25
子供とは正直で、時として残酷だ。
他人と違うもの、目立つ存在があればからかわれ、孤立する。
もちろん、子供だけに限った話ではない。大人の世界でも、そういうことはごまんとある。
だが、子供の遠慮ない発言の前では、ふれてはいけないという暗黙のルールも関係ない。
他人に対する気づかいよりも、己の疑問や興味が先立つのだろう。
それはひょっとすると、形式的な平等を重視するという、この国の風潮に一因があるのかもしれない。
他人と違うということが当たり前の世の中であれば、疑問に思うこともないだろうから。
「今度の授業参観、やだな……」
そう愚痴をもらした池山リコの、青白くて陰鬱そうな顔が印象的だった。
当時小学生だった幸恵は、どうして、と首をかしげた。
「だって、ウチ、お母さんいないから。みんなお母さんがくるのに、ウチだけお父さんがくるなんて、変でしょ」
変、とはどういうことだろう。
普通とは一体なんだろう。
リコの家は父子家庭だ。母親とは死別している。
誰が悪かったわけでもなく、ただ不運が重なった結果。それでも、残された娘は「おかしい」と言われなければいけないのだろうか。
――それならば、親に捨てられた自分は、どれだけ“おかしい”のだろう。
「見にこないで、ってパパには言ったんだけど、わかってくれないんだ」
「……リコちゃんが頑張ってるところ、見たいんじゃないの?」
「そんなの自分の勝手じゃん。娘がみんなにいじめられてもいいの? 父親なんだから、そのくらい気を使ってよね」
幸恵にしてみれば、彼女のほうがよほど「娘だから」と甘えているように思えた。
本当に嫌なら理由くらい話せばいいのに。父親だって超人ではないのだから、黙っていても察してほしい、なんて都合のいい話だ。
言葉にしなければ、伝わるものも伝わらない。
両親に恵まれなかった幸恵にしてみれば、忙しい合間を縫って授業参観に出ようとしてくれる父親の存在はうらやましい限りだ。ちなみに参観日は平日で、リコの父親は土日祝が休みのサラリーマンである。
(そんなに父親が嫌なら、わたしにちょうだいよ。わたしだったら、そんなふうに困らせたりしないのに)
胸に沸いたどす黒い気持ちをぐっと抑えながら、幸恵はリコを励ました。
「気にすることないって。からかってくるほうが変なんだから。みんな、当たり前にお母さんがいるから、ありがたみがわかってないんだよ」
「そうだよね。……あーあ、からかってくるヤツらの親、全員、事故かなにかで死んでくれないかなー。そうしたら、もっと仲良くできると思うんだよね」
その場で相手を張り倒さなかったことを、どうか褒めてほしい。
いや、その時に我慢せず怒っていれば、今ごろはモヤモヤとした想いを抱えずにすんだのかもしれない。――今更どうこう言っても詮無いことだけれど。
結論として、池山リコがこの件でからかわれることはなかった。
当日はリコの父親よりも、幸恵の祖父母のほうが話題にのぼったからだ。
「おまえの親、ジジババじゃん! かわいそー」
そうからかってくる男子に交じって、池山リコは嬉しそうな笑い声をあげた。
「ユキちゃんのおかげで、わたしのパパが目立たなかった! ありがとう!」
怒りで頭が真っ白になったのは、あの時が初めてだった。
その日、幸恵は人生で初めて殴り合いの喧嘩というものを経験した。
学校や保護者を巻き込む大騒動に発展したあの時のことは、もう思い出したくもない。祖父母にも迷惑をかけてしまった。
――もっとうまく立ち回ればよかった。そうすれば、二人を傷つけることもなかったのに。
喧嘩の原因を知った時の、彼らの悲しげな顔を見て、心底後悔した。
「ごめんなさいね」
そう謝る祖母と、悔しそうにうつむく祖父を前にして、「二人は悪くないよ」と慰めるのが精いっぱいだった。
忘れ去ってしまいたい、幼いころの苦い記憶だ。
――それでも、こうしてかつての顔ぶれを目にすると、嫌でも浮かんできてしまう。
「だいじょうぶ? 酔ってる?」
