20
初めて会った時から、姉は完璧な女性だった。
「ショコちゃん。あなたにはお姉ちゃんがいるのよ」
「……おねえちゃん?」
まだ小学校に入学する前、おそらく四歳くらいのこと。
とつぜん母親にそう言われて、ショコラは目を瞬かせた。
「おねえちゃんはどこにいるの?」
「あなたのおじいちゃんとおばあちゃんのところよ」
「じぃじとばぁば? でも、しょこはあったことないよ」
「あの人たちは悪い人たちなの。あなたのお姉ちゃんも、おじいちゃんとおばあちゃんがむりやり連れていってしまったのよ。ひどいでしょう?」
「そんな……ひどいよ! おねえちゃんがかわいそう! まま、はやくおねえちゃんをむかえにいこう!」
「そうね、迎えにいきましょう。ショコちゃん、お姉ちゃんに会ったら、お家で一緒に暮らそうってお願いするのよ?」
「うん、わかった!」
そうして出会った姉は、まさに理想のレディだった。ショコラが思い描いていた、物語に出てくるお姫様のような。いや、彼女は正しく物語から抜け出てきたヒロインそのものだった。
美しい人だった。それでいて、格好いい人だった。
自立していてなんでもできる。学校でも優秀らしい。しょっちゅう賞状やメダルをもらってきては、なんでもないような顔をして机の奥にしまっていた。
うらやましくて、つい母親に言ってしまった。
「まま、しょこもおねえちゃんみたいに、めだるがほしい」
次の日には、姉の持っているものとそっくりなメダルが与えられた。
嬉しかった。まるで、自分が姉のように素晴らしい人間になれたようで。
今思えば、あれは姉が譲ってくれたものだったのだろう。彼女はよくショコラのわがままを叱ったが、最終的には折れてくれた。
母が姉を嫌っているのは、そのころからなんとなく理解していた。
ショコラの前では取り繕っているが、二人の間の空気がどうにも重たく冷え切っている。
それでもショコラは姉に憧れていたし、母親のことも好きだった。だから、なにも気づいていないふりをした。そのほうが平和だからだ。
――それなのに。
「……え……?」
母から告げられた言葉に、ぼうぜんと立ちつくした。
「だからね、お姉ちゃんは帰ったの」
「かえったって、どこに?」
「元のお家よ。おじいちゃんとおばあちゃんのところ」
「おねえちゃんのおうちは、ここでしょう?」
「違うわ。お姉ちゃんはあっちを選んだの。あの子はあたしたちを見捨てたのよ」
「うそ……」
「嘘じゃないわ。あの子は裏切り者よ!」
「うそ……うそ! うそだ! おねえちゃんはしょこをすてたりしないっ!」
「ショコちゃん!」
「ままのうそつきっ!!」
初めて親に反抗した瞬間だった。
伸びてくる母の腕をかいくぐり、ショコラは自分の部屋に閉じこもった。
布団をかぶり、姉を想ってわんわん泣いた。
「おねえぢゃぁん……! しょこがきらいになっちゃったのぉ? じょこがっ、わるいこだがら……っ、ぎらいになっぢゃっだのぉ?」
あの美しい姉に見捨てられたという事実が、ショコラの心に深い傷を残した。
しかし、その傷もすぐに癒える。姉が時折ふらっとやってきては、顔を見せてくれるようになったからだ。
以前ほど会う機会は減ったが、それでも嬉しかった。見捨てられたわけじゃなかったのだと安心して。
会えない期間は、彼女の中で姉を美化し、神格化させるのにじゅうぶんだった。
一方で、小学校に通うことになったショコラは、自分が姉のようなお姫様じゃないことに気がついてしまった。
自分は姉とは違う。
姉のような主人公にはなれない。
ただの群衆なんだ。
その思いは、ショコラの心に暗い影を落とした。
そのころから、彼女は姉に異常なこだわりを見せた。
――お姉ちゃんならできるのに、あたしにはできない。
――お姉ちゃんなら許されるのに、あたしには許されない。
お姉ちゃんなら、お姉ちゃんなら、お姉ちゃんなら。
すべてにおいて、自分と姉を比較し、しだいに卑屈になっていく。
そしてとうとうあの日、その思いを本人にぶつけてしまった。
「お姉ちゃんにあたしの気持ちはわからない! キレーな顔した、お姉ちゃんになんかっ!!」
そう叫んだ時の姉の顔は、今でも脳裏に焼きついている。
痛みをこらえるような、絶望したような、そんな表情。それはショコラ自身をも傷つけた。
あれ以来、姉はどこかよそよそしい。会いにくる頻度も減った。
(どうしよう。お姉ちゃんに嫌われた。今度こそ嫌われちゃった!)
