っ!」
呼び止められて、振り返る。
田原だった。
あの日以来、なんの接点もなかった彼が、何食わぬ顔でそこにいた。
「……なんの用?」
「用ってわけじゃないけど……すぐそこまできたからさ。顔だけでも出しておこうと思って」
「……なんで、わたしのアパートの場所、知ってるの?」
「まあまあ」
あいまいな笑いでごまかされて、さらに不信感がつのる。
「悪いけど、疲れてるの。今日はアンタに付き合ってる暇はない」
「そんな固いこと言うなよ。せっかくだし、ちょっと話でもしようぜ」
「勝手なこと言わないで」
これまでに感じた違和感。猜疑心。それらをぶつけようとした時、別の声がかけられた。
「――幸恵っ!」
和也だった。
駆け寄ってきた彼は、幸恵の腕をむりやり掴んでいた相手を睨んだ。
「お前、よくも幸恵を――なんのつもりでッ!」
「うわっ!?」
引きはがすように、彼は田原の胸倉を掴む。
たたらを振んだ田原は、ものすごい形相で和也を睨んだ。
「てめぇ……てめぇが幸恵のストーカーか!?」
「はぁっ!?」
「許さねぇ!」
うおお、と野太い雄たけびと共に、田原が和也に殴りかかる。
がっちりと筋肉質な体型の田原が、中年の和也を殴り倒すのは必然だった。
どうっと和也の身体が地面に沈む。
「幸恵っ! 警察を呼んでくれっ!」
「ち、ちょっと待て! 話が違う!」
「――その心配はないよ」
喧噪を切り裂くように現れたのは、玲一だった。
そのかたわらには、逃げないよう腕を掴まれたリコの姿が見える。後ろには、固唾をのんで見守るショコラの姿もあった。
「……ごめん、田原……」
リコがすまなそうに言う。
それでも、拘束している相手が玲一であるため、それ以上の抵抗をする気はないようだった。
予想外の出来事だったのだろう、田原が驚きに目を見開く。
「……おや、なにを驚いているんだい?」
「――――」
「シナリオにない人物が現れたこと? ……それとも、この出来事を読まれていたことだろうか」
「……和泉、てめぇ……」
殺気をぶつけられてなお、玲一は不敵に笑う。
「――さあ、答え合わせを始めようか」
始まりは、幸恵の退院直後に届いた一報だった。
『――お姉ちゃん、やっと繋がった!』
電源を入れたとたん、鳴り響いた着信に慌てて通話ボタンを押した直後、ショコラからそんなことを言われた。
『お姉ちゃん、気をつけて!』
「……なにを?」
『ショコ、聞いちゃったの……』
いわく、こういうことだ。
数日前、駅前で和也の姿を見つけた。
話しかけようか迷っているうちに、彼に接触する人物がいた。
それこそが池山リコ――かつての幸恵のクラスメイトだった。
異様な雰囲気を察して盗み聞きしたショコラは、衝撃的な内容を耳にしてしまう。
『姫野和也さんですね?』
『そうですが……あなたは?』
『わたしは、花岡幸恵さんの小、中学校時代の同級生で、池山リコと言います。実は、花岡さんのことでご相談が……』
『幸恵の……?』
『はい。実は花岡さん、少し前からストーカー被害に遭ってるみたいなんです。ここ最近はすっかり気が滅入っているみたいで、入院までしてしまって』
『入院!? いったい、どいつがそんなこと……』
『それが、昔のクラスメイトの田原という男みたいで……』
意気消沈した様子で、バッグから写真を取り出す。
そこには、田原省吾の顔がくっきりと写っていた。
『……こいつが……』
『花岡さんははっきり言わないけど、とても参ってるみたいなんです。わたし、心配で……。それで、元カレだっていうあなたなら、彼女を救ってくれるんじゃないかって』
『……でも、あいつには今の彼氏がいるはずだろ。そいつはどうしたんだよ』
『今の彼氏は当てになりません。これは花岡さんには秘密なのですが……仕事が忙しいとか、なにかと理由をつけて逃げ回っているみたいなんです。あんなひどい人に騙されているなんて、花岡さんが可哀想……。だから姫野さん、あなたが助け出してください! うまくいけば、元鞘に戻れるかもしれませんよ!』
言葉巧みにその気にさせられて、和也は奮起した。
――ようやく機会が巡ってきた!
隙あらば幸恵とよりを戻そうと、虎視眈々と機会をうかがっていた。その好機が訪れたのだ。
『わかった。俺が幸恵を守る。安心してくれ』
そうして幸恵のアパートを張り込んで、数日。ようやく敵が姿を現してくれた。
――だというのに。
「それこそが、キミたちの罠だった」
持参したロープでリコを後ろ手に縛りながら、玲一は淡々と言う。
「我々の情報提供者が、その後の会話も聞いていたのさ」
そう、話はそこで終わりではなかった。
和也との接触後、リコは別の人物に電話をしていた。
『お膳立てはすんだわよ。あとはそっちでうまくやって』
『うん、そう。元カレさんはアンタをストーカーだと思ってる。わたしが発破をかけて襲わせるから、アンタは返り討ちにして、元カレこそストーカーだと宣言して』
『だいじょうぶ。証拠ならわたしが用意しておくわよ。こっそり、あいつのハンカチを盗んでやったし。他にもいろいろと、ね。花岡のアパートの前にでも落としておけば、向こうから勝手に勘違いするわよ。無駄に頭が働くものね』
それを聞いて、ショコラは血の気が引いた。
彼らが姉を陥れようとしている、そのことだけは痛いほど理解したからだ。
慌てて連絡しようとしたものの、肝心の姉とは連絡がつかなかった。
なぜなら――。
「運悪く、その時は企画会議の最中だったわ。夜遅くまで電源を切っていたし、アパートに帰ったわたしは、ドアの周りをただよう香水の匂いに気づいてしまった。和也の愛用している香水ね。――まあ、それこそが罠だったんだろうけど」
おそらく雑談の中で彼の愛用している香水の種類を聞き出し、それを幸恵の自宅付近に撒いたのだろう。――和也がストーカーをしているという信憑性を増すために。
「香水だけじゃなく、アパートのドアの前にはハンカチが落ちていた。それと、数日前から続いていた足音に、郵便物へのいたずら。そんな時に不審な人影を見つけてしまったものだから、わたしは思わず追いかけてしまった。……不運だったのは、その時のわたしは不慣れなヒールの高い靴をはいていたこと。だからあせった拍子に足を滑らせ、階段から落ちてしまった。そして脳震盪を起こし、入院。情報提供者から連絡を受けるまで、数日が経ってしまった」
郵便物への違和感や、後をつけているような足音が、決定的な証拠とまではいかないほど些細なものだったことも、不幸の原因だった。
警察に相談したものの、『気のせいじゃないか』だの『ストレスで気が高ぶっているんじゃないか』だのと、まともに相手にしてもらえなかったのだ。
「とは言え、池山さんと姫野さんが接触していた証拠のムービーはこちらにあるし、田原と池山さんがグルだった証拠は、先ほどしっかり押さえさせてもらったよ」
「……くそっ!」
「――田原。もう教えてくれるよね、どうしてこんなことをしたのか」
ひたと見つめる玲一の視線を避けるように、田原は顔をそらす。
やがて耐えきれないとばかりに、田原はぽつぽつと話し始めた。
「……なんでお前なんだよ」
「……え……?」
「俺だって、ずっと好きだったのに」




