21
駐車場の入り口に立っていた人物を見て、幸恵はぎくりと足を止めた。
制服姿のままだからだろうか、夜の街特有の絢爛な空気に、その少女の存在は浮いて見えた。ようするに悪目立ちしている。
「……お姉ちゃん……」
あの日以来会っていなかった妹の顔は、ひどく憔悴していた。
普段の彼女ならば、目の下に隈を作ったまま人前に出るなど決してあり得ない。自分を最も美しく見せるプロデュース力は、幸恵には持ちえないものだ。
「あの……あのね、あたし……」
もぞもぞと居心地悪そうにしながら言いよどむショコラに、幸恵は重いため息をつく。
そして、つかつかと一気に距離をつめると、勢いよく手を振りあげた。
――パァンッ!
「……あ……」
燃えるように熱い頬を押さえ、ショコラは呆然と姉を見つめる。
そんな彼女に再び大きなため息をついて、幸恵はすぐ脇に止めてある自家用車を指さした。
「――乗んなさい」
「え……?」
「とりあえず、今はそれで勘弁してあげる。……なにか話したいことがあるんでしょう?」
「……お姉ちゃん……」
大きな目に涙をいっぱいためて、ショコラは声を震わせる。
「ありがとう……っ」
幸恵は嫌そうに顔をしかめた。
「言っておくけど、許したわけじゃないから。言いたいことがあるなら聞く、それだけよ」
「うん、わかってる」
本当にわかっているのかどうか。
気になったが、会社の駐車場でこれ以上言い争うわけにもいかず、無言のまま運転席に乗り込んだ。
なんとなく自室に招くのは嫌だったので、てきとうなファミレスに入った。
幸恵のアパートの所在地が、妹経由で母親の耳に入らないとも限らない。
かつて袂を分かって以来、自宅はおろか職場の情報だって隠している。残念ながら職場については和也によってバラされてしまったが、これ以上の情報漏洩は防がねばならない。
本当は結婚の報告だってしたくなかったのだ。和也がどうしてもと頼み込むから折れただけで。
「お前とのことを真剣に考えているからこそ、ご両親にもちゃんと認められたいんだよ」
――なんて甘言に踊らされたのが馬鹿だった。今思えば、自分の世間体が大事だったのだろう。
その上、向こうの両親に是非にと乞われれば、幸恵に拒めるはずがなかった。
和也の親はいい人たちだったが、人を疑うということをあまり知らなかった。いや、よもやこの世にそれほど根性のねじ曲がった人間が存在するなど、ふつうに生活していれば思いもよらないのが当たり前とも言える。
だが、人間は学習する生き物だ。
過去の失敗を思い起こしながら、同じ過ちは犯すまいと誓う。
「それで? なにがあったの」
メニューを手渡しながら、幸恵は本題を切り出した。
ショコラはぎゅっと胸元で携帯を握りしめながら、ぼそぼそと話し出した。
「ストーカーされてるの……」
「誰に?」
「………………和也さんに……」
「はぁ?」
思わず訝しそうな声が出る。
「ストーカーもなにも、付き合ってるんでしょう? なんでまた、そんなことに」
「実は……別れたの」
「――はあっ!?」
今度はかなり大きな声になった。
他の客たちの視線が突き刺さり、慌てて声を落とす。
「……なによそれ……」
怒りに声が震えた。
「……あんた……本気で好きだったんじゃないの? わたしから略奪するくらい、あいつのこと。結婚するんじゃなかったの? そのていどの気持ちだったの? だったら……わたしはなんのためにこんな目に遭ったのよ!」
――ぅおっほん!
わざとらしい咳払いが、はっと幸恵の思考を引き戻した。
興奮のあまり、いつの間にか声を荒げていたらしい。
うかがうような視線がいくつも感じられて、幸恵は再び声を押し殺した。
「……妊娠もしてるってのに、なに考えてるの……」
「…………てない……」
「は?」
「してないの、妊娠」
「――なんですって?」
とっさに意味が理解できない。
「じゃあなに……? 嘘をついてたって言うの? 騙して、むりやり責任を取らせたの……?」
「違うっ!」
これにはショコラも強く否定した。
「あたし、妊娠したなんて、言ってない……」
「だって、現に――」
「生理が来なかったんだもん!」
ショコラの瞳から、堰を切ったように涙があふれだす。
「それで、怖くなって……和也さんに相談したの。そしたら、妊娠したって思われたみたいで……」
「向こうが勝手に盛り上がって、責任を取るって言ったのね?」
「ううん、逆。お姉ちゃんを裏切れない、って……」
「はあー?」
婚約者の妹に手を出した時点で立派に裏切ってるだろうが、なにを誠実ぶってるんだ大馬鹿野郎、と心の中で盛大に罵倒する。ついでに妄想の中で顔が腫れあがるまでぶん殴った。
そのくらいしないと、やってられない。
「つまり、なに? 堕胎しろって言ったの?」
「……うん……」
「サイッテー。クズ。あり得ない。あんたよくあいつのこと好きでいられたわね。わたしだったら冷める。ソッコーで冷める。あーホントあいつと婚約したの人生最大の汚点だわー。できることなら出会う前からやり直したい。わたしの人生から抹消したい」
「お、お姉ちゃん……?」
――あの姉が、わかりやすく毒を吐き散らしている。しかもちょっと投げやりな感じで。
初めて見る姿に、ショコラは目を白黒させた。
「そんなことがあって、なんだってこうなったわけ? 一体全体どういう経緯で?」
「それは……」
――どうしてだっただろう。
問われて初めて、ショコラは当時を思い返した。
『――ごめん。俺は幸恵を裏切れない』
電話越しにそう言われたのは、生理がこないと切り出した直後だった。
ただ相談のつもりで吐露したショコラは、思いがけない返答に言葉をつまらせた。
「え……?」
『キミのことは好きだよ。でも、俺は幸恵の婚約者だから。このことを知られたら、きっと幸恵が傷つく』
「そんな……」
絶望に目の前が真っ暗になった。
(あたしはこんなに不安なのに。あの日みたいになぐさめてほしいのに。助けてほしいのに。――それでも、お姉ちゃんを取るの?)