怒鳴ってしまったから。やつあたりしたから。――姉のように、きれいじゃないから。
ならば、きれいになってやろう。姉のように。
そうしたらおそろいになる。そうしたら、あの人の隣に立てる。きっと許してくれる。
(あたしが醜いからいけないの。きれいになったら元通りになる。きっと、ぜんぶ、元通りに)
そうして母に頼んだ。「きれいになりたい」と。母は二つ返事で許可してくれた。
やり方はすべて母に任せた。病院に連れていかれて、手術をして。そうして、今の顔を手に入れた。
それなのに、まだ姉は許してくれない。
まだ足りないのだろうか。もっときれいにならなければいけないのだろうか。
もっと、愛されなければいけないのだろうか。あの姉のように。
――お姫様になりたい。
そう願っていたショコラの前に、再び姉が現れた。――恋人を伴って。
(あの人がお姉ちゃんのヒーローなんだ!)
ショコラにはすぐにわかった。
ヒーローなら、自分のことも助けてくれるかもしれない。ショコラの知らない姉のことを知っているかもしれない。どうやって姉を攻略すればいいか、教えてくるかもしれない。
そう思って近づいた。姉との橋渡しをしてほしくて。
最初はメールでのやり取りだけだった。そのうち、会って話すようになった。
和也と名乗った姉の婚約者は、とても優しい人だった。ショコラの話を面倒がらず、親身になって聞いてくれる。
姉の好きなもの、嫌いなもの、今の職業、働く姉の姿。
ショコラの知らない姉のことを、和也は教えてくれた。
それに、大人の男の人だけあって、食事はいつもおごりだった。同級生の男子とは違う。彼らはいつも割り勘で、和也に比べると子供っぽく見える。
それでショコラもすっかりなついて、いろんなことを話した。
学校のこと。勉強のこと。嫌いな教師のこと。――気になる、人のこと。
いつもショコラにそっけない、いじわるな男子。そのことを話すと、和也は憤った。
「ひどい男だな、ショコラちゃんをそんなに悪く言うなんて」
「そうでしょうか……」
「そうさ。キミはこんなに素敵で、魅力的なのに」
そう言って、髪をひと房すくうと、チュッとキスされた。
ギクッと身をこわばらせたが、胸がドキドキと高鳴っていることに気がついた。
(そうだ、漫画でよく見る、憧れのシチュエーション!)
学園の王子様が、平凡なヒロインの髪にキスをするシーン。あれにそっくりだった。
(でも、どうして? 和也さんは、お姉ちゃんのヒーローなのに……)
混乱するショコラに、和也はなおも言い募る。
「もし俺がキミのクラスメイトなら、放っておかないんだけどな」
これはどういうことなのだろう。その時のショコラには、まだよくわからなかった。
そうして秘密の逢瀬を重ねてしばらく。
とつぜん和也に呼ばれ、こう切り出された。
「俺が間に入るから、幸恵と仲直りしよう」
「えっ?」
「今日、幸恵が俺の部屋にくることになってる。だから、一緒に幸恵の帰りを待っていよう」
「でも……」
「怖がらなくてだいじょうぶ。俺がついてるよ」
そっと肩を抱かれて、また心臓がうるさくなった。身体が緊張でこわばる。
それをどう勘違いしたのか、和也は耳元でささやく。
「俺がキミを守るよ……」
「わ、わかりました」
気づけばそう口にしていた。
そのまま和也のアパートに連れていかれ、部屋に通されて。
出されたジュースを飲みながら待てど暮らせど、姉は現れなかった。
テレビ番組をぼうっと眺めていると、ふいに和也が大きな声を上げた。
「はぁ? これない?」
携帯を耳にあてて、誰かと会話している。その声には苛立ちが混じっていた。
「今日はお前の妹がきてるって言っただろ! お前、妹さんと仕事、どっちがだいじなんだよ!」
なんだか嫌な予感がして、ショコラは身を縮めた。
「あっ、おい! ……切れやがった……」
「……お姉ちゃんですか?」