声をかけられて、はっと意識が浮上する。
ずいぶんと思考に没頭してしまったようだ。
心配してくれたかつてのクラスメイトに軽く謝り、平気だと返す。
「そう? それならいいけど」
たいして興味なさそうに、彼女の意識は次の話題へと移っていく。
幸恵はぼんやりと、集まった顔ぶれを見渡した。
あれから十年以上の月日が経った。かつての面影を残す者もいれば、すっかりと様変わりしてしまった者もいる。
それでも、こうして顔を突き合わせてみると、ずいぶんと懐かしい、かつての空気がよみがえってくる。
まるで、あの教室のにおいを嗅ぎ、楽しそうな笑い声が耳をくすぐるような、なんともいえない感覚がするのだ。
――だからかもしれない、あの日のできごとを思い出したのは。
けれど、決してつらいばかりの記憶ではなかった。楽しかったことだって、たくさんある。
こうして集まりに参加しようと思うくらいには、仲間意識があるのだから。
「ねぇねぇ、聞いた? レーチくん、弁護士なんだって」
向かいに座るリコがこそこそと小声でそう言ったが、その声色には抑えきれない興味がにじんでいた。
「えー、いいなぁ。カッコいい」
「しかも彼、まだ独身だって」
「うそぉ。あたし、狙っちゃおうかなぁ」
「アンタもう人妻でしょ! 子供だっているくせに」
「ジョーダン、ジョーダン」
「え、じゃあ、わたし狙っちゃおうかな。まだ独身だし、ちょうどいいから」
「なにがちょうどいいんだ、なにが」
ほどよく酒が入って盛り上がっている周囲に、幸恵は、
(これは、彼に仕事を依頼した、なんて言い出せる雰囲気じゃないな)
などと考える。口にしたが最後、質問攻めにあうに違いない。
ちらりと話題の彼に視線をやると、男同士で固まって盛り上がっている。あの間に入っていくのは、ちょっと勇気がいりそうだ。
(西澤先輩、音羽先輩、ごめんなさい。ミッションは達成できそうにないです……)
心の中で手を合わせながら、幸恵はカクテルに口をつけた。
本当はビールのほうが好きだったが、空気を読んでやめておいた。
「なーなー、こっちと机くっつけようぜー」
隣のテーブルの田原が、唐突に会話に入ってきた。
他の席の男子も、アルコールで頬を上気させながら、上機嫌で手を振っている。
「えー、どうしようかなぁ」
リコがまんざらでもなさそうに答える。
「女子たちー、こっちきなよー」
「そーそー、寂しいじゃん。一緒に飲んでほしいなぁ」
「大皿頼んだから、シェアしようぜー」
「えー? おごってくれるならいいけどぉ?」
「おごるおごるー、おごらせてくださいよ!」
きゃはは、とテンション高く笑い出す彼らに、個室を貸し切っておいて本当によかったと安堵した。そうでなければ、今ごろは他の客の迷惑になっていたに違いない。
あるいは、貸し切りだからこそ羽目をはずしているのかもしれないが。
(……これは、断れる雰囲気じゃないな……)
こちらの意思確認すらなしにテーブルがくっつけられ、そのまま会話が再開されたのを見て、幸恵はあきらめて席に着いた。
「みんな、いまなにしてんのー? 俺、バーテンダーやってる」
「マジ? なんかそれっぽい」
「っしょー? ホストやってた時もあるから、マジで」
「ウケるー! その顔でぇ?」
「いやいや、こう見えて売れっ子よ?」
「噓でしょー?」
「マジマジ。そっちは?」
「あたしアレ、ブライダルデザイナー」
「へー。やっぱあれ? 自分の結婚もデザインしちゃう感じ?」
「独身で悪かったな」
「へっ? いやいや、そういうつもりじゃないって! なんなら俺とか、どう?」
「ないわー。年収一千万のイケメンになってから出直してくれる?」
「ですよねー! 振られた!」
「つーか、理想高ッ!」
そういえば、このグループはこういうノリだったな、と思い出す。
あのころから変わっていないのか、童心に返っているのか。
どちらにせよ、なんだかテンションについていけなくなってきたな、とうんざりしていると、隣にどかりと大柄の男が座った。
「よっ、久しぶり!」
