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 およそ人生において、他人に頼るということは死と同義だった。


 物心ついたころから両親は育児放棄(ネグレクト)だったし、母親にいたってはこちらを憎んですらいるようだった。


 周りの大人たちも面倒ごとはごめんとばかりに幸恵を避けていたし、最後はまるで厄介払いのように祖父母に押しつけた。


 あの両親から逃がしてくれたことは感謝している。だが、最後に見た大人たちの目は、いまだに忘れられない。


 ――ああ、やっと終わった。


 貼りつけた笑顔に隠された、安堵の表情。それが純粋な優しさによるものでないことくらい、彼女にはわかっていた。他人の機微に聡いのは、生きていくうえで必要に迫られて磨かれたものだ。


 祖父母はいい人たちだったが、厳しくもあった。


 父があのようになってしまったことを悔いているのだろう、二度と同じ轍は踏むまいと礼儀作法は厳しく仕込まれた。ひょっとすると、母親への対抗意識もあったのかもしれない。


 むろん、彼らには感謝している。幸恵が今日(こんにち)まで健やかに生きてこれたのは二人のおかげだ。


 だが、まだ幼い子供にとって、その厳格さは時に苦痛でもあった。


 クラスメイトがなにげなく言うわがままも、信頼からくる甘えも、幸恵には許されない。


 両親ではなく、祖父母という少し遠い距離が、彼女に遠慮をさせた。


 ――期待にこたえなければ、また捨てられてしまうかもしれない。


 その焦燥感が、彼女に妥協を許さなかった。


 おかげで祖父母を前にするといまだに背筋が伸びるし、敬語が抜けない。


 そんなふうだから、彼女は同世代の人間よりどこか大人びた子供だった。


 自然と頼られることが増え、重圧も増した。



『花岡さんならだいじょうぶ』



 根拠のない信望は、幸恵の弱さを塗りつぶした。


 他人に頼るということは、己の人物像を破壊するのと同義だ。それが恐ろしかった。


 いつしか自分で解決することも、抱えこむことも当たり前になっていた。


 当たり前ということは、日常ということだ。そうあることこそが自然ということだ。


 つまり、幸恵にはそもそも“他者に頼る”という発想がない。


 発想がないから、どうすれば他人に甘えられるのか、それすらわからない。


 だから、ギリギリまで追いこまれて失敗して、ようやく気づく。



『もっと他人に頼りなさい』



 ――けれど、どうすれば他人に甘えられるのか、知りもしないというのに。







「……だったら、なに?」



 その次にくる言葉を予想して、幸恵は顔をこわばらせる。



「キミはあの時、言ったよね。自分を守れるのは、けっきょく自分だけだ、って。でも、僕じゃダメかな? キミを守る役目に、僕はなれないだろうか。それが恋人ってものじゃないのかな」


「……相手を頼れなければ、付き合ってる意味はない?」


「少なくとも、お互いを支え合える関係だからこそだと、僕は思うよ」


「そう。……じゃあ、わたしにはむりみたい」



 甘えることも頼ることも、教えてくれる人はいなかった。


 ずっと自立することを求められてきたのに、社会に出たら急に『一人で抱えこむな』と言われる。


 今さらそんなことを言われても、二十年以上かけて培われた性格が、そう簡単に変わるはずもない。



「――別れよっか、わたしたち」



 ずっと、気づかないふりをしていた。和也が離れた、本当の理由。幸恵自身の抱える欠点。



「え……?」


「だって、どうすればいいの? どうやって甘えればいいのか、わたしにはそれすらわからない。そんなこと、誰も教えてくれなかったもの。寄りかかることすらできないのに、誰かと恋人になるなんて、初めからむりだったのよ。そのことに、もっと早く気づくべきだった」


「花岡さん……」


「和也には悪いことをした。相手を信頼できない女なんて、一緒にいられるわけがないもの。浮気されるのも当然だった。――わたしには、誰かの恋人になる資格なんて、なかった……」



 ぎゅっとシーツを強く握る。力をこめすぎて、指が白くなるほどに。


 きっと彼は不安だった。頼られていないこと。そんな相手と家庭を持つこと。


 ――なにより、本当は自分など必要ないのではないか、ということが。



「それは違うよ」



 幸恵の罪悪感を、玲一は力強く否定した。



「どんなに不満があっても、理想と違っても、それは相手を裏切っていい理由にはならない。頼ってもらえないなら、頼られるだけの努力をすべきだったんだ。話し合いだってなんだっていい。それをしないで、いきなり切り捨てるなんて、絶対に間違ってる」


「……そう……かな……」


「キミが自分を責める必要なんて、ないんだ」



 血がにじむほど握りしめられたこぶしを、玲一の指がそっとほどく。


 食いこんだ爪の痕をそっと撫でて、彼は言った。



「さっきの言葉は、聞かなかったことにするよ。またくる。それまでに、考えておいて」


「……なにを?」


「僕が、信頼に足る人間かどうか」



 幸恵の頭を優しく撫でて、彼は立ち上がる。


 病室のドアを開ける寸前、もう一度振り返って言った。



「甘え方なんてね、ただ一言、口にすればいいんだよ」


「一言……?」


「そうすれば、僕が助ける。必ずね」



 曖昧な答えを残して、彼は出ていった。


 後には呆然としたままの幸恵が取り残された。


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