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ことの次第は、こうである。
両家へのあいさつをすませ、式場の予約もし、あとは式の当日を待つばかりとなったある日、幸恵は和也に呼び出された。
今後のことで重要な話があるから、と言われてついていった先は、なぜか幸恵の実家。
そこで和也は幸恵ではなく妹のショコラの隣の陣取り、
「おまえとの婚約は解消する。俺は、ショコラを愛してしまったんだ!」
――などと、寝言をほざいたのである。
聞けば、結婚の挨拶に花岡家を訪れた際、こっそりと連絡先を交換したのが浮気の始まりだと言う。
目に涙をためて「相談したいことがあるの」と頼られたら断れないだろう、と和也は反論していたが、それはあざとくも洗練された妹のテクニックだ。
健気に頑張るかわいそうな自分を演出し、「こんなことを話せるのはあなただけ」と男の自尊心を満たす。幸恵にある種のコンプレックスを抱いていた和也にとって、これほど気持ちのいい相手はいないだろう。彼を落とすなど、ショコラには造作もなかったはずだ。
姉が連れてきた婚約者などという、ほぼ初対面の相手にしか悩みを相談できないなんて、交友関係が破たんしている証拠だとは考えないのだろうか。冷静に考えればわかりそうなものだが、浮かれた頭では思い至らなかったらしい。
そもそも、ただ相談に乗っていただけで、どうして妊娠までさせているのか。「婚約解消」などと言っていたが、一方的に取り消すのだから「婚約破棄」の間違いじゃないのか。思い返しては、彼の自分勝手な物言いにげんなりする。
今思えば、妹に引き合わせた時点で、こうなる可能性を考えるべきだった。
花岡聖恋蘭は、この春に高校二年生になったばかりの十六歳。生まれた時から両親に蝶よ花よと育てられた。――母親に嫌われ、育児放棄までされた幸恵とは大違いである。
妹もまた、両親の犠牲者と言えるかもしれない。彼女が受けたのは「優しい虐待」だった。
ほしいものはすべて与えられ、わがままはすべて許された。ろくなしつけも教育もされていない。
そんな環境は、ひとりの人間を歪ませるにはじゅうぶんだった。
せめて自分だけは姉らしく教え導く立場でいようと、厳しく注意したこともあった。結果はご覧のとおりである。甘やかされきった彼女にとって、口うるさい姉は煙たい存在だったのだろう。いつのころからか妹は、姉のものばかりほしがるようになった。
同情するあまり、本気で叱れなかったこともよくなかったかもしれない。
花岡家の姫としてちやほやとされてきた彼女だったが、小学校にあがってからは、そうもいかなくなった。
わがまま放題の暴君を、同じく庇護されるべき立場の子供たちが許容してくれるはずがなかったのである。そのころにはもう、ショコラは対人関係に支障をきたすほど、利己的な考えを植えつけられていた。
とうぜん、学校生活がうまくいくはずもない。彼女の周囲からは人が離れていき、家に帰っては「学校でいじめられている」と泣きつく日々だった。
そんな事態を、娘を溺愛している母親が放っておくはずがなかった。
母は学校に乗りこむと、猛烈に抗議した。それで大騒ぎになり、ショコラをいじめていたとされる子供たちは、親とともに謝罪した。――表向きは。
だが、それで「はい仲直り」といくはずもない。むしろ、「花岡聖恋蘭に関わってはいけない」という暗黙のルールができ、ますます関係がこじれた。
そしてショコラが親に泣きつき、再び母親が学校に抗議し――結果、担任教師が精神を病み、退職まで追いこまれた。
挙句の果てに、担任教師の家族が激怒し、両親を相手取って裁判沙汰になりかけた。
けっきょく、父方の祖父母が出てきてどうにか示談となったが、根本的な問題はいまだに解決していない。
あの両親は、子供たちを蝕む毒なのだ。
他人のものをほしがり、手に入れることでしか愛情を確かめるすべをしらない少女。自分勝手な両親のせいで、人生を捻じ曲げられてしまった妹。
助けてあげられるものならば助けてやりたかったが、もはやどうすることもできない。
今回の件だって、どちらに責任があるかと言えば、いたいけな十六歳の少女に手を出す三十二歳の男が圧倒的に悪い。法律的にも犯罪である。
和也の両親など、婚約破棄の経緯を報告した際には、号泣しながら謝罪してきたほどだ。親に土下座までさせるなんて、親不孝もいいところである。
だから、ショコラは被害者なのかもしれない。彼女はまだ十六歳だ。
――だが、もう十六なのだ。
そろそろ、自分のしたことの責任は自分で取るべきだ。
だから、ケジメはしっかりつける。これが幸恵が教えてやれる、最後のことなのだから。
「――なるほど、お話はわかりました」
話を聞き終えた玲一が、静かに言った。
「念のためお伺いしておきますが、弁護士を挟むとなると、婚約者との復縁はまず望めません。最終的にどのようなご希望をなさいますか?」
「構いません。わたしとしても、婚約相手の妹に手を出すような男との復縁は望んでいませんから。とにかく、自分のしたことの責任を取ってもらえれば、それでいいんです」
「そうですか。今回の場合、正式にプロポーズを受けて、婚約指輪も受け取っておられますし、お互いの家族にあいさつと結納もすませているということで、婚約の成立を証明することは可能でしょう。不当な理由での婚約破棄ということで、精神的苦痛に対する慰謝料と、式場などのキャンセル代の請求も可能と言えるでしょうね」
「第三者についてはどうですか? 結婚に反対した親に対しても、慰謝料の請求は可能でしょうか?」
「影響が大きい場合は、可能です。反対の理由が公序良俗に反していたり、不当な干渉と判断できる場合は、損害賠償責任が生じます。今回のケースですと、妹さんのために我慢すべきという言動が度を超えていると判断できますので、慰謝料が認められる可能性は高いでしょう。……問題は、不倫相手とされる妹さんが未成年であるという点ですね」
幸恵はうなずいた。
それに関しては、一番気にしていたところだったからだ。
「不倫の当事者である婚約者が社会人であり、その浮気相手が未成年である場合、一般的に、判断能力が高いとされる成人側に、より大きな責任があるとされます。未成年者は法律行為ができませんので、法定代理人の同意が必要です。この法定代理人は、一般的にはご両親となります。同じ未成年者でも、十八、十九ほどですと責任能力があるとされますので、慰謝料請求は可能かもしれません。ですが、十六歳となると、期待する結果は得られないかもしれませんね」
「やはり……そうですか」
「ええ。未成年者の場合、過剰な制裁は避けなければなりません。それに実際問題、慰謝料の支払い能力もないでしょう。ご両親の支援を受けて慰謝料を払う、といった対応もできますが、これに関しては慎重に進めていく必要があるでしょうね」
「わかりました。よろしくお願いします」
幸恵は頭を下げる。
すでに彼女の中からは、目の前の彼が同級生だという意識は消えていた。
彼が幸恵の望みを真摯に聞いてくれたというのも大きかった。
最初は不安だったが、今は彼に任せていいと思える。
「今後、婚約者側とのご連絡は、私を通して行ってください。向こうにもそのように通知しましょう」
「はい、お願いします」
今の二人は、弁護士と依頼人。ならば、彼を信じてみよう。
ショコラの本名は「聖恋蘭」ですが、漢字表記だと字面が鬱陶しいので、あえてカタカナ表記にしています。




