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 駐車場の入り口に立っていた人物を見て、幸恵はぎくりと足を止めた。


 制服姿のままだからだろうか、夜の街特有の絢爛な空気に、その少女の存在は浮いて見えた。ようするに悪目立ちしている。



「……お姉ちゃん……」



 あの日以来会っていなかった妹の顔は、ひどく憔悴していた。


 普段の彼女ならば、目の下に隈を作ったまま人前に出るなど決してあり得ない。自分を最も美しく見せるプロデュース力は、幸恵には持ちえないものだ。



「あの……あのね、あたし……」



 もぞもぞと居心地悪そうにしながら言いよどむショコラに、幸恵は重いため息をつく。


 そして、つかつかと一気に距離をつめると、勢いよく手を振りあげた。






 ――パァンッ!






「……あ……」



 燃えるように熱い頬を押さえ、ショコラは呆然と姉を見つめる。


 そんな彼女に再び大きなため息をついて、幸恵はすぐ脇に止めてある自家用車を指さした。



「――乗んなさい」


「え……?」


「とりあえず、今はそれで勘弁してあげる。……なにか話したいことがあるんでしょう?」


「……お姉ちゃん……」



 大きな目に涙をいっぱいためて、ショコラは声を震わせる。



「ありがとう……っ」



 幸恵は嫌そうに顔をしかめた。



「言っておくけど、許したわけじゃないから。言いたいことがあるなら聞く、それだけよ」


「うん、わかってる」



 本当にわかっているのかどうか。


 気になったが、会社の駐車場でこれ以上言い争うわけにもいかず、無言のまま運転席に乗り込んだ。







 なんとなく自室に招くのは嫌だったので、てきとうなファミレスに入った。


 幸恵のアパートの所在地が、妹経由で母親の耳に入らないとも限らない。


 かつて袂を分かって以来、自宅はおろか職場の情報だって隠している。残念ながら職場については和也によってバラされてしまったが、これ以上の情報漏洩は防がねばならない。


 本当は結婚の報告だってしたくなかったのだ。和也がどうしてもと頼み込むから折れただけで。



「お前とのことを真剣に考えているからこそ、ご両親にもちゃんと認められたいんだよ」



 ――なんて甘言に踊らされたのが馬鹿だった。今思えば、自分の世間体が大事だったのだろう。


 その上、向こうの両親に是非にと乞われれば、幸恵に拒めるはずがなかった。


 和也の親はいい人たちだったが、人を疑うということをあまり知らなかった。いや、よもやこの世にそれほど根性のねじ曲がった人間が存在するなど、ふつうに生活していれば思いもよらないのが当たり前とも言える。


 だが、人間は学習する生き物だ。


 過去の失敗を思い起こしながら、同じ過ちは犯すまいと誓う。



「それで? なにがあったの」



 メニューを手渡しながら、幸恵は本題を切り出した。


 ショコラはぎゅっと胸元で携帯を握りしめながら、ぼそぼそと話し出した。



「ストーカーされてるの……」


「誰に?」


「………………和也さんに……」


「はぁ?」



 思わず訝しそうな声が出る。



「ストーカーもなにも、付き合ってるんでしょう? なんでまた、そんなことに」


「実は……別れたの」


「――はあっ!?」



 今度はかなり大きな声になった。


 他の客たちの視線が突き刺さり、慌てて声を落とす。



「……なによそれ……」



 怒りに声が震えた。



「……あんた……本気で好きだったんじゃないの? わたしから略奪するくらい、あいつのこと。結婚するんじゃなかったの? そのていどの気持ちだったの? だったら……わたしはなんのためにこんな目に遭ったのよ!」






 ――ぅおっほん!




 わざとらしい咳払いが、はっと幸恵の思考を引き戻した。


 興奮のあまり、いつの間にか声を荒げていたらしい。


 うかがうような視線がいくつも感じられて、幸恵は再び声を押し殺した。



「……妊娠もしてるってのに、なに考えてるの……」


「…………てない……」


「は?」


「してないの、妊娠」


「――なんですって?」



 とっさに意味が理解できない。



「じゃあなに……? 嘘をついてたって言うの? 騙して、むりやり責任を取らせたの……?」


「違うっ!」



 これにはショコラも強く否定した。



「あたし、妊娠したなんて、言ってない……」


「だって、現に――」


「生理が来なかったんだもん!」



 ショコラの瞳から、堰を切ったように涙があふれだす。



「それで、怖くなって……和也さんに相談したの。そしたら、妊娠したって思われたみたいで……」


「向こうが勝手に盛り上がって、責任を取るって言ったのね?」


「ううん、逆。お姉ちゃんを裏切れない、って……」


「はあー?」



 婚約者の妹に手を出した時点で立派に裏切ってるだろうが、なにを誠実ぶってるんだ大馬鹿野郎、と心の中で盛大に罵倒する。ついでに妄想の中で顔が腫れあがるまでぶん殴った。


 そのくらいしないと、やってられない。



「つまり、なに? 堕胎しろって言ったの?」


「……うん……」


「サイッテー。クズ。あり得ない。あんたよくあいつのこと好きでいられたわね。わたしだったら冷める。ソッコーで冷める。あーホントあいつと婚約したの人生最大の汚点だわー。できることなら出会う前からやり直したい。わたしの人生から抹消したい」


「お、お姉ちゃん……?」



 ――あの姉が、わかりやすく毒を吐き散らしている。しかもちょっと投げやりな感じで。


 初めて見る姿に、ショコラは目を白黒させた。



「そんなことがあって、なんだってこうなったわけ? 一体全体どういう経緯で?」


「それは……」



 ――どうしてだっただろう。


 問われて初めて、ショコラは当時を思い返した。







『――ごめん。俺は幸恵を裏切れない』



 電話越しにそう言われたのは、生理がこないと切り出した直後だった。


 ただ相談のつもりで吐露したショコラは、思いがけない返答に言葉をつまらせた。



「え……?」


『キミのことは好きだよ。でも、俺は幸恵の婚約者だから。このことを知られたら、きっと幸恵が傷つく』


「そんな……」



 絶望に目の前が真っ暗になった。



(あたしはこんなに不安なのに。あの日みたいになぐさめてほしいのに。助けてほしいのに。――それでも、お姉ちゃんを取るの?)