「ああ、田原……くん」
「真吾でいいって! 俺とお前の仲だろー?」
「はぁ……」
どんな仲だ、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
親しくしていた覚えはないし、当時から苗字で呼び合っていたはずだ。
どうやら彼の脳内では、ありもしない青春のストーリーが出来上がっているらしい。
「ところでさー」
ずいっと身を乗り出して、田原はこちらの顔を覗き込んだ。
「花岡、結婚寸前で破局したんだって?」
「…………は?」
「ええっ、そうなの?」
「かわいそー! なにそれー?」
あまりに予想外の内容にぽかんとしていると、周囲の女性陣が「詳しく教えてくれ」と言わんばかりに、次々に食いついてくる。
「いや……そもそも、どこから聞いたの、そんな話」
「お前の母親が愚痴ってるのを、うちのおふくろが聞いたってさ。しかも、妹に婚約者を寝取られたんだって?」
「うそーっ!」
「ありえない!」
周りが興奮気味に盛り上がるのに反比例して、幸恵の心はどんどん冷めていった。
デリケートな内容をベラベラと振りまく母親に嫌悪する一方で、そんな話題を躊躇もなく取り上げて、さも心配そうな顔をしている田原にも、同じくらい腹が立つ。
幸恵が怒りのあまり黙っていると、なにを勘違いしたのか、田原が慰めるように頭をなでてきた。
ぞっとして反射的に身体を引く。こちらを撫でようとした手が空ぶったが、彼が気にしたようすはなかった。
田原は、きわどい話題ですらなんでも共有できる長年の親友のような顔で、なおも続ける。
「まあ、そんなに気ぃ落とすなって! 男なんて星の数ほどいるって!」
「そーそー。なんなら、あたしらの知ってる男、紹介しよっか?」
「いや、いいよ……」
「ひょっとして、まだ引きずってる? 世の中、そんなサイテー野郎ばっかりじゃないよ! ホントいい人もいっぱいいるから!」
「悪いけど、まだそういう気分になれなくて。せっかく気を使ってくれたのに、ごめんね」
「そっか……。ううん、気にしないで。こっちこそ、ごめんね」
新たな出会いを提案してくれた彼女も、悪い人ではないのだろう。
ただ、中にはどこか白けた顔で目くばせしている人もいて、なんとなく気まずくなった。
合わないな、と幸恵は胸のうちでひとりごちる。
本当は、向こうにいるおとなしいグループに混ぜてもらいたかった。例の喧嘩騒動が起きるまでは、ずっと仲良くしていた人たちだ。あれ以来、遠巻きにされてしまったけれど。
周囲から浮き気味だった幸恵を、リコが自分のテーブルに誘ってくれたことに関しては、感謝している。幸恵だって、さすがに小学生の時分の喧嘩を持ち出して、彼女を拒絶するつもりはない。
それに、こうしてわざわざ声をかけてくるのは、彼女なりに当時のことを気にしているからかもしれなかった。
「まあさ、なんかあったら俺を頼れよ。いつでも相談に乗るからさ」
「あー……ありがとう」
「あっ、そうそう。いざって時のために、ライン交換しない?」
「ごめん。私、ラインやってないから」
嘘である。本当は仕事の業務連絡に使うこともあって、登録くらいはしている。
だが、この無神経な男にプライベートな情報をさらすのは嫌だった。
「マジ? じゃあ、いま登録しちゃおうよ」
「いや、ラインが苦手で」
「使ってみたら慣れるって、絶対!」
「でも、アドレス帳とか登録しないといけないんでしょ? なんか抵抗があって」
「考えすぎだって! な、やろうよ。お願い!」
「ごめんねー」
いい加減にしつこくなってきたので、トイレに席を立つふりをして、その場をやり過ごすことにした。
どうにか切り抜けたと安堵した幸恵は、ほとぼりが冷めてから戻ろうと、少しその場で時間を潰すことにした。
――結果的に、この判断がまずかった。
トイレから戻った時、他の面子がいなかったのである。
いや、いなかった、と言うと語弊がある。
正確には、田原を除いていなくなっていたのだった。