「ああ。仕事が忙しくて、今日はこれないって。……あいつ、実の妹よりも仕事のほうがだいじなんだな」
「そんな……」
それは、ショコラを打ちのめすにはじゅうぶんすぎる事実だった。
ショックで泣き出す彼女を、和也は痛ましい目でながめる。
「泣かないでくれ、ショコラちゃん……。キミの涙を見るのはつらい」
「和也さん……」
「あいつのことは気にするな。きっと、ショコラちゃんに嫉妬してるんだよ」
「お姉ちゃんが……? ――あっ」
ふいに強い力で引っ張られて、気がつくとショコラは固い腕の中にいた。
「和也さん!?」
「これ以上、弱っているキミは見ていられない……俺に、キミをなぐさめさせてくれ……」
「え……?」
「だいじょうぶ。優しくするから」
「でも、和也さんにはお姉ちゃんが……っ」
「今は、あいつの名前を出さないでくれ。心配しなくていい。弱っている女性を慰めるのは、男の義務なんだから。そういうものなんだよ」
そういうものなのだろうか。これがふつうのことなのだろうか。
世間を知らないショコラには判断できなかった。
わけのわからないまま押し倒された時、ふと思った。
(……そういえば、携帯の着信、鳴ってたっけ?)
そんな小さな疑問も、触れ合ううちに忘れてしまう。
そうして流されるように関係を持った。それが、きっかけ。
その、和也が。
あんなに大人だと思っていた和也が、今はみっともなくわめき、ショコラにすがっている。
目の前の光景が信じられなくて震えていると、皇がかばうように背に隠してくれた。
「おっさん、いい年してストーカー? 恥ずかしくないの?」
(……ストーカー?)
思いもよらないことを言われた心地で、ショコラはまじまじと和也を見る。
げっそりと憔悴しきった顔に、ぼさぼさの頭。服だってしわだらけでみっともない。
(これは誰だろう?)
頼りがいがあり落ち着いた和也と、目の前の和也が結びつかなくて困惑する。
言葉が出なくて黙っていると、和也の癇癪はさらに増した。
「ストーカーじゃない! 俺はショコラの婚約者だ!」
「はあ? 妄想もたいがいにしろよ、オッサン。どう見ても四十歳くらいだろ。女子高校生と婚約者とか痛すぎ」
成り行きを見守っていた野次馬から、くすくすと忍び笑いがもれる。
「おっさんキモッ」
「女子高生に本気で恋するおっさんとかないわー」
「マジキモいよね。誰があんたとなんか付き合うかっての」
「どーせ結婚してもすぐジジイじゃん。介護とかするはめになりそー」
「年収一億円のおっさんとかなら考えてもいいけどぉ」
きゃははは、と嘲笑が上がって、ショコラは震えが止まらなくなるほど恥ずかしくなった。全身が燃えるように熱い。今すぐ消えてしまいたい。
(そっか、恥ずかしいんだ。あたしって恥ずかしいんだ。この人って恥ずかしいんだ!)
パッと視界が開けたように、目が覚めた。ついでに恋も冷めた。
どうしてこんな中年男のことを素敵だと思っていたのだろう。こんなの、ただの年を取っただけのおじさんなのに。
みんなよりお金を持っている? そんなの当たり前だ。学生と社会人を比べても仕方がない。
いったい今まで、なにをしていたのだろう。
みじめな思いで死にたくなる。
「シ、ショコラ……」
和也がすがるような目で見つめてくる。
「ひっ」
小さく悲鳴をあげて、ショコラは反射的に視線をそらした。
その時の和也がどんな表情をしていたか、彼女にはわからない。
狂ったような絶叫が轟いて、反射的に目をつむる。獣のような咆哮だった。
きゃああ、とあちこちから絹を裂いたような悲鳴があがる。
「――おい! そこでなにをしている!!」
男性教師の声がして、ピタリと不自然に怒号がとまった。
今が下校時刻でよかった、と胸を撫で下ろす。ちょうど見回りの教師が近くにいたのだった。
騒ぎを聞きつけた教師たちが集まってきたことで、どうにか事態は収束した。