――妊娠しているかもしれない。
そうやって追いつめられ、弱り切っていた時でなければ、あれほど心を揺さぶられることもなかっただろう。
だが、摩耗した心に、その言葉は深く、鋭く突き刺さった。
『……幸恵と婚約さえしていなければ、俺は、キミのことを――』
――お姉ちゃんさえ、いなければ?
その瞬間、ショコラ自身さえも自覚していなかった、姉に対する劣等感、嫉妬心、そして憎悪が胸の中を駆け巡った。
(……ずるい……)
それは一滴の黒いインクのように、じわりとにじみ、そして急速に浸食していった。
(ずるい――ずるいずるいずるいずるい!! なんでお姉ちゃんばっかり! どうしてあたしじゃいけないの! 昔からいつもそうだ! あたしのほしいものは全部、お姉ちゃんが持ってる! あたしはこんなに苦しんでるのに! 姉妹なのにどうしてこんなに違うの!? そんなのずるい!!)
今までずっと、見ないようにしていたもの。
憧れるたびに膨らんでいったもの。
いや、本当に憧れていたのかすらわからない。
ただ負けを認めたくなくて、感情をすり替えていたのかもしれない。
(――許せない)
急激に、強烈に、膨れ上がった感情の名は――『愛憎』だった。
「……だから、和也さんから『幸恵とは別れる、結婚しよう』ってメールがきた時、勝ったと思った。これでお姉ちゃんより上だって。見返してやれる、って」
本当に彼を愛していたのかは、よくわからない。
その時にはぶじに月経がきて、妊娠していないこともわかっていたけれど、ほの暗い喜びが勝ってしまった。
今思えば、『姉より優れた自分』に酔っていただけなのかもしれない。
恋から目が覚めた時、あれほどこだわっていた姉への執着も失ってしまった。
今はただ、気力を失い抜け殻のようになった心があるだけだ。
「……馬鹿ね、あんた」
幸恵は力なく言った。
「ここだけの話だけどね。……わたしだって、あなたに嫉妬したことくらいあるわよ」
「お姉ちゃんが?」
「当然でしょ。あなた、わたしのこと超人かなにかだと勘違いしてない?」
まさかと言いたげな妹の顔に、幸恵は苦笑をもらした。
「あのね、そりゃわたしだって、親に愛されて育ちたかったわよ。甘やかされたいとは言わないけど、せめて人並みの愛情がほしかった。ずっと、わたしの両親は子供嫌いなんだと思ってたわ。それなのに、ある日突然あんたが現れて、両親に愛されまくった姿を見せつけてくるんだもの。なんにも感じないわけないでしょう?」
もちろん、祖父母にまっとうな教育をほどこされた今となっては、ショコラの環境が劣悪だと理解できる。
だが、幼いころの自分が妹を見たら、どう思うだろう。
――きっと憎んだし、怨んだに違いないと思うのだ。
「祖父母に引き取ってもらえなかったら、今ごろどうなっていたことか」
「え? おじいちゃんとおばあちゃんに、むりやり連れていかれたんじゃないの?」
今度は幸恵が目をむく番だった。
「はあ? 育児放棄されてたわたしを不憫に思って、二人が引き取ってくれたのよ。なんでそんな話になってるの?」
「だってママが、お姉ちゃんはむりやり連れていかれた、って……お姉ちゃんも、あたしたちを見捨ててあっちを取ったって。だから、ママはお姉ちゃんに怒ってるんだと思ってた」
「なにそれ。あんた、そんな話を信じてたの?」
よくもそんなほらを吹けるものだと呆れるばかりだ。
自己保身で彼女の右に出る者はいないだろう。
「じゃあ、嘘なの?」
「当たり前でしょ」
「そんな……ママがショコのこと騙してたなんて……あたしはこれから、誰のことを信じればいいの……?」
「そんなの決まってるでしょ」
きっぱりと言い切られて、ショコラは不思議そうに顔をあげた。
「自分で考えて、自分で決めなさい。一方の話を鵜呑みにするんじゃなくて、いろんな方面から見るの。そのうえで、自分ならどうするか、自分の心に聞いてみる。それが、自分で決めるってことよ」
前々から気になっていたが、この妹は少々、他人の意見に流されやすいきらいがある。
今まさに、幸恵の言葉をあっさり信じていることからも、それがうかがえる。
少しは自分で吟味することを覚えてほしい。
「……自分で、決める……」
思うところがあったのか、ショコラは神妙な顔で考え込んだ。
そんなことを教えてくれる人すらいなかったのかと思うと、哀れにすら思える。
「……とりあえず、あとの話は注文してからにしましょう」
重くなった空気を切り替えるように、幸恵は努めて明るく言った。