 ――妊娠しているかもしれない。



 そうやって追いつめられ、弱り切っていた時でなければ、あれほど心を揺さぶられることもなかっただろう。


 だが、摩耗した心に、その言葉は深く、鋭く突き刺さった。



『……幸恵と婚約さえしていなければ、俺は、キミのことを――』



 ――お姉ちゃんさえ、いなければ?



 その瞬間、ショコラ自身さえも自覚していなかった、姉に対する劣等感、嫉妬心、そして憎悪が胸の中を駆け巡った。



(……ずるい……)



 それは一滴の黒いインクのように、じわりとにじみ、そして急速に浸食していった。



(ずるい――ずるいずるいずるいずるい!! なんでお姉ちゃんばっかり! どうしてあたしじゃいけないの! 昔からいつもそうだ! あたしのほしいものは全部、お姉ちゃんが持ってる! あたしはこんなに苦しんでるのに! 姉妹なのにどうしてこんなに違うの!? そんなのずるい!!)



 今までずっと、見ないようにしていたもの。


 憧れるたびに膨らんでいったもの。


 いや、本当に憧れていたのかすらわからない。


 ただ負けを認めたくなくて、感情をすり替えていたのかもしれない。



(――許せない)



 急激に、強烈に、膨れ上がった感情の名は――『愛憎』だった。







「……だから、和也さんから『幸恵とは別れる、結婚しよう』ってメールがきた時、勝ったと思った。これでお姉ちゃんより上だって。見返してやれる、って」



 本当に彼を愛していたのかは、よくわからない。


 その時にはぶじに月経がきて、妊娠していないこともわかっていたけれど、ほの暗い喜びが勝ってしまった。


 今思えば、『姉より優れた自分』に酔っていただけなのかもしれない。


 恋から目が覚めた時、あれほどこだわっていた姉への執着も失ってしまった。


 今はただ、気力を失い抜け殻のようになった心があるだけだ。



「……馬鹿ね、あんた」



 幸恵は力なく言った。



「ここだけの話だけどね。……わたしだって、あなたに嫉妬したことくらいあるわよ」


「お姉ちゃんが?」


「当然でしょ。あなた、わたしのこと超人かなにかだと勘違いしてない?」



 まさかと言いたげな妹の顔に、幸恵は苦笑をもらした。



「あのね、そりゃわたしだって、親に愛されて育ちたかったわよ。甘やかされたいとは言わないけど、せめて人並みの愛情がほしかった。ずっと、わたしの両親は子供嫌いなんだと思ってたわ。それなのに、ある日突然あんたが現れて、両親に愛されまくった姿を見せつけてくるんだもの。なんにも感じないわけないでしょう?」



 もちろん、祖父母にまっとうな教育をほどこされた今となっては、ショコラの環境が劣悪だと理解できる。


 だが、幼いころの自分が妹を見たら、どう思うだろう。


 ――きっと憎んだし、怨んだに違いないと思うのだ。



「祖父母に引き取ってもらえなかったら、今ごろどうなっていたことか」


「え? おじいちゃんとおばあちゃんに、むりやり連れていかれたんじゃないの?」



 今度は幸恵が目をむく番だった。



「はあ? 育児放棄されてたわたしを不憫に思って、二人が引き取ってくれたのよ。なんでそんな話になってるの?」


「だってママが、お姉ちゃんはむりやり連れていかれた、って……お姉ちゃんも、あたしたちを見捨ててあっちを取ったって。だから、ママはお姉ちゃんに怒ってるんだと思ってた」


「なにそれ。あんた、そんな話を信じてたの?」



 よくもそんなほらを吹けるものだと呆れるばかりだ。


 自己保身で彼女の右に出る者はいないだろう。



「じゃあ、嘘なの?」


「当たり前でしょ」


「そんな……ママがショコのこと騙してたなんて……あたしはこれから、誰のことを信じればいいの……?」


「そんなの決まってるでしょ」



 きっぱりと言い切られて、ショコラは不思議そうに顔をあげた。



「自分で考えて、自分で決めなさい。一方の話を鵜呑みにするんじゃなくて、いろんな方面から見るの。そのうえで、自分ならどうするか、自分の心に聞いてみる。それが、自分で決めるってことよ」



 前々から気になっていたが、この妹は少々、他人の意見に流されやすいきらいがある。


 今まさに、幸恵の言葉をあっさり信じていることからも、それがうかがえる。


 少しは自分で吟味することを覚えてほしい。



「……自分で、決める……」



 思うところがあったのか、ショコラは神妙な顔で考え込んだ。


 そんなことを教えてくれる人すらいなかったのかと思うと、哀れにすら思える。



「……とりあえず、あとの話は注文してからにしましょう」



 重くなった空気を切り替えるように、幸恵は努めて明るく言った。


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